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週刊スモールトーク (第604話) 地図にないユートピア~エデンの園と桃源郷~

カテゴリ : 思想社会終末

2026.07.06

地図にないユートピア~エデンの園と桃源郷~

■異世界へようこそ

人間は、永らく、ユートピアを夢見てきた。

世界中に残る伝承や物語がその証左だ。失われた楽園「エデンの園」、秘境の楽園「シャングリラ」、牧歌的な楽園「アルカディア」、隠れ里の楽園「桃源郷」など、枚挙にいとまがない。

ユートピアは理想郷だが、反理想郷のディストピアというのもある。

たとえば、ジョージ・オーウェルの小説「1984」。

核戦争の後、3つの全体主義国家によって分割統治された世界。屋内外に仕掛けられた無数のマイクによって、国民は常に監視されている。さらに、仕事も生活も、当局が決めたルールに従い、歯車のように回転するだけ。そんな機械式の社会が、どこへ向かっているか、誰も知らない。偉大な指導者ビッグ・ブラザーも、実在する確たる証拠はない。

暗く、息苦しい世界だ。

自由万歳のリベラルにとっては地獄だし、ルールと規律を重んじるコンサバも、窮屈に感じるだろう。

「1984」は、原作の小説にくわえ、漫画版、映画版があるが、すべて秀逸である。とくに「オーウェル『1984』を漫画で読む」は、漫画ということもあり、敷居が低く読みやすい。しかも、独特の語りと画風は、ディストピア感を大いに盛り上げている。

ディストピアといえば、フィリップ・K・ディックの歴史改変SF「高い城の男」もはずせない。第二次世界大戦で、枢軸国側が勝利した世界で、舞台は、ドイツ第三帝国と大日本帝国に分割統治された米国。

「高い城の男」は、小説より、AmazonのPrime Videoのドラマ「高い城の男」の方が面白い。スケールが大きく、ストーリーも科学的で論理的だからだ。この世界では、第二次世界大戦で枢軸国側が勝利したが、連合国側が勝利した謎のフィルムが出回っている。このフィルムは偽造ではなく本物なのだが、それをパラレルワールドで説明したのが新鮮だ。

ドイツ第三帝国は、超ハイテクを駆使し、大陸間ロケット飛行(スペースXも計画中)、パラレルワールドを行き来する時空トンネルを開発している。異世界ファン、SFファンなら、脳汁ドクドク間違いなし。

製作総指揮は、映像の魔術師リドリー・スコット。大日本帝国がサンフランシスコを占領したら、あんな街並みになっていただろうと、信じてしまうほどリアルである。

ドラマ版は、アメリカ人にとってはディストピアだが、現実世界で敗北したドイツと日本にとってユートピアかというと、そうでもない。船の王者、日本と、ロケットを極めたドイツが、恐ろしい最終決戦に突入するからだ。どちらが勝つかは明々白々だが、物語は意外な結末を迎える。

というわけで、ディストピアは、ユートピアに負けずおとらず、人気がある。

人間は、ユートピア、ディストピアをこえて、異世界に憧れるのかもしれない。異世界ブームは、2010年初頭に始まったが、現在も拡大中。書店に行けば一目瞭然、専用コーナーが一画を占めている。

■エデンの園

ユートピアに話をもどそう。

語源は、16世紀のイングランドの思想家トマス・モアの風刺「ユートピア」とされる。一方、知名度では、旧約聖書の「エデンの園」が上だろう。

旧約聖書「創世記」によれば、人類はかつて楽園に住んでいたという。

はじめ人間アダムとイヴは、エデンの園で、何不自由なく暮らしていた。食するものは野にあふれ、大気は暖かく、着衣は不要。しかも、不老不死なので、悩みも不安もない。そんな至福の永世を生きていた。

ところが、あるとき、邪悪なヘビが、イヴをだましてリンゴの実を食べさせた。アダムも食べた。すると、2人は覚醒し、裸の恥ずかしさと、善悪を知った。それを知った神は怒り、アダムとイヴをエデンから追放した。

