日露戦争の原因(3)~義和団事件とロシアの陰謀~
■ナショナリズムかガス抜きか
「義和団事件」は奇妙な事件だった。
とっかかりは、中国人同士の暴力沙汰だったのに、「中国Vs.列強8カ国」の戦争にまで発展したのだから。
さらに、奇妙なのは、間違った「義和団事件」が流布していること。
通説によれば・・・
義和団事件は、中国民衆の「ナショナリズム」が生んだ外国排斥運動・・・たしかに、このときのスローガンは「扶清滅洋」だった。扶清(清朝をたすけて)、滅洋(西洋を滅ぼす)というわけだ。裏を返せば、西洋列強とロシアは、中国の国土を食い荒らしていたのである。この時代の中国は、清朝が支配していたので、清国とよばれた。
つまり・・・
西洋が清国を浸食→中国民衆の”愛国”暴動→清国と西洋列強の戦争
ゆえに、義和団事件の本質はナショナリズム、というわけだ。
ところが・・・
義和団事件の始まりは、ナショナリズムには程遠いものだった。早い話が、中国人同士の内輪もめ。しかも、実態は凄惨な暴力抗争だった。
そして・・・
事件が最初に起こったのは中国の山東省。
山東省といえば青島(チンタオ)。そう、あの安くてうまい「青島ビール」の産地だ。ただし、青島ビールは中国のオリジナルではない。ドイツ人が自国のビール技術を青島に持ちこんだのである。つまり、この時代、青島はドイツの租借地だった。そして、このことが「山東省=義和団事件の発祥地」につながるのである。
大航海時代以降、ヨーロッパ列強は、他国を植民地にするとき、「兵士と宣教師」をセットで派遣した。「身も心も」支配しようというわけだ。そして、このセット派遣は中国侵出でも踏襲された。
それが「山東省」とどんな関係が?
1895年、日清戦争で日本が勝利し、清国から遼東半島を割譲した。ところが、その2週間後、ロシア・フランス・ドイツが、日本に遼東半島を清国に返せと脅してきた。いわゆる三国干渉である。
三国相手では勝ち目がないので、日本が遼東半島を返すと、清国に恩を売ったロシア・フランス・ドイツは清国に見返りを要求した。
その結果、
1.ロシアは「遼東半島」を租借
2.フランスは「広州湾」を租借
3.ドイツは「膠州湾」を租借
いずれも清国領で、「租借」とは期限付きで領土を貸すこと。ただし実質は「自国領土」とかわらない。
結局、「日本に遼東半島」より、はるかに高くついたわけだ。では、なぜ、こんなおバカな顛末になったかというと、清国側の外交責任者・李鴻章がロシアからワイロをもらったから(露清密約)。
もっとも、「李鴻章のワイロ」は大した問題ではない。注目すべきはドイツがせしめた「膠州湾」である。
じつは、膠州湾は「山東省」の中にあった。そして、ここでまた、「青島ビール」に話がもどるのである。
というのも・・・
ドイツ人といえば、ビール大好き。そこで、山東省・青島にビールの工場を建設し、ビールを自給自足したのである。それが今の「青島ビール」というわけだ。
テキトー?
とんでもない!
