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週刊スモールトーク (第331話) 明の太祖・朱元璋12~飢餓の時代~

カテゴリ : 人物歴史

2016.08.13

明の太祖・朱元璋12~飢餓の時代~

■元朝の食糧事情

元の都、大都(現在の北京)は、深刻な食糧難におちいっていた。

100万を超える軍民が、飢餓状態だったのである。

大都は、中華文化発祥の地「中原(ちゅうげん)」の北方に位置する。

「中原」とは、黄河中下流域の平原地帯だが、南方の長江流域にくらべ、石高が低い。

そこへ、干ばつが続き、収穫量が激減、わずかに残った実をイナゴが食いつくした。農民はイナゴを食べてしのいだが、「仕返し」したわけではない。他に、食べるモノがなかったのである。

ところが、大都ではそのイナゴさえ手に入らない。餓死者が続出し、カニバリズム(食人)が横行していた。生き残った者も免疫力が低下し、パンデミック(感染爆発)の嵐・・・まさに地獄である。

では、そんな一大事に、元朝の皇帝(順帝)は何をしていたのか?

日中は趣味の機械いじり、夜は大宴会・・・貴重な食糧を食いつぶしていた。日本では、これを「穀潰(ごくつぶ)し」よんでいる。

モンゴル帝国の偉大な創始者チンギスハーンも草葉の陰で泣いていたことだろう。

滅びゆく王朝にはありがちな話だが、問題はそこではない。

世界最大の帝国の王都に、なぜ食べ物がない?

広大な支配地から、かき集めればよいではないか。とくに、中国の南部は世界有数の穀倉地帯だ。

ところが・・・

この時代、中国は紅巾の乱の最中で、穀倉地帯は反乱軍に制圧されていた。

地図で確認してみよう。

黄色の楕円で塗りつぶしたのが穀倉地帯・・・湖北、湖南、広東、広西、すべて反乱軍の支配下にある。蘇州も大穀倉地帯だが、塩の密売人あがりの張士誠が支配していた。

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とはいえ、穀倉地帯のすべてが反乱軍というわけではない。元朝の力が少しでも残っている地域から、大都に運べば、チリツモでなんとかなるのでは?

なんともならない。

南部の穀倉地帯から大都に至るルートは、すべて反乱軍がおさえていたから。

この時代、物資を運ぶルートは2つあった。「陸路」と「水路・海路」である。ただし、王都の100万人分の物資となると、量がハンパない。だから陸路ムリ・・・まだ舗装されていないし、鉄道もないから(500年後に発明される)。

つまり、この時代、高速大量輸送は「船」しかなかったのである。具体的には、中国沿岸を通る海路か、大運河を通る水路か。

ところが、沿岸の制海権は浙江の方国珍が握っていた。さらに、大運河沿いの拠点をみると、

・徐州(紅巾軍・彭大・趙均用→朱元璋)

・亳州(紅巾軍・小明王)

・濠洲(紅巾軍・趙均用)

・蘇州(非紅巾軍・方国珍)

すべて反乱軍がおさえている。大都には食糧が届かなくて、あたり前田のクラッカー。

■朱元璋の食糧事情

一方、食糧不足で苦しんでいたのは元朝だけでない。

朱元璋が、徐州を占領した頃、兵数は2万だった。ところが、その後、朱元璋の評判を聞きつけ、軍民が徐州に殺到し、兵は数万に膨れ上がった。

徐州は豊かな土地ではない。そこへ、兵が倍増したからたまらない。たちまち、食糧不足におちいった。このままでは、民も兵も逃亡しかねない。そこで、朱元璋は和州を占領することにした。

遠征軍の先鋒は、胡大海(こたいかい)、色黒でガタイが大きく武に優れ、知謀の士でもあった。

1355年1月、和州は陥落した。そこで、主帥の郭子興は、朱元璋を和州の総兵官鎮守に任じた。一軍の将から、領国を支配する主将に出世したのである。

朱元璋は最高司令官として和州に入ったが、一つ気になることがあった。

諸将のねたみである。

朱元璋は、郭子興の諸将の中では軍歴が浅く、一番若い。だから、諸将はこう思っているだろう・・・朱元璋が和州の主将になれたのは、郭子興の娘婿だから、小僧、お手並み拝見といこう。

そこで、朱元璋は一計を案じた。

会議場の主将の座を取り払ったのである。

翌日、諸将が次々と到着し、席についた。席次は右側が高位で、上席ほど高位である。朱元璋が、わざと遅れて到着すると、左の末席しか残っていなかった。誰も朱元璋を主将と認めていないわけだ。

