BeneDict 地球歴史館

BeneDict 地球歴史館
menu

週刊スモールトーク (第252話) ニーチェの相続人~実在した超人~

カテゴリ : 人物思想歴史

2014.05.10

ニーチェの相続人~実在した超人~

■狂人

既存の価値観にとらわれず、自分の欲望を直視して、突き進め!

こんな勇ましいことをぶちあげながら、言い出しっぺのニーチェは、4年後に発狂してしまった。

もっとも、「発狂」の予兆は1年前からあった。

1888年12月、ニーチェはスウェーデンの作家ストリンドベリに意味不明の手紙を送っている。ストリンドベリは偏屈な人種差別主義者で、アーリア人は神人、有色人種は獣人、そして、有色人種が生まれたのはイヴが悪魔と交わったから、というトンデモ説を信じていた(提唱したのはオーストリアの修道士ヨーゼフ・ランツ)。さらに、宗教を冒涜し、怪しい神秘主義にはまり、錬金術に熱中していたのである。

ところで、ニーチェの意味不明の手紙とは・・・

「あと2ヶ月もすれば、わたしはこの世で最高の名士になるでしょう。わたしには、政治的な力があります。わたしは王子たちにローマで会議を開くように命じました。若い皇帝がだれかに撃ち殺されるのが、わたしの望みなのです」(※1)

意味不明、そして不吉、でもどこか、新約聖書「ヨハネの黙示録」の臭いがする。

しかも、手紙のサインが「ニーチェ・カエサル」。

ニーチェの実名は「フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ」なのに、いつから、ローマ皇帝になったのだ?

一方、ストリンドベリの返信は、狂度において、ニーチェを凌駕する・・・

「わたしは狂いたい、狂いたい。ともあれ、狂うのは喜ばしいことだ」

うつ病どころの話ではない。実際、この二人は、相前後して気が触れてしまった。

つまり、こういうこと。

ニーチェは、「道徳や秩序より、自分の意志に従うべし」を固く信じ、アドレナリン全開で超人哲学を実践したあげく、気が触れてしまった。そして、精神病院に送られ、看護人の世話になりながら、不毛の余生を送ったのである。

超人を目指して狂人になる・・・なんという不条理だろう。

だが、問題はそこではない。

道徳や秩序より、個人の意志を尊重すれば、何が起こるか?

利害の衝突、つまり、戦争。

1934年、ヒトラーは、天才映画監督レニ・リーフェンシュタールに依頼し、ナチスのプロパガンダ映画を製作した。「意志の勝利」である。優生民族ゲルマン人は、「意志の力」によって、ヨーロッパとロシアを征服する・・・そんな「意志」がひしひしと伝わってくる。

そして、現実に・・・

1939年9月、ナチスドイツは東方に侵攻し、ポーランドを征服した。ついで、1940年6月、矛先を西方にかえ、1ヶ月でフランスを征服。さらに、1941年6月、ソ連領に侵攻し、首都モスクワにあと一歩まで迫ったのである。

これが、「力への意志」が生み出す現実。

一方、それをふせぐ手立てが・・・

右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい。敵を愛しなさい。

なのである。

ただし、ルサンチマンを擁護しているわけではない。

力でかなわないからといって、道徳規準で「やつらは悪人で、おれたちは善人」と陰口をたたいてみたところで、何の解決にもならない。野生の王国で、ライオンに囲まれて、道徳を説く人はいないだろう。

とはいえ、個人的には・・・

ニーチェの超人思想はピンとこない。

そもそも、宗教や道徳が、ひがみ・ねたみから生まれたとは思えないのだ。

たしかに、ニーチェが言うように、「高貴な道徳(一般的道徳)」と「奴隷道徳(宗教的道徳)」は違うかもしれない。でも、どちらも「人間のあるべき姿」を求めていることは確かだ。

それに、結果として、「治安と秩序」が保たれ、人々に平和をもたらす。

ところが、それが支配者の狙いだと、うがった見方をする人もいる。治安がいい方が、国民や信者を支配しやすいからである。

一方、ヒトラーのキリスト教批判は「道徳」など必要ない。とことん、直球勝負・・・

「キリスト教は、偽善と鋭いビジネス感覚が驚くほど巧みに組み合わされている。そして、人間の信念や迷信に巧みにつけこむのだ」

著書「神は妄想である」で、キリスト教をこき下ろしたリチャード・ドーキンスも真っ青だ。

とはいえ、支配する側の狙いがなんであれ、支配される側も「無秩序」は望まないだろう。つまり、結果として、道徳は大多数の幸福に貢献しているわけだ。

それに・・・

イエスの言動には、ひがみも、ねたもみ、卑屈さも感じられない。ルサンチマンのように、斜に構えて、自分を正当化するところもない。それどころか、人類の罪を一身に背負い、それを真っ向受け容れる気迫さえ感じるのだ。