青島ビール大好き(だった)人間が言うのだから間違いないです。
山東省にドイツ軍要塞が建設され、ビール工場も完成すると、(ドイツ人)宣教師が布教にやって来た。ところが、ドイツ人は日本人と並ぶ真面目な民族である。だから、布教の熱心さでは、他国の宣教師の追随を許さない。
くわえて、ドイツ人宣教師は現実的だった。やみくもに神の教えを説いたところで、信者は増えない。そこで、パンを配ることから始めたのである。この方法は、効果絶大だった。山東省の民は貧しかったからである。
人はパンのみにて生きるにあらず(マタイ福音書)
されど、
腹が減っては戦ができぬ(現実)
というわけだ。
事実、この後、満州鉄道が完備すると、山東省の食い詰めた漢人たちが旅順に渡った。そこから、満州鉄道で満州奥地に入り込んだのである。そこで、満州人に代わって田畑を耕し、飢えをしのいだのだった。
じつは、それまで、漢人は満州に入ることができなかった。清朝は、父祖の地「満州」を聖地と考えて、漢人の入植を制限したのである。ところが、財政が悪化したため、ゆうちょなことも言っていられなくなった。そこで、漢人に満州の田畑を耕させて、税金をとろうと考えたわけだ。その結果、満州における漢人の人口は激増した。
ドイツ人宣教師に話をもどそう。
彼らの”熱い”布教は徐々にエスカレートし、中国人の日常のトラブルにまで介入するようになった。もちろん、キリスト教徒側に味方して。当時は、西洋人が優位だったから、キリスト教徒はこれに勢いづいた。そして、キリスト教徒でない一般民衆を迫害したのである。
もちろん、一般民衆は面白くない。同じ中国人なのに、西洋の権威を笠にきて、エラそうに・・・
そんなこんなで、「キリスト教徒Vs.一般民衆」の対立は深刻なものとなった。それに拍車をかけたのが「郷紳」である。「郷紳」とは地方の有力者で、後に軍閥を生みだす原動力になる。
その郷紳が、ドイツ人宣教師に噛みついたのである。
「右の頬を打たれたら、左の頬を出せって?」
「人間は神の前では平等だって?」
テキトーなことを言ってんじゃねーぞ、やってることはキリスト教徒のえこひいきじゃないか。
こうして、中国人同士のプライベートな暴力沙汰が、
「宣教師+キリスト教徒Vs.郷紳+一般民衆」
にグレードアップしたのである。線香花火が巨大な火薬庫に変質したわけだ。ところが、これに火をつけた者がいた。「義和団」である。
■義和団事件
義和団は、土着の宗教と土着の拳法が合体した妖しい秘密結社だった。とはいえ、この手の集団は中国の歴史では珍しくない。中国史に度々登場し、何度も王朝を転覆させている・・・コワイ、コワイ。
1900年2月、その義和団が山東省で蜂起した。
スローガンは「扶清滅洋」、ここで初めて、「西洋人をやっちまえ!」が宣言されたわけだ。それまでは、中国人同士のタダの暴力沙汰だったのに。
つまり・・・
義和団事件は、「ナショナリズム」は後づけで、始まりも根っ子も、ガス抜き暴動だったのである。
その後の展開をみれば、明らかだ・・・
義和団は、各地でキリスト教会を焼き払い、外国資本の鉄道を破壊し、外国人が居留する天津、北京を占拠した。驚いた列強8カ国の公使団は、1900年4月5日、清国政府に対して義和団を鎮圧するよう要求した。
ここで、列強8カ国とは、北京に公使館(大使館)をおく帝政ロシア、イギリス、フランス、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、イタリア、アメリカ合衆国、大日本帝国である。
ところが・・・
清朝の最高権力者・西太后は、鎮圧するどころか、義和団の破壊と殺戮を「義挙」とたたえたのである。あげく、列強8カ国に宣戦布告し、八旗軍(国軍)を出動させ、義和団と協同で、列強のインフラを壊して回った。
列強8カ国相手に宣戦布告!?
アタマ大丈夫か?
ロシアからワイロをもらった売国奴の李鴻章でさえ、これには反対した。勝ち目がゼンゼンないから。
ではなぜ、西太后はこんなバカをやらかしたのか?
国際感覚の欠落。それだけではない・・・
列強に領土は割譲されるわ、鉄道の敷設権を奪われるわ、鉱山の採掘権をとられるわ、やられっ放しだったから。つまり、列強にムカついていたわけだ。もっとも、やられっ放しには理由があった。
まず、清国は日清戦争で負けて、日本への多額の賠償金を背負い込んでいた。しかも、金額は現在の貨幣価値で432兆円・・・払えるわけがない。そこで、ロシア・フランス・イギリス・ドイツは清国にお金を貸し付けて、その見返りに、租借地・鉄道敷設権・鉱山の採掘権をゲットしたのである。
ところが、その負担は重税となって、民衆の生活を圧迫した。当然、民衆の怒りは清朝に向かうと思いきや、正反対の列強に向けられた。義和団の「扶清滅洋」にのせられたのである。つまり・・・
すべて西洋が悪い、西洋をやっちまえ、それで問題解決!
こうして、清朝の八旗軍と義和団は、北京の外交官区(東交民巷)を包囲し、ドイツと日本の公使館員を殺害した。
日本の公使館員も?
