リンドバーグ(1)~スピリット オブ セントルイス〜
■奇妙な飛行機
チャールズ・リンドバーグの愛機「スピリット・オブ・セントルイス号」は、奇妙な飛行機だった。まず、正面に窓がない。かわりに、計器パネルが前面をおおっている。前が見えない飛行機でどうやって飛ぶのだ?
ところが、チャールズ・リンドバーグはこんな飛行機で、歴史上初の「大西洋単独無着陸飛行」をなし遂げたのである。子供の頃、この「大西洋単独無着陸飛行」という長ったらしいイベント名が気になった。「大西洋飛行」ではなく、「単独」&「無着陸」という言い分けがましい条件が2つもついている。こんな条件つきの飛行が、なんで一番偉いんだろう、と不思議に思った。
ところが、成人して、「スピリット・オブ・セントルイス号」の構造を理解したとき、その偉大さを思い知らされた。自動航行装置はもちろん、レーダーもない、前方が全く見えない飛行機で、たった1人で飛行したのである。しかも、33時間、不眠不休で。歴史年表に記された彼の不滅の業績を知る前に、この風変わりな飛行機を知るべきだった。
■オルティーグ賞
スピリット・オブ・セントルイス号の生みの親は「オルティーグ賞」である。実業家オルティーグが、大西洋無着陸横断を成し遂げた者に、賞金25,000ドルを授与すると発表したのである。そそられる話だが、当時は月にいくようなものだった。この時代、すでに郵便飛行機は飛んでいたが、日常的に墜落していた。だから、旅客機などというのは、バカげた妄想に過ぎなかった。飛行機は、それほど危険な乗物だったのだ。
というわけで、その気にさせるには目もくらむ大金が必要だった。カネに目がくらんだか、名声を求めたか、こんな危険な冒険に次々と挑戦者が現れ、命を落としていった。大本命とされたアメリカ軍のリチャードバード少佐までが練習中に事故で死亡。犠牲者はそれにとどまらなかった。リンドバーグに順番がまわってきたとき、すでに6人が命を落としていたのである。
世界的保険会社ロイドは、この冒険飛行の成功率は10%、とはじきだした。「成功率10%?10人に1人は成功する!」と考える人はリンドバーグ同様、冒険家向きだ。一方、「成功率10%?10人に9人が失敗じゃないか!」と悲観する人は、勤め人が向いている。そして、リンドバーグの母も後者だったようだ。リンドバーグがパリに向けて出発するとき、彼女は不安にかられ、「この歳になって、コロンブスにも母親がいたことを知った」と語ったという。なんとも気の利いた台詞だ。さすがはシェークスピアの国である。
ところで、リンドバーグはなぜこんな危険な冒険に挑戦したのだろう。カネに困っていた様子はない。父は、弁護士から下院議員になった人で、母も高校の化学の教師をしていた。リンドバーグ自身、郵便飛行パイロットで、収入もあったはずだ。たぶん、「血が騒いだ」のだろう。リンドバーグは、飛行そのものに恍惚感を感じ、危険な冒険をこよなく愛したのである。彼の人生の記録はそれを物語っている。
■スピリット・オブ・セントルイス号
リンドバーグは、この冒険飛行の成否はスピリット・オブ・セントルイス号にかかっていると考えた。そこで、自ら設計に参加したのである。
スピリット・オブ・セントルイス号の設計を請け負ったのはアメリカのライアン社。航空郵便の飛行機を設計・製造する社員40名の小さな会社だった。飛行は大気が安定する5月と決められたが、残された時間は2ヶ月しかなかった。一から設計している時間はない。そこで、ライアン社の標準機「ライアンM2型」を改良することになった。
機体の設計はドナルド・ボールが担当したが、リンドバーグは口うるさく注文をつけた。まず、リンドバーグは、ガソリンタンクを飛行機の前面に置くよう要求した。離着陸の衝撃で、引火・爆発することを怖れたのである。結果、前方はガソリンタンクで占められ、前方視界はゼロ。リンドバーグに見える世界は左と右だけだった。あとは計器に頼るしかない。
また、飛行距離は5800kmもあるので、ガソリンタンクの容量は1700リットルに拡張された。あともう少しで燃料切れでは、死んでも死にきれない。そして、最大の課題は軽量化だった。リンドバーグは、先に飛んだ挑戦者たちが失敗したのは、軽量化が不徹底だったから、と考えた。機体が重いほど、離着陸時の衝撃が大きく、機体が破損しやすい。また、機体が重ければ、その分燃料を食う。もちろん、燃料切れは命取りだ。だからこそ、軽量化は最優先だったのである。
ここまでは誰でも考えること。ところが、リンドバーグの「軽量化」は尋常ではなかった。まず、揚力をかせぐため両翼を4m伸ばし、14mにした。揚力が増えれば、エンジンの負担も減るので、航続距離がのびる。ところが、この改良で「スピリット・オブ・セントルイス号」はいかにも不格好になってしまった。そのアンバランスさは三面図からも確認できる。
