雑談AI(3)~ハイテク古都のルーツを求めて~
■蜃気楼の街
金沢は「新しい」と「古い」が共存する街だ。しかも、この2つの時空に継ぎ目はない。
「新」と「古」を超越した何かがあるのだ。
それは「粋」かもしれない。
加賀百万石を継承するひがし茶屋街と兼六園は「古」の象徴だ。一方、金沢駅から、近江町市場をへて、オフィス街の南町、繁華街の香林坊、夜の街片町に続くメインストリートは「新」の象徴だ。近代的なビルが立ち並び、モダンな風情だが、威圧感はない。かつて、13年間だけ存在した満州国の都「新京」を彷彿させる。洗練されて、美しく、力強いが、鉄とコンクリートを想起しない。過去と未来を彷徨する蜃気楼のようで、どこか懐かしい。
街並みだけではない。金沢は産業も「新」と「古」が共存している。
「古」の代表が伝統工芸だ。
明治時代、金沢は絹織物の主要産地だった。その後、絹織物が衰退すると、加賀友禅などの染色工芸、和菓子、漆器が盛んになった。
金沢の街を散策していると、小洒落た和菓子をよく見かける。これには理由がある。金沢は一人あたりの和菓子消費量が日本一なのだ。
そして、伝統工芸の真打ちは「金箔」。生産量では日本一で、シェア99%を誇る。独占といっていいだろう。
ところが・・・どれもこれも「地味」。
金沢は、明治時代、日本で5番目の大都市だった。江戸時代までさかのぼれば、加賀100万石で、ぶっちぎりの日本一。それなのに、産業といえば織物と伝統工芸・・・
なぜか?
■加賀百万石のコンプレックス
「地味」の理由は、加賀百万石にある。
そもそも、加賀藩の開祖「前田利家」からして地味。
戦国時代といえば、織田信長、羽柴秀吉、明智光秀、徳川家康、武田信玄、上杉謙信・・・時代を創った巨人たちだ。
ところが、前田利家といえば・・・「槍の名人」、「婆娑羅(バサラ)」、マニアを喜ばすだけの存在。だから「地味」なのである。
事実、「前田利家」が認知されたのは、NHK大河ドラマ「利家とまつ〜加賀百万石物語〜」が放映されたあとだった。
「地味」にはもう一つ理由がある。
加賀藩が外様大名だったこと。
少しでも謀反の疑いがあれば、難癖つけて、お家断絶・・・徳川家康伝来の陰湿なやり口だ。だから、目立たないようにしたのである。
その象徴が「鉛瓦」だろう。
「鉛瓦」とは、木製の瓦の上に、薄い鉛板を貼り付けたもの。鉛瓦は、江戸時代、他藩でも使われたが、城、城門、塀、すべてに使われたのは金沢城だけ。加賀藩は鉛の採掘量が多かったが、理由はそれだけではない。
幕府軍に攻め込まれたら、鉛瓦を溶かし、鉛を抽出して鉄砲の弾丸を鋳造する。ありふれた瓦に見せかて、戦時には「弾丸」に変身する。涙ぐましい外様の知恵だ。
加賀藩の「猫かぶり」はそれだけではない。謀反の意がないことを示すため、地味な伝統工芸に精を出したのである。
ところが、1980年代に入り、金沢の産業に「新」が生まれる。コンピュータ産業だ。
■金沢のIT
現在、人口わずか数十万の金沢圏に、東証1部9社、東証2部5社のコンピュータ関連企業が本社をおく。さらに、IT関連の中小企業の数が多い。結果、ITの就業率が高くなっている。
これは行政の力が大きい。
石川県政の方針は単純にして明快だ・・・
加賀百万石の古い文化は大切にする。くわえて、新しい産業も促進する。ハイテク産業の工場誘致にも積極的だ。最近、液晶パネル大手「JDI」の白山工場が本格稼働を開始した。東京ドーム3.5個分の超巨大工場で、投資額は1700億円にのぼる。
一方、スタートアップ(起業)にも優しい。
インキュベーション(卵を孵化させる)の環境も整っている。まずは格安オフィス。金沢駅から車で5分、県庁から徒歩5分の場所で、1坪1万円(共益費込み)。同じ条件なら、東京は3倍するだろう。
容れ物だけではない。技術支援も充実している。
国立の大学院大学「北陸先端科学技術大学院」、旧制第四高等学校を継承する「金沢大学」、IBMのAI「ワトソン(Watson)」を導入し、街丸ごとAI化をもくろむ「金沢工業大学」。これらの大学は基礎技術を企業に提供し、産学連携に貢献している。
その結果、金沢圏のコンピュータ関連企業は大きく発展した。
世界トップクラスの企業がひしめくメカトロ分野(機械+コンピュータ)、ITでは周辺機器メーカーのI-ODATA、液晶モニターのEIZOが有名だ。
一方、隠れた大企業もある。
PFU・・・「スキャナーで自炊」を愛する人の御用達、そう、PFUはスキャナーのトップブランドなのだ。事実、主力の「ScanSnap」は世界で400万台を販売した。