これが、エデンの園の追放劇だ。

アダムとイヴは、働くことを始め、子供をもうけて育てた。俗世の生活がはじまったのである。

エデンの園の追放劇は、たわいのない寓話のようにきこえる。

けれど、見方をかえれば、現実世界の写し絵にもみえる。

あるデータによると、旧石器人はヒマ人だったらしい。狩猟と採集のほかは、寝ていたという。働く時間は、1日、せいぜい3時間ほど。

ところが、新石器時代になると、人間は忙しくなった。穀物や野菜を栽培し、家畜を飼い、農耕文明がはじまったのだ。狩猟採集のように腹が減ったら働く、というわけにはいかない。栽培と飼育は、作物や家畜の生育にあわさないといけない。さらに、道具の改良も重要だ。新石器人はもう、寝てはいられない。食料が増えると、人口も増え、社会が複雑化していく。競争がはじまり、格差も生まれた。こうして、ストレス社会の原型ができあがったのである。

というわけで、楽園追放劇は、旧石器時文明から新石器文明への転換のアナロジーにみえる。

■エデンの東

人間の記憶には「意味記憶」と「エピソード記憶」があるという。

意味記憶は、「日本の首都は東京」のように、出来事や事実そのままの記憶である。

一方、エピソード記憶は、個人が体験したエピソードで彩色され、物語性が強い。たとえば「3歳のとき、お祖父ちゃんとバス停にいたら、はぐれてしまい、親戚の家に帰るしかないと、一度通っただけの道を思い出しだしながら、なんとかたどりついた。そしたら、捜していたお祖父ちゃんと親戚の人たちが、賢い子だと褒めてくれた」

エピソード記憶は、記憶の堅牢さで、意味記憶に優る。「事実×体験×感情」の融合記憶なので、検索キーが多彩で、思い出す糸口が多いからだ。老いて、記憶がまだらになり、日本の首都は忘れても、褒められたことは忘れないだろう(たぶん)。

ここで、意味記憶とエピソード記憶の違いを「エデンの東」で検証してみよう。

エデンの園ではなく、エデンの東?

イエス、その方が面白いから。

まず、意味記憶から。

楽園を追放されたアダムとイブには、二人の息子、カインとアベルがいた。神はアベルの供え物を喜ぶが、カインの供え物は受け入れない。嫉妬したカインは、あろうことか、アベルを殺してしまう。兄弟殺しの始まりだ。カインは神の元を去り、エデンの東のノドの地に移り住んだという(創世記第4章)。

出来事と事実だけが、簡潔に表現される。

では、エピソード記憶は?

個人的体験と感情がからむので、少し長くなる。

「エデンの東」は、神に嫌われたカインが移り住んだ場所なので、祝福された楽園ではない。一方、カインは元々神の子なので、呪われた地獄でもない。そこで、エデンの園から無縁ではないという意味をこめて「エデンの東」なのだろう。旧約聖書では「東」は、神から離れた方向、追放を意味で使われるので、辻褄があう。

じつは、「エデンの東」をタイトルに冠した名作がある。

ジョン・スタインベックの小説だ。ちなみに、映画化もされている。

物語はこうだ。

旧約聖書のカインとアベルの確執が、現代に生きるトラスク家の人間関係として描かれている。カインは神からの愛を、トラスク家のキャルは父親からの愛を求める。つまり、キャルはカインの写し絵なのだ。ただし、カインは悪人、アベルは善人という単純な構図にはなっていない。キャルは、悪人ではなく、葛藤する青年として描かれている。

スタインベックの主テーマは「ティムシェル」、ヘブライ語で「汝、意思あらば、可能ならん」を意味する。人間は、過ちも罪も犯すが、自分の意志で善を選択することもできる、ということ。