また、失敗や遭難は想定外とされた。当然、パラシュートも無線機も不要、機体の外に放り出された。「死」より「失敗」を恐れたわけだ。リンドバーグの軽量化の貪欲は、それでおさまらなかった。その極めつけが乗員1人。それまでの挑戦者たちは、みな複数のクルーで飛んでいる。生死がかかった緊張が1日以上続くのである。しかも、秒刻みで状況が変化する恐ろしい世界。並みの神経ではもたないのだ。しかし、リンドバーグは決断した。自分の精神が敗北するかもしれないが、それに見合うメリットはある。1人でも減らせば、劇的な軽量化につながるからだ。こうしてわずか2.5トンの超軽量飛行機が完成した。現代の自動車2倍分である。
ここで、ちょっと余談。歴史に残る名機「スピリット・オブ・セントルイス号」を設計・製造したのは社員40名の零細企業だった!この時代、飛行機はまだ産業とよべるものではなかった。言ってしまえば、趣味の延長、家内制手工業の手造り飛行機。現代ではとても考えられないが。
ところが、小型飛行機を作るのはそれほど難しいことではないらしい。アメリカでは、今でも自作飛行機がさかんだ。300万円の飛行機キットまで売っている。プラモデルみたいに、自分で組み立てて飛ぶわけだ。もちろん、設計、パーツ製造、最終アセンブリまで1人でやる人も珍しくない。ただし、エンジンなど複雑な部品は購入する。定期的に開催される大会では、自分が望めば、飛行機のできばえを審査してもらえる。スマートさより、製造の精度と正確さが問われ、優れた飛行機には名誉ある賞が授与される。いかにもアメリカらしい。それにしても、自分が作った飛行機なんぞに、よく乗る気がするものだ。分別ある者には何ごともなし遂げられない、アメリカの繁栄の源泉はこのあたりにあるのかもしれない。
■フライトシミュレータ
スピリット・オブ・セントルイス号が完成すると、リンドバーグは十分な慣らし飛行を行った。1927年5月20日、リンドバーグは、ニューヨークのルーズベルト飛行場を飛び立った。左右の窓から見える小さな風景と計器、そしてルートマップだけを頼りに。そして、33時間後、パリのル・ブルジェ空港に無事着陸し歴史的偉業を成し遂げたのである。
この飛行がどれほど難儀か、フライトシミュレータを使えば簡単に体験できる。一昔前のパラパラ動画をイメージしていると、実物を見て仰天する。ほぼ写真なみの景観がスムースに動き、飛行感覚も相当リアル。というのも昔のフライトシミュレータと違って、物理の方程式にもとづき、それなりにシミュレーションしているからだ。
ここで、「それなりに」と付け加えたのは理由がある。じつは、現在のフライトシミュレータは完全なシミュレータではない。魔法の?パラメータを使い、擬似的に飛行を真似ているだけ。剛体力学や流体力学を適用し、まともに計算しようものなら、1秒間に1フレームも描けない。とはいえ、1秒間に60フレーム描かないと画面がカクカクして興ざめする。そこで、適当なところで折り合いをつけているのだ。シミュレーションというより「偽装」に近い。
もちろん、この物理計算を並列に処理できれば、処理速度は格段に向上する。例えば、100個の計算を並列処理すれば、処理速度はほぼ100倍になる。ここに目をつけたのが、アメリカのAGEIA社だ。この小さなベンチャー企業は、物理計算専用チップ「PhysX」を開発し、この世界の覇者をめざしている。
このチップを搭載すれば、3Dゲームが劇的に速くなるのは確かだ。そのため、3Dゲームに目がないオタクたちから熱い視線をあびている。だが、そんな興奮に水を差すようだが、このチップは成功することなく消えていくだろう。このような物理計算機能は3Dグラフィックチップに統合される運命にあるからだ。だから、生き残るのはNVIDIA社かATI社?とはいうものの、現在のフライトシミュレータは素晴らしい。ゲームと思って適当に操縦すれば、たちまち失速、墜落する。
また、空中戦でムリな急旋回を繰り返せば、Gにより失神するが、この失神まで再現する念の入れようだ。むろん、画面が真っ暗になるだけで、本当に失神するわけではないが。フライトシミュレータの中で、一番のお気に入りが、MicroProse社の「European Air War」だ。第二次世界大戦中の空中戦を体験できるソフトで、非常にリアルにつくられている。
