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週刊スモールトーク (第251話) ニーチェと超人思想~超人と末人~

カテゴリ : 人物思想歴史

2014.04.26

ニーチェと超人思想~超人と末人~

■末人

末人・・・不吉な響きをもつ言葉だが、何の目的もなく、人生を放浪し、生をむさぼるだけの人間。哲学者ニーチェはそれを末人とよんだ。さらに、ニーチェは、このような末人が「神が死んだ」終末に出現し、ノミのように地球にはびこると予言した。

なんとも暗い未来だが、根拠はあるのだろうか?

今から3000年前、古代ギリシャでオリュンピア祭が始まった。4年に一度の競技大会で、現代オリンピックの起源である。ただし、競技種目は今よりずっと少なかった。水泳競技はなく、トラック競技、やり投げ、レスリング、ボクシング・・・早い話が「バトル(戦闘)」。つまり、スポーツの原点は疑似暴力(アグロ)だったのである。

ところで、オリュンピア祭で讃えられたのは?

もちろん、敗者ではなく、勝者。

つまり、この時代は、

・強者=価値が高い→善

・弱者=価値が低い→悪

だったのである。

じつは、「強者=善、弱者=悪」には科学的な根拠がある。そもそも、現実世界は「弱肉強食」。そして、われわれ人間が今あるのも弱肉強食のおかげ。弱肉強食セット「突然変異自然淘汰」で、原始細胞から人間に進化したのだから。

ところが、この自然の摂理にかなった価値観をユダヤ教とキリスト教が逆転させたとニーチェはいう。

つまり、

・強者=価値が低い→悪

・弱者=価値が高い→善

なんのこっちゃ?だが、気を取り直して、ユダヤ教とキリスト教のバイブル「旧約聖書」をチェックしてみよう。

じつは、「旧約聖書」は一人で一気に書きあげたものではない。複数の予言者のメッセージを編集したものである。内容は、壮大で一大叙事詩の感があるが、中にはユダヤ教徒への教訓もある。

たとえば・・・

ユダヤ民族は神に選ばれた民である。だから、唯一神ヤハウェを信仰せよ。そうすれば、神はユダヤ民族の敵をことごとく滅ぼしてくれる。

ところが、敵は滅びるどころか、増える一方だった。そして、1932年から1945年にかけて、歴史に残る「ユダヤ人の迫害」が起こる。ナチスドイツの強制収容所で、600万人のユダヤ人が殺害されたのである。震撼すべき犠牲者の数だが、「殺戮」視点でみれば、最悪でない。

というのも・・・

米国の図書館員マシュー・ホワイトの著書「ランキング・残虐な大量殺戮上位100位」によれば、歴史上、ナチスを超える大量殺戮は3つ存在する。

チンギス・ハーン(約4000万人)

・中国の毛沢東(約4000万人)

・ソ連のスターリン(約2000万人)

(※1)

もうすぐ1億・・・ここまでくると、残酷な殺戮も「数字」にしかみえない。

じつは、ユダヤ人を迫害したのはナチスだけではなかった。程度の差こそあれ、ヨーロッパ全土に蔓延していたのである(デンマークは例外)。

1894年、フランス、ユダヤ人将校の冤罪に端を発する「ドレフュス事件」。さらに、1940年、ナチスに占領されたフランス・ヴィシー政府は、過酷なユダヤ人政策を強行した。様々なユダヤ人法を成立させ、次々とユダヤ人を強制収容所に送り込んだのである。

特に、1942年7月に実施されたユダヤ人狩り「春風計画」は凄まじかった。フランス側官憲4500人がユダヤ人の住居を襲い、1万2884名を捕え、アウシュヴィッツ収容所に送り込んだのである。その徹底ぶりは本家ナチスを凌駕する。意外に思えるかもしれないが、フランスの反ユダヤ主義は歴史的にみて根が深いのである。

また、東ヨーロッパでもユダヤ人の迫害が横行した。たとえば、1930年代、ルーマニア、ハンガリー、ユーゴスラヴィア、チェコスロヴァキア、リトアニア、ポーランドで大規模な暴力沙汰が起きている。ユダヤ人が路上で襲撃されたり、住居が放火されたり、店舗が破壊されたのである。

