BeneDict 地球歴史館

BeneDict 地球歴史館
menu

週刊スモールトーク (第26話) 太平洋戦争の真実(2)~大鳳/ガダルカナル海戦~

カテゴリ : 戦争

2005.12.11

太平洋戦争の真実(2)~大鳳/ガダルカナル海戦~

■N氏の記憶

N氏は、太平洋戦争が始まった直後、海軍に徴兵され、「手旗信号」を操る通信兵になった。そして、戦争末期には日本海軍が誇る空母「大鳳(たいほう)」に乗艦している。「大鳳」は日本の技術の粋を集めた空母の集大成だった。そして日本最後の正規空母でもある。この時代、アメリカ空母「エセックス級」を別格とすれば、おそらく世界最強の空母である。日本の空母のほとんどは、巡洋艦の改造だったが、大鳳は初めから空母として設計された。つまり、生まれながらの正規空母である。

大鳳が就航した1944年、戦局はすでに絶望的で、日本の空母はアメリカの空母に太刀打ちできなかった。とくに防御力において。そのキモとなったのが「VT信管」である。あの広い大空を、高速で飛び回る航空機を、砲弾で直撃するなんて、どだい無理な話。そこで、砲弾が一定高度に達した時点で、爆発させ、その飛び散った破片で飛行機を撃ち落とす。破片で飛行機を撃ち落とすというのも、へんな話だが、軽量化が重視される航空機は意外にもろかった。

さて、問題は爆発させるタイミングだ。敵機の間近で爆発させないと、何の意味もない。当時の信管(起爆装置)は時限式、つまりタイマーで爆発のタイミングを決めていた。敵機の高度の見当をつけ、砲弾の速度で割り算すれば、発射してから爆発するまでの時間が分かる。これがタイマーの設定値。とはいえ、こんなアバウトな方法では、命中率はたかが知れている。結局、テキトーに撃ちまくるしかなかった。ヘタな鉄砲も数撃ちゃ当たる?ところが、アメリカのVT信管の精度は驚異的だった。

VT信管は、それまでの起爆装置とは原理からして違う。砲弾に超小型のレーダーを搭載し、近くに航空機が来たら爆発させるのである。時限式よりはるかに精度が高い。ところが、原理はいいとして、実装で大きな問題があった。砲弾は火薬の爆発エネルギーで瞬時に押し出される。そのため、衝撃力がすさまじい。超小型レーダーというガラス細工のような精密機械が、この衝撃に耐えられるはずがない。ところが、アメリカはその問題を解決した。時代を考えれば信じがたい技術である。日本のベテランパイロットもやたら間近で爆発するようになった対空砲火に、驚くばかりであった。

太平洋戦争中、艦船の天敵は航空機だった。艦船の対空火砲は、一旦発射すれば、敵機の動きに合わせ、弾道を修正できない。そのため、高速で飛び回る物体を撃ち落とすのは至難だった。一方、航空機から見れば、艦船は巨大で、停止しているに等しい。格好の標的だ。だから、航空機を艦載した空母は海軍最強だったのである。

ところが、その空母にも天敵はいた。敵空母から発進する航空機である。もし、有効な対空防衛システムさえあれば、空母は無敵になる。アメリカが実現不可能に思えたVT信管に執着したのは、この理由による。VT信管は砲弾の一部品に過ぎず、ほとんど知られていないが、技術の高さと歴史に与えた影響を考えれば、歴史的発明といっていいだろう。

空母に優秀な対空防衛システムが必要なことは、日本も同じ。当然、日本の最新鋭空母「大鳳」も最新の対空防衛システムが装備された。ただし、もっと、安価な方法で。飛行甲板を厚くしたのである。爆撃機が一番狙いやすいのは飛行甲板。というか、空からは飛行甲板しか見えない。というわけで、
「飛行甲板を厚くする→防御力アップ」
と考えたのである(VT信管と大分発想が違う)。

空母「大鳳」の飛行甲板の主要部には、75ミリの装甲甲板が張られた。この「75ミリ」には500キロ爆弾に耐えるという根拠があった。先のミッドウェー海戦で、日本の空母は、500キロ爆弾で沈められたからである。反面、甲板が重い分、艦載機の数は61機に減った。ちなみに、ミッドウェー海戦で沈んだ旗艦「赤城」は、91機を艦載できた。

