ファミリーヒストリー(2)~敷浪村とモーセの墓~
■敷浪村の謎
わが一族は、石川県の能登半島に根を張り、840年間、存続してきた。
その間、功をあげた者も、出世した者も、歴史に名を残した者もいない。今も昔も、平凡な一族だ。
それを記した古文書が、本家で見つかった。
その書によれば、最古の先祖は、名を「勝平」という。平家の下級武士で、1185年の壇ノ浦の戦いで討ち死にした。その息子の「勝次」は、生き延びて、京都、九州をへて、石川県の能登に移住し、「敷浪村」を開村した。
別の古文書には、こう記されている。
「敷浪村の初めは、七軒百姓より始まる。七騎落せし武者の末裔なりという。戦作法にて、八の字を忌み、七騎にて落ち延びる通例あり」
この2つの書を読み合わせると、
(記録にのこる)わが最古の先祖は、平家の下級武士で、1185年の壇ノ浦の戦いで討ち死にした。その子が、石川県の能登でに移住し、7、8騎の(平家)落ち武者とともに、敷浪村を開村した。それが、現在の宝達志水町敷浪村である。
敷浪村はいろいろ謎が多い。
まず「鎌倉殿の13人」と深い関係がある。
敷浪村が開村したのは1221年だが、承久の乱と時期が一致する。
正史によれば、承久の乱のとき、幕府軍は3方から京に攻め上がった。その一つが北陸道「鎌倉 → 越後 → 越中 → 加賀 → 京」だ。ただし、正確には「鎌倉 → 越後 → 越中 →【敷浪村】→ 加賀 → 京)」。つまり、敷浪村が抜けている。
じつは、越中(富山)から加賀(石川)に抜けるには、今も昔も「敷浪村」を経由するしかない。敷浪村は、古(いにしえ)より、国境(くにざかい)を越える重要拠点だったのだ。
というわけで、敷浪村の開村と承久の乱の時期が一致するのは、偶然とは思えない。
この村の謎は、まだある。
江戸時代、敷浪村は天領だったのだ。周囲の村は、すべて加賀百万石・前田藩の領地だったのに。
天領は、江戸幕府の直轄地で、石高が高いか、有用な鉱物や木材が採れるか、良港があるかで、選ばれた。ところが、敷浪村は何もない。それどころか、周囲の村にくらべても、土地が狭く、痩せている。海に面しているが、遠浅で、港は作れない。
これで、なんで天領なのだ?
■オリーブの巨木の謎
敷浪村には、まだ謎がある。
能登で最高峰の「宝達山」の麓(ふもと)に、モーセの墓がある。そう、旧約聖書に出てくるあのモーセだ。さらに、その近くに、地中海原産のオリーブの巨木がある。
このオリーブの巨木(左の写真)は、右横にある電柱から比定すると、樹高は20メートルはある(電柱は約13メートル)。わが家に植えたオリーブは、20年で樹高2メートルに成長したので、自然環境が同じで、生育速度も同じと考えれば、単純計算で樹齢200年?
つまり、このオリーブは、1823年以上前に植えられた可能性が高い。
でも、これはおかしい。
日本で、初めてオリーブが栽培されたのは、1879年(明治12年)である。フランスから約2000 本の苗木が導入され、神戸でオリーブ園が作られたのだ。その後、本格的なオリーブ栽培が始まったのは、1908年(明治41年)。農商務省が、香川、三重、鹿児島の3県で、試験栽培を行ったのだ。ところが、成功したのは香川県の小豆島だけ。オリーブが生育するのは、冬に雨が降り、夏には雨が降らず、乾燥した風が吹く地中海性気候区である。小豆島は瀬戸内海式気候で、地中海性気候に酷似しているから、唯一うまくいったのだ。
ところが、1823年以前に、豪雪地帯の北陸で、オリーブが生育していた?
ありえない。
冷静に考えてみよう。
第一に、明治政府が、国策としてオリーブ栽培に乗り出す前に、石川県能登のド田舎に、オリーブが存在した?
一体、誰が何のために植えたのか?
第二に、オリーブは地中海が原産で、温暖と乾燥を好み、寒さと湿気を嫌う。ところが、この地域は真逆だ。1年の半分が鉛色の空で、降雨が多い。しかも、冬場は、積雪が2メートルを超えることが珍しくない。
こんな環境で、オリーブが、200年以上生育した?