イエス!
この時点で、日本は、清国の領土も鉄道の敷設権も鉱山の採掘権も持っていない。しかも、キリスト教とは何の関係もない。だから、「滅洋」でも「反キリスト」でも「ナショナリズム」でもなかったのだ。
というわけで・・・
義和団事件の本質は、不満爆発型のガス抜き暴動・・・
では身もフタもないので、大義名分の「扶清」、「滅洋」、「排外」、「反キリスト」をブチ上げたのである。とはいえ、公使館員を殺害するのは論外、ならず者国家といわれても仕方がないだろう。
それにしても・・・
2012年の反日暴動を彷彿させるではないか。
あのときの暴れっぷりも凄まじかった。日本企業の工場や店舗を破壊し、火をつけて回り、金目のモノを略奪、日本車に乗っていた「中国人」まで半殺しにしたのだから。もちろん、中国当局が主導する官製デモである。
じつは、中国では、こういうのを「愛国無罪」というらしい。なかなかうまいネーミングだが、「愛国暴動」の方が良くはないですか?
ちなみに、あのときは、「尖閣諸島戦争」寸前だった。1962年のキューバ危機を彷彿させますね(こちらは全面核戦争寸前)。
それにしても、気になることがある。
あのときの反日暴動が、ナチスがユダヤ人を弾圧した「水晶の夜」事件ソックリなのだ。1938年11月9日から10日にかけて、ドイツ各地で、ユダヤ人の住宅、商店、ユダヤ教の会堂が次々に焼き討ちにされた。警察には、介入しないよう事前通達されていたから、「ナチスの官製暴動」は間違いない。首謀者は、物的証拠はないが、ナチス宣伝相ゲッベルスだろう。
2012年の反日暴動に話をもどそう。
じつは、このとき、日本大使が乗った公用車の日本国旗も奪われている。もちろん、奪った者が悪いのだが、民意を考慮すると、ココを責めても始まらない。しかし、乗っていた丹羽大使は責められてしかるべきだろう。国旗を奪われて、ノコノコ逃げ帰っておきながら、中国の肩をもつ発言を繰り返したのだから。
これが”日本”の大使の言うこと?
人格を疑うレベルですね(あればの話だが)。
だって、そうではないか。
日本を代表する大使が、中国に非があるのは明らかなのに、日本を非難しているのだから。どうしても、好き勝手したいなら、これまでもらった給与を全部返してからにしなさい。日本大使の給与は、「中国」ではなく、「日本」の国益を守る代価として、税金から支払われているんですからね。公職者の給料泥棒は、世が世なら、市中引き回しの後、縛り首ですよ。
義和団事件に話をもどそう。
清国政府までいっしょになって、破壊と殺戮を繰り返すものだから、列強はたまらない。そこで、列強は共同で軍隊を派遣することにした。総兵力は3万3500名。中国に一番近い日本は、最も多い9000名を派兵した。
そして、肝心の戦況だが・・・一方的だった。
西太后が宣戦布告したのは1900年6月21日。それから2か月も経たないうちに、列強連合軍は首都の北京を制圧。続いて、8月14日、各国の公使館員と居留民を無事保護した。
宣戦布告した西太后は?
北京が陥落する前に、西安にトンズラしていた。
こうして、義和団事件は収束したが、清朝がうけたダメージは計り知れなかった。
1901年4月、清朝と列強は北京議定書(辛丑和約・しんちゅうわやく)を締結したが、清朝に対し「4億5000万テール」の賠償金が課せられたのである。
日清戦争で負けて賠償金「2億3000テール」背負い込んで、その肩代わりに、列強に領土、鉄道の敷設権、鉱山の採掘権をとられ、頭に来て、「西洋をやっちまえ」と気勢を上げたところ、借金が「6億8000万テール」に増えました・・・
シャレにならん。
清国の災厄はそれですまなかった。列強は、公使館員や居留民を警護する名目で、軍隊の駐留を認めさせたのである。屈辱的な話だが、こんな事件をやらかしたのだから、しかたがない。というわけで、義和団事件は一件落着した。
■ロシアが満州侵攻
ところが、ここで、仰天するような事件がおこる。
世界中の目が、義和団事件にクギ付けになっていスキに、ロシア軍が満州全土を占領したのである。
そして、今回も、事の始まりは青島ビールの「山東省」だった。
山東省の食い詰めた漢人が、満州に移住したことはすでに書いた。その漢人が、故郷の山東省で義和団が蜂起したこと知ると、勢いづいて、満州でも暴動を起こしたのである。外国人排斥、とくに、ロシアが敷設した「東清鉄道」は念入りに破壊した。
ロシア激怒?