それを巧みに描いた作品がある。メル・ギブソン監督の映画「パッション」だ。

この映画は、イエスの最後の12時間を描いているが、公開前から物議をかもした。ユダヤ教徒がイエスを拷問するシーンが、あまりに、執拗で、凄惨で、リアルだから(メル・ギブソンは聖書に忠実と主張)。そのため、「反ユダヤ主義」だと批判を浴びたのである。

それにしても、イエス役のジム・カヴィーゼルはドハマリだった。イエスは一度も見たことはないのに、ソックリに思えるのだ。余談だが、彼は今、TVドラマ「PERSON of INTEREST・犯罪予知ユニット」に出演している。じつは、このドラマはマジで面白い。Lostより、フリンジより、ユーリカより、ウェアハウス13よりずーっと(ホントですよ)。

話がそれた、「超人」にもどろう。

そもそも・・・

ニーチェのいう「超人(オーヴァーマン)」を目指しても、誰もがホリエモンジョブズになれるわけではない。確率的には、宝くじの方がまだマシ。宝くじは毎年当選者が出るが、ホリエモンやジョブズはそうはいかないから。

しかも、起業して失敗した時のペナルティは、宝くじどころではない。自己破産もありうるし、自殺する人もいるだろう。そのときは、もう一つの人生を思い起こすことになる。分相応に、堅実に、つつましく生きた人生である。

小さな庭に、1本のオリーブの苗木を植え、それが成長していく楽しみ。いずれ、自分の身長を超えることを期待し、それが実現したときに感じる柔らかな喜び。

そして、結婚。

「結婚は勇気のない男がする冒険」という格言があるが、著名な神話学者ジョーゼフ・キャンベルも「結婚は冒険である」と言い切っている。しかし、結婚しても、目の覚めるようなイベントが待っているわけではない。生計を立てて、子供を育てるのは地味な毎日の繰り返しなのだ。それでも、子供が独立し、自分も年老いて、人生の起承転結を振り返り、感慨にふける・・・そんな人生も悪くないのではないか。

危険をおかして、挑戦しないのは×というのは、子供の論理だろう。砂の上を行進するアリ、野に咲く一輪の花にも、尊い生命がやどっている。それは、見方によっては奇跡であり、驚嘆すべき光景なのだ。それをあるがままに感じる・・・それは自然の力であり、「力への意志」や「超人」、「道徳」や「末人」のような人工の概念ではない。

統計によると、80%の人間は命令することより、命令されることを好むという。

なぜか?

その方が楽ちんなのだ。

「お気軽>支配欲」というわけだが、それのどこが悪いのだろう。

とはいえ、一歩間違えるとルサンチマンになるので、注意が必要だ。

たとえば、今も昔も、居酒屋でよく見かけるのが・・・

口から泡を飛ばして、会社や上司の不満をぶちまけるサラリーマン。

これ、一種のルサンチマンですよ。気晴らしにはなるけど、はた目にはみっともないからやめましょう。それに、女性社員に嫌われますよ。先日、25歳の女性社員に聞いたところ・・・

職場で魅力的な男性とは、
・他人の悪口を言わない
・どこか謙虚さがある
・仕事ができる

なのだそうですよ(耳が痛い)。

さて、ここで哲学の原点に立ち帰ろう。

古代ギリシャでは、哲学は物理や数学と同じ「科学」だった(現在は自然科学と人文科学に分離)。だから、究極の目標は「真実」の発見にある。

では、真実とは?

宇宙の果てまで探しても、見つけることはできないだろう。真実は認知が前提で、認知は「自分」を媒体とするから。つまり、自分が感じたことが真実なのだ。だから、真実は「客観的な存在」ではなく、「主観的な認知」なのである。

ニーチェは、著書の中で、「真実の山」だけが登るに値するといった。

では、「真実」の基準は?

合理性、科学性、支持者の数・・・いずれでもない。自分が真実だと”感じた”もの。つまり、真実は究極の客観にみえて、じつは、一人に一つの主観なのである。

では、地球上には70億人分の「主観=真実」がある?