1944年3月7日、日本の造船技術の粋を集めた「大鳳」がついに就航する。生まれながらのエリート空母「大鳳」は、早々に、第1機動部隊の旗艦に抜擢された。そしてその直後、歴史上最大の空母決戦「マリアナ沖海戦」に出撃する。この作戦の目的は、パラオ方面に進出するアメリカ空母部隊に打撃を与えることにあった。日本艦隊は、小沢治三郎中将率いる第1機動部隊を中心に空母9隻で編成されたが、これまでの最大戦力であった。

マリアナ沖海戦は歴史上最大の空母決戦となるはずだったが、現実はそうでもなかった。日本艦隊は数だけで、質がともなっていなかったのである。戦況の悪化で、日本軍のパイロットの消耗は供給をはるかに超えていた。ベテランパイロットが激減し、空母の発艦、着艦がやっとの飛行兵まで実戦に投入された。日本の航空部隊はかつて大空を支配した「神の子」ではなかかった。

一方、アメリカの空母部隊は無敵だった。空母の数は15隻で日本艦隊を圧倒。質においても、VT信管、高性能レーダー、高速で堅牢な戦闘機、すべてにおいて日本軍を圧倒したのである。

1944年6月19日から20日にかけ、マリアナ沖で日米の空母部隊が激突した。結果は、日本艦隊の完敗。この敗戦の後、サイパン島、テニアン島、グアム島の日本軍基地は次々と陥落していく。そして、テニアン島から出撃したB29が、広島に原子爆弾を投下し、日本の敗戦は決定的となった。

空母「大鳳」は、この歴史的な海戦であっけない最期をとげる。1944年6月19日午前8時10分、アメリカの潜水艦アルバコアは、日本艦隊を発見し、船影に向け6本の魚雷を発射した。そのうち、1本が大鳳に命中したのである。ただ、その時点では大事にはいたらなかった。ところが、午後2時、タンクから漏れたガソリンに引火し、大爆発を起こした。艦内は大火災となり、手のつけられない状態になった。そして、午後2時28分、沈没。不運としか言いようのない最期だった。

ところで、この「大鳳」に乗艦していたN氏はどうやって生還したのか?おそらく、海に投げ出され、何かにしがみつき、沈む前に、味方の船に救助されたのだろう。その時、N氏がみた光景は地獄だったに違いない。海面に漂う戦友の屍、無数の船の残骸。N氏は帰還した後も、戦争のことは一切口にしなかった。太平洋戦争の体験談を好んで話した先のT氏やO氏とは対照的だ。

N氏は、無口というわけではなかった。むしろ、多弁で明るかった。帰還後は、農協に入り、持ち前の強引さで、若くして組合長にまでのぼりつめた。親分肌で、豪快な笑いを絶さない人だったが、戦争の話だけはしなかった。あの終戦の日、N氏はマリアナ沖の地獄絵図を記憶から消しさったに違いない。

■K氏の記憶

K氏は太平洋戦争から生還し、植木職人になった。腕のいい職人で、仕事にも恵まれ、それなりの人生を送った。晩年、病に倒れ、死期を悟ったとき、K氏は、友人に驚くべき告白をする。K氏がそれまで誰にも話さなかった「ガダルカナル島の戦い」である。

ガダルカナルの戦い硫黄島の戦いと並ぶ最も凄惨な戦いとして知られている。ガダルカナル島は南太平洋のソロモン諸島にあり、その中で最も大きな島である。太平洋戦争が始まった1年後、日本軍はガダルカナル島に航空基地を築いた。パプアニューギニア・ニューブリテン島のラバウル航空基地を支援するためである。

ラバウル基地といえば、ラバウル航空隊。少年航空兵だった父の大いなる憧れであった。ラバウル航空隊には日本の撃墜王、坂井三郎、西沢広義がいたからである。ラバウル航空隊は連合艦隊が拠点とするトラック諸島の防衛にあたっていた。日本が戦争を継続するためには、南方資源が必要不可欠で、この地の制海権と制空権を確保する必要があったからだ。