映画「エデンの東」は、映画史に残る名作だが、主役のジェームズ・ディーンに負うところが大きい。

ジェームズ・ディーンは、この映画が初主演で、一気に世界的スターへと駆け上がった。ところが、その半年後、愛車ポルシェ・スパイダーを運転中に、衝突事故で即死。享年24歳だった。気難しく、鬱屈して、孤独で、反抗的な性格は、映画のキャルと現実のジェームズ・ディーンと重なる。そして、哀愁ただよう美しい風貌。こんな俳優は、二度と現れないだろう。

長い話になった。

これがエピソード記憶版「エデンの東」だ。事実が、個人の経験と感情によって彩られている。

■桃源郷

「エデンの東」は、堕落と絶望の地獄でも、神が創造した楽園でもない。自ら選択し、間違いを犯しても赦される、中庸の楽園なのだ。

「中庸」は、安易な妥協や単純な真ん中を意味しない。何事も決めつけず、偏らず、事実をそのままうけいれ、最適な判断をする高度な思想だ。儒教の経典「中庸」に由来するが、古代ギリシャのアリストテレスも自著「ニコマコス倫理学」の中で論じている。日本では、中庸を語源とする政党もあるが、それは忘れよう。

さて、中国には、中庸を体現した楽園がある。

中国の詩人・陶淵明の「桃花源記」に登場する「桃源郷」だ。

4世紀、中国の東晋の時代、武陵の漁師が、川をさかのぼっていくと、美しい桃林があった。川沿いに、桃の木が延々と続き、花びらが舞い、他の木は一本もない。不思議に思った漁師は、さらに奥へ進む。すると、桃林の突き当たりに、小さな洞窟を見つけた。洞窟の入口は狭いが、勇気を出して進むと、突然視界が開けた。そこには、豊かな田畑、美しい池、桑畑や竹林、鶏や犬の鳴き声がある平和な村が広がっていた。人々は穏やかに暮らし、争いも貧困もない。

村人たちは、漁師を歓迎し、村の秘密をうちあけてくれた。彼らの祖先は、秦の始皇帝の時代の戦乱を逃れて、この地に入り、何百年も外界と隔絶していたという。漁師が、すでに秦は滅んで、今は東晋の時代であることを伝えると、村人たちは驚いた様子だった。

漁師は、数日滞在した後、村を発つことにした。そのとき、村人は漁師にこう念押しする。

「この場所のことを、外で話してはいけません」

ところが、漁師は約束を守らなかった。道々、目印を残しながら、来た道をもどったのである。村に着くと、役人に報告し、漁師が先導して桃源郷を探索した。ところが、どれだけ目印をたどっても、見つけることはできなかった。

桃源郷は、神が創造したエデンの園でも、人間が創造したネズミの楽園でも、デジタル神(ASI)が創造した人間の楽園でもない。自然発生した、自然と共生する平和な共同体だ。

そして、桃源郷は、陶淵明のオリジナルではなく、史実に基づいている。

というのも、中国の史書によると・・・

秦の始皇帝は、洞庭湖(どうていこ)を巡遊したとき、湘山(しょうざん)で大風に遭遇した。皇帝は腹を立てて、この災難は湘山に祭られた湘君のせいと決めつけ、受刑者3000人に樹木を切り払わせた。皇帝の逆恨みで、森林が破壊され、古来の信仰を根絶される、恐ろしい時代だ。そこで、一部の民が、秦の暴政をのがれて山中に入り、何百年も生きのびたという。

「桃花源記」の中の「祖先は、秦の始皇帝の時代の戦乱を逃れて、この地に入り、何百年も外界と隔絶していた・・・」そのままではないか。

桃花源記が史実に基づくことは間違いない。

それにしても、「桃花源記」の結末は衝撃的だ。

桃源郷は、どれだけ探しても、ニ度と見つからなかったのだ。

楽園は、一体どこへいったのか?

パラレルワールドだったのか?

それとも、元から存在しなかった?

ひょっとすると、桃源郷は、地図上の場所ではなく、心の中の場所なのかもしれない。

参考文献:
・週刊朝日百科 世界の歴史 1巻、4巻 朝日新聞社出版

by R.B

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