ところが、PFUの認知度は低い。
コンピュータのハードとソフトをこなせる数少ないハイテク企業なのに。じつは、「事業仕分け」で話題になった世界一のスーパーコンピュータ「京」も、PFUが製造している。
しかも、PFUの資本金は150億円、年商は1400億円。規模と経営成績なら、ピカピカの東証一部上場企業だ。ところが、いまだに未上場。というのも、PFUは富士通の100%小会社なのだ。
PFUのサプライズはまだある。じつは、PFUこそが「金沢のIT産業のルーツ」なのである。
■PFU
PFUの前身は、1960年に設立された「ウノケ電子工業」。石川県の宇野気町に創業されたのでこの名がついた。
創業者はこの宇野気町で生まれ育った竹内繁。幼少期から神童といわれた。長じると「東京大学→高級官僚→日立製作所」と華々しい人生を歩む。日立では、汎用大型コンピュータ第一号を開発している。
その後、故郷の宇ノ気町に帰り、「ウノケ電子工業」を創業した。オフコン「USAC」を開発し、世に送り出したのである。これが、日本のコンピュータ・ベンチャーの魁(さきがけ)となった。
やがて、ウノケ電子工業は経営不振におちいり、最終的に富士通の軍門に下った。竹内繁は会社を追われ、金沢工業大学の教授となった。ところが、それでおさまる人間ではなかった。
竹内繁は学長とケンカして大学を去り、バンテック・データ・サイエンスを創業したのである。「バンテック」は「VanTechnology=先端技術」からとった名称で、その名に恥じないハイテク企業だった。
バンテックはペンタッチ式のオフコンで大きく成長した。ボーナスを年に3回だすほどで、社員数も100名を超えた。ところが、そこがピークだった。
なぜか?
竹内繁はまぎれないもない天才だったが、先が見えすぎたのである。
一般論だが、2年先が見えれば成功する。しかし、10年先が見えると失敗する。竹内繁の最後の家臣団の一人として、それを目の当たりにしたのである。
■ハイテクの功罪
1980年代、CPUは8ビットが主流だった。ところが、バンテックが採用したのは16ビットCPU。半導体の名門、テキサス・インスツルメンツ社が開発した「TI9900」である。このチップは、当時主流のインテルやザイログの8ビットCPUとは「別モノ」だった。処理速度、扱えるデータ量が桁違いで、アーキテクチャーは高度に洗練されていた。
洗練されたアーキテクチャー?
CPUの命令が、シンメトリックで覚えやすい。さらに、1命令で多くの処理がこなせる。当時のプログラム言語はアセンブラ(CPUに依存するネイティブ言語)だったので、恩恵は大きかった(高級言語ならCPUのアーキテクチャーは見えない)。
反面、ハードと開発環境は複雑になるので、コストアップする。
バンテックのハイテク指向は、CPUにとどまらなかった。
外部記憶装置としてハードディスクを採用したのだ。
ハードディスクは今はコモディティだが、当時は最先端デバイスだった。その頃の標準的な外部記憶装置「フロッピーディスク(FDD)」にくらべ、処理速度も記憶容量も桁違い。ところが、動作がおそろしく不安定だった。そこで、制御回路を工夫したり、ノイズ対策を徹底したり・・・腫れ物に触るようなものだった。当然、コストは上昇する。
さらに、シリアル通信。
シリアル通信とは、1本のデータ線でデータを(直列)送信すること。8ビットデータなら、上位あるいは下位から順番に、1ビットづつ送信する。8本のデータ線を使えば一括送信できるが、部品点数が増え、コスト高を招く。
当時、シリアル通信といえば「RS-232C」だった。通信速度は9600bps。現在のインターネットをささえるイーサネット(1Gbp)の「1/100000」だ。1TBのハードディスクを丸ごと送信すれば「26年」もかかる。
そこで、バンテックは、自社オリジナルの「SMPX」を開発した。RS-232Cとは桁違いに高速なシリアル通信だ。ところが、電子機器は高速なほどノイズに弱い。信号とノイズの区別がつきにくいし、ノイズの発生源にもなるから。そのため、開発コストが増大した。
■インターネットを預言した男
こうして、コストは上昇する一方だった。
スペックは高いにこしたことはないが、割高なら誰も買わない。買う側にしてみれば、CPUが8ビットか16ビットかはドーデモイイ。アプリが走ればそれでいいのだ。そこで、販売価格は8ビットCPUなみに抑えられた。
どうやって?