ノー!
ロシアの陸軍大臣クロパトキンは、小躍りして、こう言ったという。
「チャンス到来!これで満州をおさえる口実ができた」
こうして、ロシアは満州の自国権益「東清鉄道」を守るため、17万7000人の大軍を満州に送り込んだのである。
17万7000人!?
義和団事件で、列強8カ国が投入した総兵力は3万3500人、なんとその5倍である。ロシアが、いかに狂喜乱舞したか、「幸運の女神には後ろ髪はない」をいかに信じていたかがわかる。いずれにせよ、ロシアは勝負に出たわけだ。
ロシアの戦力は圧倒的で、東三省の全域を制圧した。東三省とは、現在の遼寧省・吉林省・黒竜江省で、満州全土にあたる。
さらに、義和団事件が鎮圧された後、列強8カ国は軍を引き揚げたが、ロシアは撤兵しなかった。列強がそれを非難すると、ロシアはこう切り返した。
「鉄道の安全が保証されれば、すぐにでも撤退しますよ、ハイ」
一体、何をもって「安全の保証」とするのか?
厳密な定義などあるわけがない。つまり、ロシアは、満州から撤退するつもりはサラサラなかったのである。
これで、危機感をつのらせたのが日本だった。
満州の次は朝鮮・・・ところが、このとき、すでに、朝鮮はロシアの保護下にあった。ロシア軍がまだ侵攻していないのに?
イエス!
つまり、朝鮮は自主的にロシアの保護下に入ったのである。
なぜか?
三国干渉で、日本がロシアに屈したから。「ロシア>日本」と判断して、朝鮮王はロシアにくっついたのである。事大主義、つまり、「私は常に強い者の味方」というわけだ。
ところが、日本以外にも、ロシアを憎々しく思う国があった。イギリスである。イギリスは、世界のあちこちで、ロシアと植民地戦争を戦っていたのである。
たとえば、チベット。
イギリスは南方のインドから、ロシアは北方のモンゴルから、チベットに侵攻しようとしていた。そんなおり、東アジアでロシアが満州の制圧に成功、南下政策を着々と進めている。ところが、阻止しようにも、イギリスにとって、アジアはあまりにも遠い。
そこで、イギリスは、東アジアの最強国日本と手を組むことにした。それが、1902年1月に締結された「日英同盟」なのである。
同盟締結後、日本とイギリスは直ちに「ロシアの満州支配」に厳重抗議した。さすがのロシアも「イギリス+日本」を怖れて、ロシアは満州からの撤兵を約束した。
ところが・・・
約束は守られなかった。
それどころか、ロシアは、満州から鴨緑江をこえて、朝鮮に侵攻する構えをみせたのである。もし、ロシア軍が進駐すれば、朝鮮は完全にロシア領になる。
日本は満州はあきらめても、朝鮮まであきらめるつもりはなかった。朝鮮半島がロシア領になれば、日本とロシアは国境を接するも同じ、日本の安全保障は重大な危機にさらされる。
そんな状況下、日本国内で「ロシア討つべし」の気運が高まった。とはいえ、ロシアは、人口で日本の3倍、歳入額は10倍、兵力は15倍・・・逆立ちしても勝てる相手ではない。
こうして、進退きわまった日本は、外交に望みをたくすことにした。1903年8月、日本はロシアに、
「朝鮮半島は日本、満洲はロシア」
という妥協案を提示したのである。ところが、国力で圧倒するロシアはこれを拒否した。
この瞬間、東アジアの運命は決まった。
日本軍部内で主戦論が沸騰し、「勝ち目がないからやめとこう」の現実論は粉砕された。こうして、1904年2月6日、日露戦争が始まった。
つまり・・・
日露戦争は伸るか反るかの大バクチだったのである。
参考文献:
・真実の満州史、宮脇淳子【監修】岡田英弘、ビジネス社
by R.B