明の太祖・朱元璋(10)~一国一城の主~
■朱元璋の独立
1353年、朱元璋は勝負に出た。
内部抗争にあけくれる濠洲・紅巾軍を見限って、独立したのである。このとき、朱元璋はまだ26歳。つき従う部下はわずか24人であった。
ところが、それから1年足らずで、2万の精鋭軍をつくりあげた。さらに、有能の士も続々馳せ参じた。
知謀の馮国用(ふうこくよう)、勇猛な馮国勝(ふうこくしょう)、謀(はかりごと)にかけては天下一品の李善長・・・これで、兵と家臣がそろったわけだ。残るは領国。米びつがないと、兵も家臣も食べていけないから。
そこで、朱元璋は徐州に目をつけた。
「徐州」は朱元璋にとって因縁の地である。
というのも・・・
かつて、徐州は東系紅巾軍が支配していたが、1352年、元軍の猛攻をうけて陥落した。そのとき、紅巾軍を指揮してた彭大(ほうだい)と趙均用(ちょうきんよう)が敗残兵を率いて、濠洲に逃げ込んだのである。
迷惑したのが、濠洲・紅巾軍の5人の元帥だ。彭大と趙均用に土足で踏み込まれ、支配権まで奪われたのだから。
こうして、濠洲の内部抗争はエスカレートした。ところが、そのおかげで、朱元璋は独立できたのだから、朱元璋にとって「徐州」様々?
■徐州攻略
徐州は豊かな土地ではない。人口も少なく、行き交う商人もまばらだ。
ではなぜ、朱元璋は徐州を狙ったのか?
地政学的に重要な地点だから。
地図をみると・・・徐州は、元朝が支配する北方と、反乱軍が支配する南方を結ぶルート上にある。さらに、徐州は周囲を丘陵で囲まれた天然の要害。つまり、軍事的要衝だったのである。
前述したように、1352年、徐州は元軍に占領された。
このときの元軍は、総兵数10万、総大将は元朝の丞相・脱脱(トクト)という最強軍だった。ところが、徐州が陥落すると、脱脱は濠洲攻略を命じた。そのため、兵の大半は濠洲に割かれ、徐州軍は弱体化した。あげく、濠洲攻略軍は攻略に失敗し、総大将が死ぬとサッサと撤退してしまった。
つまり、徐州の元軍は孤立無援・・・
朱元璋はバクチをうたない男だった。
欲をかかず、確実な方法で、成果を積み上げていく。これが朱元璋流なのだ。そんな朱元璋にとって、徐州は絶好のターゲットだった。豊かではないが軍事的要衝、しかも、カンタンに取れそうだ。
1354年、朱元璋は徐州総攻撃を命じた。
先鋒は「黒先鋒」の異名をとる花雲、巨漢で勇猛果敢で顔が黒いのでそうよばれた。
花雲は単騎で敵陣を突破、それを見て将兵は奮い立った。全軍が怒涛のごとく押し寄せ、徐州はカンタンに落ちた。朱元璋は念願の領国を手に入れたのである。
■疑心暗鬼
朱元璋の株は急上昇した。
軍は精強で飛ぶ鳥を落とす勢い。しかも、軍規は行き届き、民も安心して暮らせるという。そんなウワサが広がり、たくさんの人が徐州に流れ込んできた。
そこで、朱元璋は内政がためにとりかかった。
方針は2つ・・・「養子を取る」と「人質を取る」。
養子と人質?
内政とどんな関係が?それが、おおありなのだ。
まずは養子取り。
朱元璋は、占領した定遠にいた沐英(もくえい)とその子を養子にし、性を朱とあらためさせた。さらに、朱文正、李文忠など、20人以上を養子にした。
子に恵まれなかった?
ノー、朱元璋には実子がいた。
ではなぜ、20人も養子をとったのか?