社員の給料が抑えられた。ボーナスはナシ。残業は月に200時間を超えたが、残業手当はゼロ。社員の不満はたまる一方だった。
ある日、竹内繁は言った。
「やがて、世界中のコンピュータが電話回線でつながる」
エンジニアたちは思った(口に出したら怒鳴られる)。
「いつの話?」
命令が発せられた。
「いつやるか?今でしょ!」
こうして、恐ろしい開発が始まった。
「コンピュータ→電話回線→コンピュータ」である。
それの何が恐ろしいのか?
当時の電話回線はアナログである。ところが、コンピュータはデジタル。だから、翻訳が必要なのだ。
まず、送信側のコンピュータから出力されたデジタル信号を、アナログ信号に「変調」する。変調されたアナログ信号は電話回線をノロノロ伝わり、受信側コンピュータに達する。そこで、再びデジタル信号に「復調」する。この変調と復調を行う「翻訳」装置がモデムだった。
ところが、モデムは高価で、速度が遅かった。いいとこナシだが、そもそも「電話回線」を使うことにムリがある。通信速度は300bpsと「亀さん」なみ。しかも、アナログ回線なのでノイズ乗りまくり。音声通話ならノイズが乗っても成立するが、デジタルデータは1ビット化けただけで破綻する。
つまり、デジタルデータをアナログ回線で送るのは、狂気の沙汰なのである。
結果、開発者は死ぬほど苦労した。そのぶん開発工数は増え、コストは上昇する。
もっとも、200時間残業して残業手当はゼロなのだから、大勢に影響はない・・・
ちょっと待った。黒光りの「ブラック」じゃん!
30年前なので時効です。
というわけで、竹内繁は時代を先取りしすぎたのだ。というのも・・・
それから10年後、アメリカで商用インターネットが始まった。さらに、30年後にはインターネット社会が開花したのだから。
■雑談AIの挑戦
男は黙ってサッポロビール・・・昔、流行したCMのキャッチコピーだ。男は「無言実行」というわけだ。ところが、その後一転、「有言実行」が推奨された。自分の意見をはっきり述べて実行せよ、というわけだ。
あたりまえ?
場合による。
というのも・・・
竹内繁は、有言不実行なら、予言者として称賛されただろう。ところが、彼は有言実行だった。歯車とネジの時代に、コンピュータを作ろうとした19世紀のチャールズ・バベッジのように。
今でも、竹内繁を鮮明に覚えている。
この世で巡り合った唯一の「天才」だったから。
思考と発想は電撃で、逐次処理ではない。いきなり結論に達するのだ。「脳のアーキテクチャー(基本構造)」が違うとしか思えない。
1970年代、汎用大型コンピュータの時代、日本の勝ち組は富士通だった。その功労者が池田敏雄だ。彼はまぎれもない天才設計者だった。そして、その頃のライバルが日立製作所。
もし、竹内繁が日立にとどまっていたら、「富士通(池田敏雄)Vs日立(竹内繁)」の別の歴史になっていたかもしれない。というのも、日立時代、竹内繁の部下だった人物が、のちに日立のコンピュータ事業部長になるのだから。
結局、富士通は成功し、池田敏雄は伝説となった。しかし、竹内繁の名は残らなかった。歴史から消された天才科学者ニコラ・テスラのように。
どう考えても、天才は割に合わない。
そして、ここにも、ダーウィンの適者生存の法則が垣間見える・・・突き抜けてはならない、何ごともほどほどに。遠い未来を見通すのはいい、だが、実践してはならない。破滅するから。
事実、バンテックは倒産した。
結果・・・
先端技術をもったコンピュータ技術者が市場に放出された。彼らは引く手あまただった。とういうのも、当時、16ビットCPUの設計者は日本で300人と言われた。さらに、大きな需要があった。「機械をコンピュータで制御する」の黎明期で、県内の機械メーカーがこぞって採用したのである。
こうして、バンテックの卒業生たちは、金沢のコンピュータ産業の「ブラザー」となったのである。
そして今・・・
最後の残党が「雑談AI(人工知能)」に挑もうとしている。劣化版の竹内繁DNAに勝ち目はあるのだろうか?
by R.B