250ページもある分厚いマニュアルには、操縦方法から空中戦の心得まで書かれている。ところが困ったことに英語。MicroProse社は軍事ゲームの老舗で、軍人を雇用し開発に参加させている。じつに、真摯なメーカーだ。だから、英語のマニュアルぐらいでくじけてはいけない。これさえ乗り越えれば、素晴らしい世界が待っている。イギリスのスピットファイアー、アメリカのP51ムスタング、ドイツのフォッケウルフ、そして世界初の実用ジェット戦闘機メッサーシュミットMe262Aなど、20種類もの戦闘機が操縦できるのだ。しかも、それぞれの操縦感が微妙に違う。ただ、それが正しいかどうかは分からない。実機で飛んだことがないので。
中でも、ジェット戦闘機メッサーシュミットMe262Aは素晴らしい。レシプロ機の最大速度はせいぜい時速700kmだが、Me262Aは、時速868km!ベルリン防衛飛行隊の一員となり、夕日が落ちゆくベルリン上空を飛ぶ眺めは、素晴らしい。リンドバーグが飛行機をこよなく愛したのもわかる気がする。やがて、アメリカ重爆撃B17の襲来を知らせる無線連絡が入る。ドイツ語なので何のことかサッパリだが、どうせやることは決まっている、撃墜あるのみ!フルスロットルで加速、たちまちB17を補足するが、速すぎて照準を合わせるヒマがない。機銃掃射をする前に、通り過ぎてしまう。悔しいので、誰もいない空中に機関砲を連射するが、3次元で沈みゆく弾道がくっきりと見える。なんともリアルな世界だ。
ということで、フライトシミュレータを体験するだけで、リンドバーグのすごさが分かる。フライトシミュレータは、前方が透明になるモードがあるので操縦しやすいが、スピリット・オブ・セントルイス号のように前方視界ゼロなら、操縦は至難。離着陸時の微妙なかげんは、計器だけでは難しい。
■リンドバーグ成功の理由
リンドバーグが成功した理由は3つある。第1に、リンドバーグのパイロットとしての技量。リンドバーグが並外れた飛行技術をもっていたことは確かだ。リンドバーグは飛行学校で学んだが、卒業時の成績は100人中トップ。また、飛行学校在学中、アルバイトで購入した中古のカーチスJN4-Dで、航空ショウに参加し、「命知らずの空中軽業師」で名をはせた。
そして極めつけは、第二次世界大戦。リンドバーグは、アメリカ合衆国大統領ルーズベルトと事を構えたため軍籍を返上し、第二次世界大戦が始まっても戦闘に参加できなかった。それでも、愛国心に燃えるリンドバーグは、1944年6月にニューギニア戦線にいく。戦闘機を評価するという名目で。
ところが、リンドバーグは戦闘機P38で出撃し、日本のゼロ戦と戦っている。もちろん、軍籍のない者が戦闘に参加するのは法律違反だ。ではなぜ、周囲は黙認したのか?リンドバーグは、この時40歳を超えていたが、飛行技術は若い現役パイロットたちを凌駕していた。
ある日、整備士はリンドバーグのP38が頭抜けて燃費がいいことに気づく。それを聞いた司令官のマッカーサーは法外な取引を申し出る。もし、リンドバーグがその魔法を他のパイロットに伝授するなら、どんな戦闘機にのってもいい、と。マッカーサーは自らすすんで、アメリカ合衆国憲法を破ったのである。
これらのエピソードは、リンドバーグの飛行技術が尋常ではなかったことを証明している。どんな華々しい偉業も、地力があってこそ。リンドバーグの成功の第2の理由は、異常なまでの正確さと緻密さ。この性質はリンドバーグがつくったルートマップに表れている。彼は自分が飛行する大西洋の情報を徹底的に収集し、分析した。その中には季節風まで含まれていたという。これらの情報をもとに、ルートマップに位置ごとに方向の修正情報を書き入れたのである。レーダーもない、左右視界のみの飛行では、正確で緻密なルートマップは不可欠である。
「命そのものが正確さに依存している」
リンドバーグの言葉である。リンドバーグの成功の第3の理由は、彼の父の言葉にあるかもしれない。この冒険の最大の課題は軽量化にあり、行き着くところ「1人乗り」。リンドバーグの父は「他人に頼るな」を徹底させ、決定的ともいうべき言葉を贈っている。
「2人でやるのは半人前、1人でやれば1人前」
シンプルで核心を突いたこの言葉こそ最大の功労者なのかもしれない。ところが、この1人旅はリンドバーグを破滅の縁にまで追い込んだ。リンドバーグがニューヨークのルーズベルト飛行場を飛び立って20時間たった頃、猛烈な睡魔がリンドバーグを襲ったのである。もし、この睡魔に負けていれば、リンドバーグの名は歴史年表から消えていただろう。リンドバーグのような希有の資質をもつ者でさえ、成否は紙一重、恐ろしい世界である。
「大西洋単独無着陸飛行」はリンドバーグの並外れた資質と努力なくしてありえなかった。とはいえ、やはり愛機「スピリット・オブ・セントルイス号」の功績も大きい。アメリカ人の思いも同じなのだろうか、この奇妙にして偉大な飛行機のレプリカは全米で15機もあるという。
by R.B