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週刊スモールトーク (第51話) ヨハネの黙示録(1)~オーメン666〜

カテゴリ : 思想

2006.06.16

ヨハネの黙示録(1)~オーメン666〜

■オーメン666

「オーメン」は1976年に公開された映画で、世界中で大ヒットをとばした。そして、正統派オカルト映画の傑作として歴史に名を刻んでいる。ところで、オカルトに正統派?そう、それまでのオカルト映画とは一線を画すのだ。物語のベースは聖書で、今ブームのダヴィンチコードに似ている。さらに、主演は「ローマの休日」のグレゴリー・ペックにリー・レミックとビッグネームでかためている。しかも、亡霊やサタンの類は一切登場しない。ところが、背筋が凍りつくほど怖い。

物語は、ある外交官夫妻の子の誕生シーンから始まる。実の子が死産したので、夫妻は教会のはからいで養子をもらいうける。その子はダミアンと名づけられた。彼が成長にするにつれ、周囲で不吉なことが起こりはじめる。その原因はすべてダミアンにあり、彼こそ聖書に予言された悪魔の子だと気づく者があらわれる。ところが、次々と謎の死を遂げる。一方、ダミアン自身は自分の正体に気づくこともなく、話は終わる。

続編の「オーメン2」で、ダミアンは自分の正体に気づく。初めは思い悩むが、やがて、自分の使命を受け入れ、悪の世界にのめりこむというストーリーだ。前作同様、亡霊もサタンも登場せず、リアルな恐怖だけで勝負している。華やかさ、ストーリーの練り込み、面白さで、シリーズ最高傑作かもしれない。

つづく「ダミアン最後の闘争」は、オーメンの完結編だが、迫力のない作品となってしまった。ストーリーは、30才になったダミアンが、義父から継いだ巨大企業を利用し、世界征服に乗り出すというものだ。ストーリーは壮大なのだが、深みがなく、短絡的で、こぢんまりしている。どちらかというと、TVドラマに近い。とくに、クライマックスのイエスとの闘いは、それが最後だと気づかないほどあっけない。

このオーメン3部作は、聖書をベースにしている。まずこの点で、B級ホラー映画とは一線を画している。実際、「オーメン2」で聖書の一節が、そのまま開示されるシーンがある。その聖書というのが「ヨハネの黙示録」、れっきとした正典(新約聖書)なのだ。

映画「オーメン2」で朗読される一節は、ヨハネの黙示録(第13章)にあたる。ただし、完全に一致しているわけではない。映画の脚本としてアレンジしたのだろうが、本家聖書の方が断然迫力がある。そこで、聖書の中のその部分だけを訳してみよう。

■ヨハネの黙示録(12章18節~13章18節)

龍は、海の砂の上に立っていた。

わたしは、一匹の獣が海から上がってくるのを見た。その獣には、10本の角と7つの頭があり、角の上には10の冠があった。そして頭上には、神を汚す名がついていた。

この獣はひょうに似ていたが、その足は熊のようであり、その口は獅子の口のようであった。そして、龍は自らの力と座と大いなる権威を、その獣にあたえた。

その獣の頭の1つが、致命的な剣の一撃を受けた。しかし、それはすぐに癒えてしまった。そのため、地に住む者はみな驚き、怖れ、その獣にしたがうようになった。

また、龍がその権威を獣にあたえたので、人々は龍を拝み、さらにその獣を拝んで言った。「だれがこの獣に匹敵しようか。だれがこの獣と戦うことができようか」

この獣には、大言と冒涜を吐くための口が与えられ、また、42ヶ月のあいだ活動をする権威があたえられた。

そこで、その獣は口を開いて神を汚し、神の御名と住まい、さらには天に住む者たちをも冒涜した。

そして、獣は聖なる者たちに戦いを挑んで、これを打ち倒すことを許され、さらに、すべての部族、民族、言葉、国民を支配する権威があたえられた。

地に住む者で、ほふられた子羊の命の書に、その名を記されていない者はみな、この獣を拝むであろう。

耳ある者は聞くがよい。

囚われの身となるはずの者がいるなら、その者は囚われの身となる。剣で殺す者がいるなら、その者は剣で殺されなければならない。ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰とがあるのだ。

わたしはまた、もう一匹の獣が地から上ってくるのを見た。それには、子羊のような2本の角があり、龍のように話しはじめた。

そして、第1の獣の持つすべての力をその前で始動させた。また、地と地に住む者たちに、剣の傷がすでに癒えてしまった第1の獣を拝ませた。

また、大いなるしるしをおこなって、人々の前で火を天から地に降らせることさえした。

さらに、第1の獣の前で行うことを許されたしるしによって、地に住む者たちを惑わし、かつ、致命的な一撃を受けながらなお生きている第1の獣の像を造ることを、地に住む者たちに命じた。

それから、その獣の像に息を吹き込み、物を言うことができるようにし、またその像を拝まない者たちを、みな殺させた。

また、小さき者、大いなる者、富める者、貧しき者、自由な者、隷属する者、これらすべての人々の右の手や額に印を刻み、この刻印のない者は、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または獣の名を指し示す数字のことである。

ここに、大いなる知恵が必要となる。聡明な者は、獣の数字を読み解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。その数字は666である。

■神の数字「7」

これが、映画「オーメン2」で引用されたヨハネの黙示録の本文である。近所を巡回する布教者からもらった聖書を訳したもので、多少の誤訳はあるかもしれない。この訳は、「ヨハネの黙示録」第12章18節から第13章18節で、映画オーメンにからむ部分である。抽象的で象徴的で不吉、しかも、いかようにも解釈できる。映画で引用されるだけのことはある。

じつは、最後に出てくる「666」が獣の名をあらわす数字である。映画オーメンの主人公ダミアンは、6月6日6時に生まれで、頭皮にもこの名が刻印されている。では、なぜ「666」が悪魔を意味するのか?

「7」という数字は、神から見て「完全」を意味する。ところが「6」はそれに1だけ足りない。いわば「寸足らず」。この「6」が3つも重なることは、はなはだしい不完全さを意味する。つまり、神の完全さに遠くおよばない、惨めな名前というわけだ。一方、「ヨハネの黙示録」によれば、期間限定とはいえ、世界を支配することが許されている。つまり、「最強なる不完全者」でもあるのだ。

■ヨハネの黙示録

一方、正典とはいえ、ヨハネの黙示録は異色の書である。まず、書としてのフォーマットだが、アンデルセン童話と歴史年表ほどの違いがある。しかも、著者がわかっていない。内容も他の新約聖書とは大きく異なる。主イエスの言行録ではなく、「予言の書」なのだから。しかも、10人読めば、10通りの解釈があるほど抽象的。それにしても、なぜ、こんな書が正典に加えられたのだろう?

《つづく》

by R.B

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