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週刊スモールトーク (第200話) 中国共産党の歴史(12)~日中戦争(支那事変)~

カテゴリ : 戦争歴史

2013.03.30

中国共産党の歴史(12)~日中戦争(支那事変)~

■PM2.5の恐怖

最近、ウォーキングしていると、目と喉に違和感を覚える。原因は、中国発の微小粒子状物質「PM2.5」に違いない。大気汚染粒子予測サイトで、
「汚染度:やや多い、非常に多い」
の日に限って起こるので。汚染マップをみると、中国大陸のみならず、東南アジア全域に拡大している。その余波が日本にもおよんでいるわけだ。

じつは、日本の広域環境汚染はこれにとどまらない。たとえば、福島第一原発の放射能汚染。最近は、トラブルが報じられても、誰も見向きもしない。喉元過ぎればなんとかだ。ところが、チェルノブイリ原発事故の放射能汚染は、30年経った今も収束する気配はない。すでに、除染が効果がないこともわかっている。そんな状況で、今度は西日本がPM2.5!東と西で挟み撃ち、日本人はどこへ行けばいいのだ?

それにしても、中国が大気汚染?昨今の中国の工業化を思えば驚きはしないが、40年前とくらべると、隔世の感がある。1972年、日中国交正常化が成った頃、中国はバリバリの共産主義国だった。金儲けでガツガツの資本主義とは、まるで別世界。北京市内を行き交う人民服と自転車は新鮮だった。その分、近代化は遅れたが、水も空気も大地も綺麗だった(たぶん)。

ところが・・・

その後、中国は変身する。政治は中国共産党の一党独裁、つまり、「共産主義」。ところが、経済は「資本主義」。

フツーに考えれば、究極の矛盾だ。

中国のバイブルともいうべき「毛沢東主義」によれば、「大公無私」、つまり、個人の利益より公共の福祉が優先される。ところが、今の中国は経済が資本主義なので、
「実力主義=私利私欲」
結果、中国の貧富の差は拡大する一方で、あのアメリカさえしのぐ勢いだ。

つまり・・・

「個人の利益より公共の福祉」を標榜しながら、「私利私欲」を容認し、貧富の差が拡大している。これ以上の矛盾はないだろう。

例えて言うなら、首から上は人間、その他の部位はマウンテンゴリラ・・・知力と膂力の「いいとこ取り」を狙ったわけだが、ハイブリッドというよりは奇形に近い。だから、長くはもたないと思っていたのに、存外うまくいっている。今では、「世界の工場」といわれ、GDPでは、日本を抜いて世界第2位。このままいけば、近々、アメリカも追い抜くだろう。

ところが・・・

巨大工場群が建設され、天を打ち貫くような高層ビルが建ち並び、無数の自動車が行き交っている。そのぶん、放出される汚染物質の量もハンパではない。なにせ、人口13億なのだ。結果、中国の土と水と大気は汚染され、水資源は枯渇の危機にある。だから、「PM2.5」は中国の環境汚染の序章にすぎないのだ。

ここで、「IFの歴史学」。

もし、西安事件がなかったら・・・「蒋介石の中国」が実現し、こんなことにならなかったのでは?

ノー!

もっと、ひどいことになっていた。

第二次世界大戦後、「蒋介石の中国」が実現すれば、中国はアメリカの支援を受けながら、資本主義でスタートする。そのぶん、「毛沢東の中国」より早く工業化が始まるので、環境汚染も加速する。その相似が戦後の日本だろう。

日本は、戦後の焼け野原から、「貿易立国」をかかげ、がむしゃらに工業化を進めた。その結果、

・イタイイタイ病

・水俣病

・四日市ぜんそく

・光化学スモッグ

・福島第一原発事故による放射能汚染

と、様々な環境汚染を生みだした。しかも、人口はたかだが1億。では、その10倍の人口をかかえる中国で、日本と同時期に工業化が始まっていたら・・・想像するだけで卒倒しそうになる。

現在、「PM2.5」が注目されているが、日本の公害の歴史をみれば、中国の環境汚染は間違いなく多様化する。頻度も増し、規模もスケールアップするだろう。最も危険なのは原発事故だが、もし、メルトダウンが起きたら、ソ連や日本のように食い止めることできるだろうか?

じゃあ、「毛沢東の中国」で良かった?

微妙なところだ。

たしかに、環境汚染は遅れるが、その代わり、日本は日中核戦争に脅かされている。

PM2.5と核ミサイル、どっちがマシ?

