イエス・キリスト(1)~映画・パッション(受難)~
■映画・パッション
「パッション」は異色の映画だ。秘めたるパワーと、不人気(日本)のギャップが際立つという意味で。原題は「The Passion of theChrist」で「キリストの受難」。しかも、ストーリーは、「イエス・キリスト最後の12時間」これでブレイクは難しいだろう(日本で)。もっとも、監督メル・ギブソンは受け狙いでこの映画を作ったわけではない。構想12年、その意気込みはフィルムの細部にまでいきわたっている。まず、映画が始まっても、会話が聞き取れない。というのも、アラム語とラテン語。この時代、ユダヤ社会ではアラム語、ローマ帝国ではラテン語が使われたが、そこにこだわったわけだ。ということは、脚本もアラム語とラテン語?!”こだわり”はこれにとどまらない。町なみ、衣装、人、すべてがこれまでの映画とは違う。
まず、登場人物の表情。イエス・キリストをムチ打つユダヤ人の表情に、奇妙な違和感を覚えるのだ。国や話す言葉は違えど、やっぱり同じ人間、というカンカクがない。姿形は人間なのだが、顔の相が明らかに違う。もっとも、「2000年前の古代人」なら、振り向くほどヘンなはずだが。ということで、監督メル・ギブソンの”こだわり”には並々ならぬものがある。登場人物の表情にまで時代の空気を吹き込もうというのだから。もっとも、それが合ってるかどうかはわからない。遠い2000年前の話なので。
さて、肝心のストーリーだが、イエス・キリストが捕らえられ、延々とムチ打たれ、最後に十字架に架けられる、それだけ。監督メル・ギブソンの全意識は「イエス・キリストの受難」にフォーカスされている。もちろん、ただの受難ではない。地球全人類の罪をあがなうほどの大受難である。効率よく痛めつけるよう創意工夫されたムチで、肉体をジリジリ責め立てる。ムチとトゲは、皮膚をつらぬき、肉をえぐりだす。むき出しになった神経に、さらにムチが打たれる。死んだほうがマシと思うほどの責め苦が、延々とつづくのだ。しかも、その先に待っているのは「解放」ではなく「死」。大苦痛と大絶望、これ以上の受難はないだろう。
映画では、それにひたすら耐えるイエス・キリストが描かれる。ところが不思議なことに、不快感がない。なぜだろう?イエスを銀貨30枚で売ったユダ。命を賭してつきしたがうと約束しながら、次にニワトリが泣く前にイエスを裏切ったペトロ。イエス・キリストの最期を彩るエピソードも、すべてイエス・キリストの受難に結びつけられている。キリスト教世界にとって、イエス・キリストの受難がどれほど重要か、思い知らされる。
■イエスの受難
キリスト教は不思議な宗教だ。信者たちは信仰の証(あかし)として、十字架を身に付けるが、この十字架で自分たちの主(あるじ)が処刑されたのだ。自分が敬愛する人が殺されたとして、それにまつわるアイテムを肌身離さず持ち歩く?一見、不可思議な行動だが、ここにキリスト教の核心がある。また、無上の愛、光の世界を唱えながら、キリスト教には深い闇と血の歴史がある。325年、キリスト教の異端騒動に始まる「ニカイア公会議」では、アリウス派は異端として封印され、アリウスはリビアに追放された。16世紀の宗教改革では、カトリックとプロテスタントが対立し、凄惨な殺戮が行われた。さらに、十字軍の時代、今度はキリスト教徒とイスラム教徒が戦い、多数の血が流された。
つまり・・・キリスト教は、初めに受容すべき大前提がある。イエス・キリストの「血=受難」である。そして、この一点にフォーカスし、メル・ギブソンがすべてを注ぎ込んだのが映画「パッション」なのである。イエス・キリストの知名度は、おそらく、歴史上ナンバーワン。しかも、2000年の時を経た今も、文明に影響を及ぼしている。カエサルやナポレオンを想って暮らしている人はいないだろうが、17億人のキリスト教徒は、常にイエス・キリストとともにある。それに、メディアの扱いも別格だ。ベネディクト16世が第265代ローマ法王に選出されたとき、プレス報道はアメリカ合衆国大統領をしのいだ。このような時空を超えた歴史力は、過去のどんな国家、英雄にも見られない。
■イエスの奇跡
一方、イエス・キリストの言行には謎が多い。まず、母マリアは、処女のままイエス・キリストを懐妊した?そのまま受け入れられる人は少ないだろう。それに、うがった見方をすれば、母マリアは父ヨセフと結婚する前に懐妊していた?普通の社会なら倫理的な問題もあるだろう。さらに、イエス・キリストの奇跡は歴史学者たちを悩ませる。ただの水を葡萄酒にかえたり、病人を治したり、さらには死人を蘇生させたり。そして、クライマックスは「復活」。十字架刑の3日後にイエス・キリストは復活し、弟子たちの前に姿を現したという。もしこれが、神話やトンデモ本なら、ムキになる人はいないだろう。