とくに、バルト海諸国やウクライナでは反ユダヤ感情が強かった。そのため、第二次世界大戦中、多くの住民がドイツ軍に協力した。たとえば、1941年6月28日、リトアニアで起きた「死の砦事件」。コヴノの第9要塞でユダヤ人8万人が虐殺されたのである。

さらに、キリスト教もユダヤ人を差別した。

1936年、ポーランドで、それを象徴するような事件が起きている。

まず、キリスト教イエズス会の機関誌にこんな記事がのった。

「われらの子弟が、ユダヤの低劣な倫理観に汚染されないよう、ユダヤ人学校を別にもうける必要がある」(※3)

さらに、ポーランドのカトリック教会のフロンド枢機卿は、

「ユダヤ人たちが詐欺行為を働き、高利貸しを仕事とし、白人売春婦の売買をもっぱらにしているのは事実である」(※3)

それが事実かどうかはさておき、神がユダヤ人を助けてくれなかったことは事実だ。

そこで・・・

ユダヤ教の教えは変質した。力で勝ち目がないなら、道徳をでっちあげて、そこで優位に立とう。そして、このような価値観を集大成したのがキリスト教である・・・ニーチェはそう考えたのである。

ゴルゴダの丘で磔刑に課せられたとき、イエスはこうつぶやいた。

「父(神)よ、かれらをお許しください。かれらは何をしているのかわからないのです」

殺される弱者・イエスは、殺す強者・ローマ兵に哀れみをかけることで、「弱」から「善」に大変身したのである(命と引き替えに)。

つまり・・・

相手が力づくできたら、負けてあげましょう。力で負けても、本当に負けたわけではないから。そもそも、力づくで思いを遂げようなんてサイテー。神の前では、力をふるう方が「悪」で、犠牲者は「善」なんだからね。

こうして、ユダヤ教とキリスト教の出現によって、「強善弱悪→強悪弱善」のコペルニクス的転回が起こったと、ニーチェは考えたのである。

ところで、よく考えると・・・

「弱者=善」というのもヘンな話。

「強弱」は物理学、「善悪」は概念。属性が違うものをいっしょにしてどうするのだ?

■超人

ここで、ニーチェの哲理を一度整理しよう。

ユダヤ教とキリスト教は、現実世界で負けた恨みを晴らすために、精神世界で勝利しようとした。その仕掛けが「道徳」である。

つまり・・・

弱者は協調的で優しいので「善」。一方、強者は自己中で強引なので「悪」。こうして、強者は表彰台から降り、かわりに、弱者が上ったのである。つまり、弱者が勝者にすりかわったわけだ。

それにしても・・・

負けを素直に認めればいいものを、卑屈な話ではないか。そこで、ニーチェはこのような道徳を「奴隷道徳」とよんだ。奴隷道徳は、道徳の名を冠しているが、弱者を救済するための方便にすぎない。詭弁を弄して、正当化しようが、根源はひがみとねたみ。そこで、ニーチェはこのような価値観を「ルサンチマン(フランス語で「ひがみ・ねたみ」)」とよんで、忌み嫌った。

そして・・・

ニーチェの鋭い批判は祖国ドイツにも向けられた。ドイツ人もルサンチマン化しているというのだ。実際、ニーチェは著書「偶像の黄昏」の中でこう書いている。

「かつて思索の民とよばれたドイツ人は、今日そもそも、思索というものをまだしているだろうか。近頃では、ドイツ人の精神にうんざりしている・・・ドイツ、世界に冠たるドイツ、これはドイツ哲学の終焉ではあるまいか、とわたしは恐れている。ほかのどこにも、ヨーロッパの『二大麻薬』、つまり、アルコールとキリスト教、これほど悪徳として乱用されているところはない」(※2)

アルコールとキリスト教は「二大麻薬」!?

やっぱり、ニーチェはナチスのお仲間?

というのも、1937年9月12日、ニュルンベルクで開催された第9回ナチス全国党大会で、ヒトラーはこんな演説しているのだ。

「ボリシェヴィキ(ロシア共産主義)は、人類がかつて経験したことのない最大の危機であり、キリスト教出現以来最大の危機である」

ボリシェヴィキとキリスト教は「二大麻薬」!?