これは究極の選択だ。

さて、不毛の論争はさておき、「中国共産党の歴史」に話をもどそう。今回は中国共産党の歴史の最終章「日中戦争と国共内戦」。ここでいう「日中戦争」とは、今後起こるかもしれない「日中尖閣戦争」ではなく、1937年~1945年の「支那事変(しなじへん)」をさす。

■満州事変

1931年から日中の対立は激化し、1937年以降、本格的な日中戦争に突入した。原因は関東軍作戦参謀の石原完爾(いしはらかんじ)というのが定説だが、半分正解、半分は誤り。確かに、日中戦争の遠因は石原完爾にあるが、直接の原因は石原完爾ではない。そもそも、日中戦争に突入したとき、石原完爾は「不拡大派」だったのだから。

1928年10月、関東軍の作戦主任参謀として石原完爾中佐が満州に着任した。さらに、その翌年の5月、板垣征四郎大佐が関東軍高級参謀として着任。以後、この2人は二人三脚で、満州全土の制圧を推進していく。

この時期、蒋介石は日本よりも中国共産党を危険な敵とみなしていた。そこで、蒋介石は日本と事を構えず、まず、中国共産党を討って、その後に、日本を討つつもりだった。ところが、関東軍は満州への野望を露わにし、中国の華北にまで触手をのばす。

結果、蒋介石の国民政府内でも、「反共」より「抗日」の声が大きくなった。そんな中、起こったのが西安事件だった。以後、中国の国民党と共産党は、表向きは力を合わせ(国共合作)、日本に立ち向かうことになる。

じつは、この強気の満州制圧作戦を仕切ったのが、切れ者「石原完爾」だった。

1931年9月18日、満州の奉天近郊の柳条湖で、日本の南満州鉄道が爆破された。これが「柳条湖事件」である。関東軍はこの事件を中国側による犯行と断定し、軍を動員した。ところが、中国側は積極的に戦おうとはしない。もし、戦えば、関東軍は自衛を口実に、満州全土に大軍を動員するから。中国側は関東軍の魂胆を見抜いていたのである。

しかし、どちらにせよ、結果は同じだった。勢いにのった関東軍は、瞬く間に満州全土を占領したのである。そして、1933年5月31日、日本と中国で「塘沽協定(たんく)」が締結され、停戦が成立した。柳条湖事件からここまでを「満州事変」とよんでいる。

■満州国

じつは、この満州事変の最中、1932年3月1日、満州で満州国が建国された。

満州は、17世紀以降、女真族の王朝「清朝」が支配していたが、1912年に清朝が滅んだ後、新しい中国「中華民国」に引き継がれた。ところが、中華民国の政権は混乱を極め、満州の政情も安定しなかった。そのドサクサに紛れ、満州を実質支配したのが奉天軍閥の張作霖だった。

そこで、関東軍は張作霖をかついで、満州を支配しようと目論んだが、逆に利用されてしまう。行き詰まった関東軍は、張作霖を爆殺し、息子の張学良に取り入ろうとした。ところが、またもや失敗。そもそも、実父を殺した相手と組むはずがないではないか。

追い込まれた関東軍は大勝負にでる。日本政府の許可も得ず、満州事変をおこし、満州全土を武力制圧したのである。とはいえ、やり方があまりにもえげつない。日本政府が何を言ってくるかわからないし、国際世論も気になるところだ。

そこで・・・

関東軍は、満洲国を建国し、清朝のラストエンペラー「愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)」を皇帝にすえた。つまり・・・

日本は満州を占領したわけではないですよ。満州が女真族の土地だということは、ちゃんと分かっています。その証拠に、皇帝は清朝の王族なんですねー。でも・・・経済、軍事、よかったら、政治も面倒みさせていただきますよ、はい。

というわけで、満州国の実態は日本の傀儡政権だった。

一方、溥儀(ふぎ)にしてみれば、渡りに船。辛亥革命では、頼りにしていた大臣の袁世凱(えんせいがい)に裏切られ、退位に追い込まれた。そのとき、優待条件が交わされ、皇族は北京の紫禁城に住むことが許されたのに、後に約束は反故にされ、紫禁城を追い出される。その後は流浪の日々・・・

そんなある日、日本から、ぜひ満州国の皇帝に、という夢のようなオファーが転がり込む・・・こりゃあ願ったりかなったりだ、と思っても不思議はない。日本に利用されるかも、という不安はあっただろうが、どうせ失うものはない。勝負したほうがまだマシ、と消去法で話に乗ったのである(たぶん)。

じつは、これと良く似た話が日本にもある。足利将軍家のラストエンペラー「足利義昭」である。彼は足利家滅亡の後、溥儀同様、流浪の身となったが、織田信長の後ろ盾を得て、第15代将軍に任じられる。ところが、将軍とは名ばかりで、織田信長の傀儡に過ぎない。そこで、腹を立てた足利義昭は織田信長に反旗を翻すのだが、最終的に放逐された。

では、溥儀はどうなったのか?

皇帝(康徳帝)になったはいいが、満州国はわずか13年で崩壊する。1945年8月9日、ソ連軍が174万の大軍で満州に侵攻したのである。その後、皇帝を退位した溥儀は、妻を含む親族を捨て置き、飛行機で脱出をはかった。ところが、脱出寸前にソ連軍に捕まり、強制収容所に送られてしまった。

その後、中国共産党に引き渡され、「漢奸(かんかん)」として拘留された。「漢奸」とは、漢民族でありながら、侵略者の手先となる裏切り者のことをいう。その後、政治犯の特赦をうけ、植物園の庭師として人生を終えた。

ハッピーな人生とはいえないけど、殺されなかっただけマシ。普通に考えれば、悪くない選択だったのでは?