乱世は命の取り合い、「男は外にでると、7人の敵がいる」が日常。ところが、敵は内にも潜んでいる。内なる敵は油断するぶん、危険度は高い。本能寺の変はその良い例だろう。天下統一にリーチをかけた巨人・織田信長がカンタンにテロに倒れたのだから。
一方、朱元璋はそのヘンぬかりはなかった。ソ連のスターリン同様、究極のリアリストだったのだ。
スターリンの用心深さはすさまじい。
1937年、政敵、仮想敵、関係ない者まで「十把(じっぱ)ひとからげ」で、即決裁判で有罪にしたのだから。犠牲者の数は134万、その半分が処刑され、半分が強制収容所送りにされたという。
極悪非道!人でなし!
と責める前に・・・
スターリンが粛清しなかったら、逆に粛清されていただろう。「赤軍の至宝」と謳われたトゥハチェフスキー元帥によって。ちなみに、トゥハチェフスキー元帥は、1937年6月11日、反逆罪で処刑されている。
つまり、乱世では、やらなければ、やられる。「人間の命は地球より重い」なんてカッコつけていると、命がないのだ(福田赳夫元首相の言葉)。
スターリンは旧ソ連の事実上の建国者だが、若い頃の記録が少なく、不審な点が多い。革命派に属していたが、当時の政権・ロマノフ王朝の二重スパイだった可能性もある。スターリンの本質は複雑怪奇なリアリスト、いわば、スターウォーズの暗黒卿。だからこそ、暗黒のロシア革命の最終勝者になれたのだ。
■養子を取る
朱元璋もしかり。
極貧に生まれ、少年期に家族を失って天涯孤独となった。頼れるのは自分だけ。どこの馬の骨ともわからない輩を、どうして信じられよう。とはいえ、朱元璋は天涯孤独の身・・・
そこで、見込みのある人材を養子にして、一族にしたのである。
では、養子はどんな役目を果たしたのか?
将軍や重臣の監視。
歴史上よく似たケースがある。
古代ペルシャ帝国の「王の目」、「王の耳」である。
アケメネス朝ペルシャ帝国のダレイオス大王は、地方を統治するサトラップ(州知事)を監視させるため、「王の目」、「王の耳」とよばれる監察官を派遣した。
つまり、朱元璋の養子は、中国版「王の目」、「王の耳」だったのである。
朱元璋は、占領地の司令官に有能な人物をあて、監視役として信頼できる養子を配置した。これなら、統治もうまくいくし、謀反も防げる。
■人質を取る
つぎに、「人質を取る」だが、これも謀反防止策。
朱元璋の軍では、将兵の家族は必ず本拠地(京城=都)で暮らさなければならなかった。妻や愛人を遠征に同伴することはできないのだ。人質を取られたも同然で、寝返りや謀反はムリ。
ところが、それが裏目にでることもあった。
後に、朱元璋の暗殺未遂事件が起こったのだ。首謀者は信頼していた邵栄(しょうえい)。その理由だが、ジーンとくる・・・遠征続きで家族といっしょに過ごせない!
でも・・・
歴戦の勇士が、そんなことで謀反をおこすだろうか?
失敗したら、一族郎党、皆殺しなのに。
邵栄は朱元璋が独立した頃からの仲間だった。ところが、勢力が拡大するにつれ、朱元璋は雲の上の人になり、苦労をともにした仲間は大地とかまぼこ。やっとれん、ずいぶん、偉くなったもんだ・・・いまにみてろよ。
それが真相なのでは?
さらに・・・
朱元璋は、武官と文官が仲良くなることをひどく嫌った。そもそも、占領地の司令官(将軍)が、儒者をそばにおくことは禁じられていた。許されたのは文書係の官吏だけ。
「武力+知力」で強力な反対勢力ができるのを恐れたのだろう。
朱元璋は、官吏と儒者はみずから選んで、起用した。逃れる者は死罪。知識階級の知力をいかに恐れていたかがわかる。
中国史上、ここまで徹底した皇帝はいない。その疑心暗鬼ぶりは群を抜く。スターリンも真っ青だ。だからこそ、信長のような非業の死をまぬがれたのだろうが・・・
参考文献:
「超巨人朱元璋・運命をも変えた万能の指導者」原作:呉晗、堺屋太一、志村嗣生、志村三喜子、講談社
by R.B