ところが、1942年8月7日、突然、アメリカ海兵師団2万名がガダルカナル島に上陸する。日本軍にとって青天の霹靂(せいてんのへきれき)であった。いずれ、アメリカ軍は侵攻してくるだろうが、まだ先のこと、と考えていたのである。日本の守備隊はわずか300名で、あっという間に占領された。驚いた日本軍は、同年8月18日、一木大佐を隊長とする900名を上陸させる。アメリカ軍は2000名程度、しかも、アメリカ軍は中国軍より弱い、だからで、この兵力で十分と考えたのである。

一方、大本営陸海軍部は、アメリカ軍の輸送船の数から、上陸したアメリカ軍は1個師団(1万~2万)とほぼ正確に読んでいた。それがなぜ、10分の1にまで減ったのかは分からない。いずれにせよ、日本軍はこの読み違いで大きな代償を払うことになる。

8月20日、一木支隊は、日本陸軍のお家芸、銃剣突撃で夜襲を決行した。ところが、アメリカ軍の激しい十字砲火をあび、21日昼までに全滅。一木支隊長は責任をとって自決した。戦後、この戦いは日本軍の無計画さと無鉄砲さの象徴として喧伝された。しかし、開戦以来、日本陸軍はこの無鉄砲な?銃剣突撃で連戦連勝してきたのである。暗闇の中、怒号とともに大軍が突撃・・・パニックにならないほうがおかしい。

日本陸軍は、一木支隊の全滅を知って驚愕した。失敗はもう許されない。そこで、川口少将ひきいる3000名からなる川口支隊を上陸させる。そして、9月13日、再び夜襲を敢行するが、やはり失敗。アメリカ軍は兵数2万、戦車まで保有していたのだ。しかも、ジャングルのあちこちに、マイクロフォンを設置し、日本軍の接近を探知していた。日本軍は「精神」で、アメリカ軍は「サイエンス」で戦う、それを象徴するような戦いだった。

戦後、ガダルカナルの戦いは、
日本軍は兵を逐次投入し、各個撃破される
の象徴として喧伝された。しかし、この指摘は正しいとはいえない。ミッドウェーの海戦では、日本は手持ちの空母大半を投入する総力戦だったし、開戦直後のマレー侵攻では、もう少しで、砲弾を撃ち尽くすところだった(その直前にイギリス軍が降伏)。だから、ウケを狙って物事を単純化するのは危険だ。真実を見失う危険性がある。

ガダルカナルの戦いも、逐次投入せざるをえない事情があった。その頃、日本陸軍の主力はガダルカナル島から6000kmも離れた日本本土や中国大陸に展開していた。ここから長駆、兵団を輸送するのは危険である。制海権はアメリカにあり、途中で、輸送船が沈められたら元も子もない。とりあえず、近場の守備隊を派遣するしかないだろう。ギリギリの戦力をさらに割いて。

二度敗北した大本営陸軍部は、いよいよ本腰を入れる。ジャワ島を守備していた第2師団、スマトラ島の守備隊第38師団をガダルカナル島に投入したのである。東京からは、陸軍大本営の作戦参謀、辻正信中佐もかけつけた。陸軍大本営の作戦参謀は、日本陸軍の戦略・戦術を立案する頭脳エリートである。ただ、辻中佐は参謀には珍しく、戦場を好む傾向があった。たぶん、勝算があったのだろう。自ら危険な戦地に乗り込むのだから。

1942年10月24日、第2師団を中心とする15000名の日本軍が総攻撃を開始した。ところが、アメリカ軍防衛陣地は恐ろしく強固だった。日本軍の攻撃は完全に頓挫した。その後、11月14日、第38師団5000名が上陸を試みたが、上陸する前に、アメリカ軍によって11隻の輸送船のうち7隻が沈められた。兵士の多くは助かったが、兵器弾薬、食料は船とともに沈んだ。

2万名を超える兵士と、わずかの食料。腹が減っては戦はできぬ。食料の補給が急務だった。ところが、制海権はアメリカにある。日本の輸送船は次々とアメリカ軍によって沈めらた。駆逐艦や潜水艦は輸送船にくらべ安全だが、積める量は限られた。こうして、恐ろしい飢餓が始まった。後に、ガダルカナル島が「餓島(ガ島)」とよばれたゆえんである。

