■ケンタッキーフライドチキン 2010.08.22
月1回、会社帰りに、ケンタッキーフライドチキンを買って帰る。大人用に、レッドホットチキン×7、子供用に、カーネルクリスピー×2、しめて、2100円ナリ。月に一度のゴージャスなディナーだ。
お気に入りは、レッドホットチキン。辛くて、スパイシー、そして、肉汁したたる揚げたてが、たまらなくジューシー。ところが、僕は腸が弱いので、刺激物を食べると、必ず腹痛をおこす。それでも、レッドホットチキンはやめられない。
ある夏の夜のこと。休日出勤を終え、ケンタッキーフライドチキンに立ち寄った。無骨なマイクに向かって、「レッドホットチキン7つと、カーネルクリスピー2つ」
「ありがとうございます。今、夏のチキン祭パックやってますけど、いかがですか?」「いらない」
「ひとくちケンタッキーが出ましたが、いかがですか?」「いらん」
だんだん機嫌が悪くなってきた。あげく、「レッドホットチキンは3つなら、今すぐお出しできるのですが、7つだと、10分お待ちいだだくことになりますが・・・」
ということで、ドライブスルーの列から離れ、駐車場で待たされることに。クルマのエンジンを切り、窓を開ける。暑いぃ~、今年の暑さは異常だ。ふと、顔を上げると、不思議な光景が飛び込んできた。
薄暗い町通りの中で、ケッタキーの店だけがポッカリ浮かび上がっている。店の前には、カーネル・サンダースがぽつん。トレードマークの白いスーツ、蝶ネクタイ、黒ぶちメガネ、それにくわえ、今宵は、真っ赤なハッピまで着せられている。風が強く、ハッピがパタパタなびくが、カーネル・サンダースは身動き一つしない。
なるほど、カーネル・サンダースは死した後も、こうやって、ケッタキーの店を守っているんだ。なぜか、感動した。
カーネル・サンダースは、言わずと知れたケンタッキーフライドチキンの創業者だ。じつは、僕は、この人物を昔から尊敬していた。
学生時代、何かで読んだ話・・・
カーネル・サンダースは、子供の頃から、料理に並々ならぬ才能をしめした。その天賦の才が、彼の人生を切り拓き、世界初のフランチャイズ「ケンタッキーフライドチキン」を生みだしたのだ。
古き良き時代のアメリカンドリーム。今の「おゆとり様」世代なら、歯牙にもかけないだろうが、貧しい時代の僕には、まぶしく見えた。
ところで、あの話は本当だったのだろうか?帰ってすぐに、日本ケンタッキーフライドチキンのウェブサイトを調べてみた。それによると・・・
カーネル・サンダース、本名ハーランド・サンダースは、1890年、インディアナ州ヘンリービルで生まれた。早くに父を亡くした彼は、母を助けて6才で料理を始めた。そして、7才のとき、彼が焼いたパンが弟妹と母に大喜びされた。このときの嬉しさを、カーネルは生涯語り続け、その感動が、「おいしいもので人を幸せにしたい」というケンタッキーフライドチキン(KFC)の理念へと受け継がれた。
いい話だ。歳をとると、こういう話にウルウルする。
その後、カーネル・サンダースは、家計を助けるため、10才で働きに出る。40をこえる仕事を経て、30才後半にガソリンスタンドをはじめた。ところが、大恐慌で破産。それでも、彼はあきらめなかった。
1930年6月、カーネル・サンダースは、ガソリンスタンドのそばに、6席しかない小さなレストランをはじめた。その目玉となったのが、あのフライドチキンだった。この店は大評判になり、店は大繁盛した。ところが、火事が起こったり、新しいハイウエーができて、人の流れが変わったり、苦難は続いた。
そして、1939年、カーネル・サンダースは試行錯誤の末に、フライドチキンのオリジナル・レシピを完成させる。それから70年たった今も、このレシピは、守られているという。
やっぱり、あの話は本当だったのだ!そのとき、ハッピ姿のカーネル・サンダースが脳裏をよぎった。身動きひとつせず、何も語らず、カーネル・サンダースは今も、店と秘密のレシピを守っているのだ。
by R.B