つまり・・・

ニーチェとナチスは、キリスト教(道徳)の天敵、そして、力の賛美者。だから、ニーチェとナチスはお仲間というわけだ。もちろん、ナチスは全体主義、ニーチェは個人主義という根本的な違いがあるのだが、ナチスの磁力があまりに強力なので、わずかな一致で、お仲間にされたのである。

ではなぜ、ニーチェはルサンチマンと道徳を否定したのだろう?

このような卑屈な考えは、人間本来の欲望を押し殺すと考えたから。

人間本来の欲望って?

今ハマっているアクションRPG「ディアブロ3」の世界なら、

・筋力:9999(最大値)

・敏捷性:9999(最大値)

・知力:9999(最大値)

・生命力:9999(最大値)

現実の世界なら、権力、金力、名誉!

ニーチェは、このような純粋で健全な欲望を「力への意志」とよんだ。そして、この意志を持ち続ける人間を「超人(ウーヴァーメンシュ)」とよんで、人間かくあるべしと鼓舞したのである。

ただし、ここでいう「超人」は、まれな資質を有し、困難な目標を成し遂げるスーパーマンではない。資質がイマイチで、成功の見込みがうすくても、自分の欲望から目をそらさず、挑戦する人間をいう。つまり、結果ではなく、意志。だからこそ、ニーチェは「力への意志」とよんだのである。

さらに、ニーチェは超人とルサンチマンがせめぎ合う未来を予言した。

ルサンチマンは、信仰によって骨抜きにされ、自分の欲望を直視することができない。さらに、自分というものがなく、「群れ」でしか生きられない。だから、本当は弱虫。ところが、それを認めず、道徳をでっちあげて、自分は上等だと言い張る。こんな独りよがりの妄想が、長続きするわけがないと。

その結果・・・

誰も神を信じなくなる。信じてもらえない神は、神ではない。ゆえに、神は死んだのだと。

その瞬間、道徳も崩壊する。なぜなら、道徳は神なくしてありえないから。

一神教の信者が道徳を守るのは、神罰を恐れるからである(少なくとも、そう教えられる)。ところが、神がいなくなれば、神罰もなくなる。つまり、「神が死んだ」瞬間、道徳も崩壊するのだ。

こうして、遠くない未来に、二大宗教的価値観「信仰と道徳」が崩壊する。そのとき、ルサンチマンはよりどころを失い、ただ生きながらえるだけの生き物になる。それが「末人」というわけだ。

一方、「超人」は、時代や環境に左右されることはない。自分で価値観をつくることができるから。だから、神が死のうが、既存の価値観が崩壊しようが、迷わず、まっすぐ生きていける。つまり、超人とは、何事にも束縛されない「自由」と、自己実現の「意志」を持った人間なのである。

これが、ニーチェの「超人思想」。

力強く、斬新で、カッコイイ。でも、暴力的で危険である。根っこにあるのは「背神」と「反道徳」、つまり、反宗教だから。

ところが、ニーチェは、初めは熱心なキリスト教徒だった。少年時代に、こんなことを書いている・・・

「神はすべてにおいて、あやまちを犯さないよう、わたしを導いてくださった。だから、わたしは一生を神への奉仕に捧げようと決心した」

一体、何がニーチェを変えたのか?

おそらく、「狂気」。

ドーパミン過剰の激しい性質は、中庸と安定を好まず、左右のどちらかに振り切れる。その結果、既存の価値のことごとく破壊する。それで、新しい価値を生めばよし、破壊でおわれば、その先に待っているのは・・・狂気の世界。

つまり、勇ましいニーチェの超人思想も、結末は超人か狂人か?

それを自ら体現してみせたのが、ニーチェ自身だったのである。

参考文献:
(※1)殺戮の世界史~人類が犯した100の大罪マシュー・ホワイト著、住友進訳早川書房
(※2)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」ベンマッキンタイアー(著),BenMacintyre(原著),藤川芳朗(翻訳)
(※3)ヒトラー全記録20645日の軌跡阿部良男(著)出版社:柏書房

by R.B

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