絶対ムリ。
これをオーパーツと言わず、なんと言う。
しかも、このオリーブの巨木は、実がたわわになっている。オリーブは、自家結実性がないので、1本では実がならない(例外はある)。ところが、周囲にはオリーブの木が1本もみあたらないのだ。
というわけで、敷浪村はいろいろ謎が多い。
■モーセの墓の謎
敷浪村は、関東からも関西からもアクセスがいい。
乗り換えは1回だけで、電車2本で行ける。
東京から敷浪は、
1.東京駅 → 金沢駅(北陸新幹線:2時間30分)
2.金沢駅 → 敷浪駅(JR七尾線:46分)
大阪から敷浪は、
1.大阪駅 → 金沢駅(サンダーバード:2時間40分)
2.金沢駅 → 敷浪駅(JR七尾線:46分)
東京からも大阪からも、所要時間は3時間強。がんばれば、日帰り旅行も可能だ。
ところが、敷浪駅に下車したらビックリ、何もない。しかも、西側は日本海に面し、東側は宝達山系が迫る狭窄(きょうさく)な地形だ。
だが、あっと驚く観光スポットがある。
モーゼパーク・・・そう、旧約聖書「モーセの十戒」にでてくるあのモーセだ。
早い話、モーセのテーマパークなのだが、目玉は「モーセの墓」。
真偽のほどはさだかではないが、宝達志水町は本気だ。町役場が予算を出して、テーマパークを作ったのだ。ちなみに、「モーセ」は「モーゼ」ともいうが、宝達志水町役場は「モーゼ」で統一している。まぁ、ここは大した問題ではない。
さっそく、モーゼパークを案内をしよう。まず「伝説の森 モーゼパーク」の門をくぐる(左写真)。青々とした森林と美しい大地が広がり、エデンの園を彷彿させる(見たことはないが)。
左手に、モーゼパークの全景の巨大マップがある(左写真)。モーセの墓をはじめ、12の観光スポットがあり、かなり広い。全体が森林に埋没しているので、森林浴にはうってつけ。
【モーゼパークの地図】
深い森に入ると、細い山道が続く。途中に「テラス浮船海望」と書かれた看板がある(左写真)。モーセがシナイ山から宝達山まで乗船した「天浮船」・・・あらら。
【テラス浮船海望】
山道をさらに登ると、突然、あたりが開ける。そこに、場違いに大きい石版がある。石版の中央に、モーセの石像の写真がプリントされ、左側は日本語で、右側は英語で何か書かれている。
その内容は驚天動地だ。
「モーゼはシナイ山に登った後、天浮船に乗り、能登(宝達山)に到着。『十戒』を授かり、三ツ子塚に葬られた。モーゼは583歳の超人的な天寿を全うし、宝達山のふもと、三ツ子塚に眠る」
おぉー、マジか?といぶかるのは、無粋である。この手の話は、真偽のほどは重要ではないので(わかってますから)。
とはいえ「伝説の森 モーゼパーク」は侮れない。この近辺では「白人の観光バスツアー・モーセの墓参り」は有名なのだ。10年前、父は誇らしげにこう語っていた。
「モーゼパークは、でっかいバスが横づけして、中からガイジンがゾロゾロ出てくる。国際観光地やぞ」
国際観光地!?
なにごとも、見方によるという話。
そこで、モーセの墓とオリーブの巨木を見方を変えて、妄想してみた。
モーセ一行が、シナイ山から天浮船に乗って、宝達山に降り立ったとき、地中海原産のオリーブの苗木をもちこんだ・・・モーセは地中海で活動した人物なので、場違いなオリーブの説明がつく。
一つのアイデアで、2つの問題を同時解決するから、これこそ真のアイデア。
まぁ、これも深く考えず、ネタということで。
だが、ネタでない謎もある。
豪雪地帯のオリーブの巨木。
承久の乱と敷浪村の開村が同じ年であること。
周囲の村の中で寂れた敷浪村だけが天領だったこと。
さらに、謎とは言えないが、面白い話がある。
本能寺の変が原因で、能登で大戦乱がおこり、敷浪村が軍事拠点になったのだ。そのとき、わが先祖は織田軍に協力し、戦後、褒美をもらったという。兵器庫を払い下げられ、以後、300年間安泰だったのだ。
これは正史には出てこないので、本邦初公開。
というわけで、正史と私的文書を読み合わせると、新しい史実が見えてくる。
by R.B