大本営はもはや打つ手がなかった。そしてついに、ガダルカナル島奪回を断念したのである。1943年2月2日に撤退が開始され、最終的に、1万名が帰還した。一方、死者は2万名、うち1万5000名が飢餓と病で命をおとした

このガダルカナル島の戦いで生き残ったのが、先のK氏である。ただし、人に言えない方法で

無線兵のK氏は、ある日、アメリカ軍の無線を傍受する。それによると、アメリカ軍がもうすぐ、ガダルカナル島を総攻撃するという。彼は仲間に相談した。とても勝ち目はない。死ぬのは見えている。日本兵に「捕虜」の文字はない。戦って死ぬか、自決するか。そして、彼と仲間がとった行動は驚くべきものだった。こっそりと近くの島に逃げたのである。やがて、K氏が傍受した無線は現実となった。アメリカ軍の猛攻撃が始まり、K氏の部隊が全滅したのである。

K氏は帰還後、この話を誰にも話さなかった。というか、話せなかったのである。それから60年間、K氏はこの秘密を心に封印し、悩み続けたのである。K氏にとって、終戦の日は、生きて還れた喜びと、戦友を裏切って自分だけ逃げのびた後悔の始まりでもあった。

■母の記憶

戦争の記憶を刻んだのは男だけではない。母にも忘れがたい記憶がある。母の母は「つね」といい、当時、学校の教師をしていた。母が小学校6年生、つねが48歳のとき、その出来事はおきた。

1938年のある日、母はつねに手を引かれ、家の外に出た。真夏の暑い日で、雲一つない抜けるような空だった。やがて、空のかなたから、聞き慣れない轟音が近づいてくる。不安を感じて、母はつねの顔を見上げると、何かを探しているようだった。やがて、その轟音は正体を現す。1機の飛行機だった。

その飛行機は、二人の頭上で旋回をはじめた。すぐそばに、大きな木があって、その木を中心に旋回しているようだった。飛行機は「つね」を讃えるように、何度も、何度も、旋回した。母はその優美な飛行を目で追っているうちに、ふとつねの姿が目に入った。つねは泣きながら、てぬぐいを振っている。てぬぐいはちぎれんばかりだ。飛行機の高度は低く、飛行士の顔が見えるほどだったという。この不思議な夏の出来事は、まだ幼かった母の理解を超えていたが、鮮明に記憶された。

その後、母は成人し、あの飛行機の真相を知った。飛行兵は、つねの教え子で、出征するため、恩師に別れを告げに飛来したのだった。その目印にしたのが、家近くにあったあの大きな木だった。出征する飛行兵が、恩師の家に飛来し、別れの旋回飛行をする、そういう時代だった。

時は1938年で、日中戦争のさなか。出征先は中国大陸だろう。飛行機はおそらく九六式艦上戦闘機。ゼロ戦の一世代前の戦闘機で、ゼロ戦同様、堀越二郎が設計している。

飛行兵の名は「東善作」または「あずまじゅんさく」で、出征後戦死したという。中沼という土地の出身で、そこに墓もあるという。この飛行は村で話題になったが、記憶は薄れ、今は知る人もいない。

その後、母もつねとおなじ教師の道をえらんだ。戦後間もない頃で、子供たちは、着るものも、食べるものにも事欠いた。母は、生徒のほころんだ衣服を縫い、食べ物も与えた。親たちは生きることで精一杯で、子供にかまっていられなかったのである。教師は勉強は二の次で、子供たちの生きる支えになった。

その後、母は退職し、同窓会に招かれた。そのとき、2人の教え子が母にこう言ったという。

「先生は花が大好きだったから、死んだときは俺たちがでかい葬式をして、部屋中を花で飾ってあげる」

ところが、その二人の教え子は母より先に逝ってしまった。教師と教え子が「命のきずな」で結ばれていた時代の話である。

この物語に登場する5人のうち、4人がすでに亡くなった。昭和が終わって17年。太平洋戦争の記憶は薄れるばかりだ。今は、日本とアメリカが戦ったことを知らない高校生もいるという。昭和は遠くになりにけり

《完》

参考文献:
歴史群像太平洋戦争史シリーズ6「死闘ガダルカナル」学習研究社
池田清編/太平洋戦争研究会著「太平洋戦争」河出書房新社

by R.B

関連情報