ところが、ことは信者が17億人を数える大宗教。しかも、その核心部分である。常識を超えた話も理にかなった説明が必要だ。こうして、様々な解釈が生まれた。解釈の対象となる「聖書」は、大きく、旧約聖書と新約聖書がある。旧約聖書は「歴史物語=神話」なので、読むとそれなりに面白い。有名な「大洪水伝説~ノアの方舟~」もこの中にある。一方、新約聖書はイエス・キリストの言行録で、読むには気合いが必要だ。新約聖書はさらに4つの福音書、使徒の言行録、使徒の手紙、ヨハネの黙示録からなる。中でも「4つの福音書」はキリスト教で最も重要な書とされている。
■聖書の謎
ところが、「4つの福音書」には謎がある。「マタイによる福音書」、「マルコによる福音書」、「ルカによる福音書」の3書はほぼ同じ内容だが、「ヨハネによる福音書」だけ違う部分がある。「イエス・キリストの『最後の晩餐』の日付」である。たかが、ディナーの日付と思うなかれ、キリスト教にとって重大事なのだ。「ヨハネの福音書」によれば、最後の晩餐は「過越(すぎこし)の祭り」の前夜。ところが、他の3福音書によれば、「過越の祭り」の当日になっている。この違いがなぜそれほど重要なのか?それを知るには「過越の祭り」の意義を知る必要がある。
過越の祭りは、ユダヤ人にとって歴史的な意義がある。歴史をさらに1200年さかのぼろう。この時代、ユダヤ人はエジプトで奴隷同然の扱いを受けていた。そこに、指導者モーセが現れ、ユダヤの民を率いエジプトを脱出する。これが歴史の教科書にもある「出エジプト」。そして、これを祝う祭りが「過越の祭り」なのだ。「過越の祭り」では、ユダヤ人はエルサレムの神殿に屠(ほふ)られた子羊を家に持ち帰り、種なしパンと苦菜とともに食べて祝う。
ところで、この「過越の祭り」と「最後の晩餐」に何の関係が?「最後の晩餐」で、イエス・キリストは、「子羊は神殿で屠られた子羊ではなく、明日刑死するわたしの肉体である」と使徒たちに言っている。つまり、「最後の晩餐」は「過越の祭り」の前夜ということになる。これはヨハネの福音書に一致する。ではなぜ、他の3書では「過越の祭り」の当日なのか?ちなみに、「ヨハネの福音書」を書いたヨハネは、イエス・キリスト12使徒の中でただ一人、イエス・キリストの刑死に立ち会っている。聖書の解釈をさらに難解にするのが、聖書の表記法だ。聖書は特殊な技法を用いて、表面上の文章の背後に、真実を隠し、その技法を知る人だけが、それを読み取れる、という説がある。例えば、イエス・キリストの奇跡は誰でも説明に窮する。
ところが、もし、真実が行間に隠されているとすれば、理にかなった解釈も可能になる。それを暗示するのが新約聖書の一つ「ヨハネの黙示録」だ。内容は抽象的で、暗示的で、どんな解釈にもたえらえる。たとえば、「ヨハネの黙示録」第6章・・・そして、子羊が7つの封印の1つを解いたとき、わたしが見ていると、4つの生き物の1つが、雷のような声で、来たれ!と呼ぶのを聞いた。そして、見ると、見よ、白い馬が出てきた。その馬に乗っている者は、弓を手に持ち、冠が与えられ、征服のうえに、さらなる征服をなしとげるため出て行った。単語は分かるが文意は不明。研究者の数より、解釈の数の方が多いと言われるゆえんだ。書物は本来、情報を伝えるためのもの、これでは意味がない。とすれば、真実を読み取る秘密のルールがあったとしても、不思議はない。
■イスカリオテのユダ
そして、イエス・キリスト最大の謎は、イスカリオテのユダ。銀貨30枚で、神の子イエスを売った罪で、2000年間も呪われている。地球の長い歴史を見ても、これほど恐ろしい呪いはないだろう。しかし・・・ユダは、あのイエス・キリストが選んだ12使徒の1人。それなりの出来物だったはずだ。あるとき、マグラダラのマリアが高価なナルドの油を買い、イエス・キリストの体にそそいでいるのを見て、ユダはこう言ったという。「なんともったいない。その油を売ったお金を貧しい者にあたえるべきだ」慈悲深いととるか、計算高いととるか?少なくとも、軽率な人間にはみえない。ところがユダは、その後、受け取った銀貨を突き返し、首を吊る。最後の最後で、悔い改めた?それにしても自殺とは・・・一体何があったのか?背負った呪いに見合う理由が見あたらないのだ。ユダの裏切りの理由は2000年たった今も謎である。
参考文献:弓削達「ローマ帝国とキリスト教」河出書房新社
by R.B