ノー、あなたの分一つだけ。

ところで、気になるのは・・・

発狂した超人と、正常な末人と、どっちがいい?

じつは、この質問もピントはずれ。

ルサンチマン、末人、超人、あるがまま人、なんでもいいから、自分に合うキャラで生きればいいのだ。

好きなキャラを選べってこと?

ちょっと違う。

「牛は馬にはなれんし、馬は牛にはなれん」

パナソニックの創業者、松下幸之助の言葉である。

■相続人

「魂の平和と幸福を望んでいるのか、それなら信仰するがいい。真実の信奉者になりたいのか、だったら研究するのだ」

ニーチェが妹に宛てた手紙である。

もちろん、ニーチェが選んだのは「真実の信奉者」だった。実際、ニーチェは、己の欲望に従い、自分の著作を売りだそうと、あらゆる手を打った。自費出版までしているのだ。ところが、注目されないまま、気が触れてしまった。

万事休す、奇跡でも起こらない限り、ニーチェに芽はない・・・

ところが、その奇跡が起こったのである。

発狂と妹エリーザベト・・・

皮肉な話だが、ニーチェは発狂して初めて注目をあびるようになった。新聞が話題性をねらって、ニーチェをとりあげたのである。ナウムブルクの精神病院に巣くう「狂気の哲学者」として。

そして、ニーチェの実妹エリーザベト・・・

彼女がいなければ、ニーチェが世にでることはなかっただろう。

エリーザベトは、兄フリードリヒ・ニーチェの才能を、早くから見抜いていた。彼の著作を理解したのではなく、動物的勘によって。というのも、エリーザベトは希有のプロデューサーだったのである。

じつは、ニーチェは発狂した時、膨大な未発表の原稿を残していた。ところが、それは原稿というより、思いつきやアイデアのたぐいだった。しかも、バラバラの紙に殴り書きされたメモ。これでは出版はおぼつかない。そこで、エリーザベトは、この断片を編集して出版することにした。

ところが、エリーザベトは兄ニーチェの哲学が理解できない。そこで、エリーザベトはニーチェの弟子ペーター・ガストを雇うことにした。彼はニーチェの誠実な友人で、よき理解者でもあった。そして、彼だけが、ニーチェの落書きを解読することができたのである。

こうして、エリーザベトは、兄の遺稿で一財産築くことができた。ところが、エリーザベトはその財産でのんびり余生を送ったわけではない。1892年7月、夫のベルンハルト・フェルスターとともにパラグアイに旅立ったのである。

兄の遺産で優雅な旅行?

ノー!

南米でドイツの植民地を建設するため。

ところが、当時のパラグアイは、政情が不安定で、気候は厳しく、インフラもなく、生きていくだけで精一杯だった。実際、エリーザベトとフェルスターをリーダーとする先遣開拓団は、現地で、家を建てるところから始めなければならなかった。

ではなぜ、そんな苦労をしてまで、植民地を作ろうとしたのか?

反ユダヤ国家を建設するため。

じつは、エリーザベトの夫フェルスターは、人の道に外れた反ユダヤ主義だった。彼はドイツがユダヤ人に汚染されていると考え、ユダヤ人のいない新天地で、ゲルマン人の植民地建設をもくろんだのである。

一方、エリーザベトは、はつらつとした愛くるしい女性だった。そして、老いてもなお、人を惹きつける美しさがあった。

ここに、一葉のモノクロ写真がある。エリーザベトの葬儀の写真である。目をこらすと、参列者の中に見覚えのある顔がある。

アドルフ・ヒトラー・・・

じつは、ニーチェとナチスを結びつけたのがエリーザベト、つまり、ニーチェの妹だったのである。

ニーチェの人生は波瀾万丈だった。しかし、エリーザベトの波瀾万丈はニーチェのはるか上をいく。ニーチェ哲学をプロデュースし、地球の裏側でドイツ植民地を建設し、ナチスを正当化するため、ニーチェを利用したのだから。

つまり、ニーチェの妹エリーザベトこそが、真の超人だったのである。

参考文献:
(※1)「エリーザベト・ニーチェ―ニーチェをナチに売り渡した女」ベンマッキンタイアー(著),BenMacintyre(原著),藤川芳朗(翻訳)
(※2)ヒトラー全記録20645日の軌跡阿部良男(著)出版社:柏書房

by R.B

関連情報