朱元璋はそれには触れずに、軍議に入った。

軍議が始まると、諸将の勇ましい発言がつづいた。攻めて攻めまくる、戦略も戦術もない。それもそのはず、諸将のほとんどが農民出身なのだ。みんなが話し疲れたのを見計らって、朱元璋は口を開いた。

和州は占領してまだ間もないから、敵に攻め込まれたらひとたまりもない。だから、攻めに転ずる前に防御を固めるべきである。まずは、城の修理から始めよう。

朱元璋のいうことは理にかなっていたので、みな納得した。

こうして、作業分担が決められ、城の修理がはじまった。

ところが、約束の期日が来ると・・・修理を終えていたのは朱元璋だけだった。

朱元璋は、諸将を集めてこう言った。

「私は、主師(郭子興)から主将に任じられている。よって、和州の責任はすべて私にある。みな、城の修理が合わなかったが、どういうことか。今、この瞬間に、敵が攻めてきたらどうするのか。命令に従わないなら、軍律はないも同然である。軍律のない軍に勝ち目はない。はっきり、言っておく。過去はとがめない。しかし、今後、命令に従わなければ、軍律にてらし、厳格に処罰する」

諸将はみな頭をたれ、うなずくばかりだった。とはいえ、内心は面白くない。朱元璋は出来物かもしれないが、主将になれたのは主師(郭子興)の身内だから・・・それを偉そうに。

その空気を察知した湯和(とうわ)は、朱元璋の命令と軍律を率先して守った。湯和は、朱元璋の幼友達で、朱元璋を心から尊敬していた。だから、朱元璋体制の手本となったのである。

一方、朱元璋配下で一番の策士、李善長は、朱元璋と諸将・家臣との意思疎通をはかった。こうして、朱元璋体制は徐々に強化されていった。

ところで・・・

これらのエピソードは、朱元璋のリーダー資質を浮き彫りにしている。

頭ごなしにおさえつけず、相手を納得させてから事を運ぶ。じつは、これは現代でも理想のリーダーとされる。事実、企業研修会で口を酸っぱくして言われるのが、

まず、部下のコンセンサスを得よ!

その真逆が、天上天下唯我独尊の上司・・・オレの言うことは正しい、説明する必要はない、時は金なり、さっさとやれ!

どこの会社でもいますよね、こんな迷惑な上司。

一人でやったら?

この手の人間は「自分=他人」と思い込んでいる。だから、こんな暴挙にでるのだ。自分と他人は全く違う。だからこそ、きんとした説明が必要なのだ。カンタンなテキストや文言で仕事が運ぶなら苦労はない。

ただし・・・

難しい新規事業や、破綻したプロジェクトでは、このタイプは通用しない。いちいち、コンセンサスをとっていたら、手遅れになるから。

というわけで・・・

朱元璋は、現代でも通用する立派なリーダーなのだ。そして、この資質は内政にも発揮された。

こんなエピソードが残っている。

ある日、朱元璋が門の外に出ると、小さな女の子が泣いている。聞くと、父と母は城内にいるのに、そこに行けないという。

なぜか?

朱元璋軍が、和州を攻め落としたとき、将兵が婦女子を略奪したのだ。この子の母親も略奪されており、夫や子がいるとわかれば、何をされるかわからない。そのため、夫婦であることも、子供がいることも秘密にしているという。

それを聞いて、朱元璋は愕然とした。

夫婦離散、子供まで引き裂かれているではないか。これでは、民心は得られない。民心が得られなければ、安心して外に打って出ることもできない。

そこで、朱元璋は将兵に命令をだした。

1.奪った女子供を開放すること

2.今後、征服地の婦女子は、夫がいる場合、奪ってはならない。

ここで、興味深いのは朱元璋のやり方である。お触れをだして、あとは良きにはからえではなく、具体的な方法まで示したのだ。

まず、城内の男たちを門の外の大通りに沿って並ばせる。つぎに、婦女子を歩かせ、夫婦と子供は名乗りを上げさせる。こうして、離散していた家族は再会を果たすことができた。和州の民が喜んだのは言うまでもない。

これは、信長公記に出てくる「山中の猿」のエピソードを彷彿させる。冷酷、残忍の権化とされる織田信長が、乞食を哀れみ、具体的な救済方法まで示したのである。

《つづく》

参考文献:
「超巨人 朱元璋 運命をも変えた万能の指導者」 原作:呉晗 堺屋太一 志村嗣生、志村三喜子 講談社

by R.B

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