それはどうだろう。

じつは、溥儀の父「愛新覚羅載ホウ」は、満州国が建国されたとき、日本の勧誘に乗らなかった

なぜか?

日本と満州国の前途をあやぶんだか、清朝の皇族としてのプライドが許さなかったか、どちらかだろう。

載ホウは、清朝時代、腹黒い佞臣「袁世凱」と熾烈な権力闘争を戦った。その過程で、権力の恐ろしさ、はかなさを身をもって体験している。そのとき獲得した研ぎ澄まされた政治感覚で、未来を予知したのかもしれない。

その結果・・・

載ホウは、満州国が崩壊し、中国共産党政権になっても、「漢奸」とはみなされなかった。生活は保障され、北京で平穏に暮らすことができたのである。

結果論、そうかもしれない。だが、これだけは言える。

もし、強者が弱者にすり寄ってくるなら、何かを利用しようとしているのだ。強者になくて、弱者にだけある何かを。だから、応じたら最後、利用価値が無くなった時点で、ポイ・・・

■五・一五事件

こうして、関東軍は満州国をでっちあげたが、思わぬ所から、横やりが入った。日本政府である。

時の総理大臣の犬養毅(いぬかいつよし)が、満州国の承認をしぶったのである。犬養は国民政府と直接交渉し、この問題の妥協案を模索していた。その落としどころというのが・・・満州の形式上の領有権は中国にあるが、実質的には日本が支配する。何をどうするのかサッパリ分からないが、結局、この折衷案は提示されることはなかった。犬養毅が暗殺されたのである。

1932年5月15日、総理官邸に海軍の青年将校らが乱入した。ところが、犬養毅は冷静だった。彼らを応接室に通し、説得を試みたのである。一方、将校らは激昂状態で、とりつくしまがない。犬養はすぐに射殺されてしまった。このとき、犬養毅が吐いた言葉、
「話せば分かる」
は有名だ。「殺す」しか頭にない相手に「話し合おう」はないものだが、これが世に言う「五・一五事件」である。

その後、斎藤実内閣が発足したが、この事件でビビッたのか、速攻で日満議定書が締結され、満州国は承認された。さらに、関東軍司令官は駐満大使を兼任することになった。武官が文官を兼ねるわけで、今では考えられない軍事国家である。ところが、その今、度を超したビリアンコントロール(文民統制)で、敵の奇襲にも対応できない。国民の生死に関わる問題なのだから、さっさと法律を改正すべきだろう。

こうして、満州国は成立したが、関東軍はさらに念押しする。アメリカ大統領ウィルソンが提唱した「民族自決の原則」をコピペして・・・

満洲国を「民族自決の原則」に基づく国民国家であるとし、日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による「五族協和」を高らかに謳ったのである。

満州国の首都は新京(現在の長春)におかれた。その後、満州全土に大金が投下され、膨大なインフラが構築された。1934年11月、大連と新京の間に満鉄最初の特急「あじあ号」の運転も始まった。その美しい流線型のフォルムは、未来の鉄道を連想させた。日本人にとって、満州は夢と希望に満ちた新天地だったのである。

■日中戦争

ところが、1937年に入ると、中国と日本の立場が逆転する。日本は、1933年5月31日以降、「塘沽協定」にもとづき、守勢を維持していたが、中国が攻勢に転じたのである。

1937年7月7日、北京近郊の盧溝橋で、日本軍と蒋介石の国民政府軍が軍事衝突した。これが、「盧溝橋事件」である。

さらに・・・

1937年8月、第二次上海事変。

この時代、上海には、イギリス、アメリカ、フランス、日本の租界があった。租界とは、中国国内における自治権や治外法権が認められた外国人居留地である。

8月13日、中国軍が突然、上海の「日本租界」を包囲攻撃してきた。中国軍は3万、一方の日本軍守備隊は4000。日本租界は、10倍の中国軍に包囲されたのである。

8月19日以降も中国軍の激しい攻撃が続いたが、守備隊は日本租界を死守していた。この間、日本軍守備隊は危機的状況にあったが、不拡大方針に基づき、交戦回避の努力を行った

しかし、戦闘は収まりそうになかった。国民政府が先の「塘沽協定」に違反し、開戦意思を明らかにした以上、戦うしかない。そこで、日本は援軍を送り、日中は全面戦争に突入した。

この第二次上海事変で、日本側の戦死者は1万人を超えた。日露戦争で最大の犠牲者を出した「旅順攻囲戦」でさえ、日本の戦死者は1万6000人。第二次上海事変がいかに激戦だったかがわかる。

ところが、「上海戦争」ではなく、「上海事変」?

両国とも、宣戦布告しなかったからである。もし、宣戦布告すれば、日本は米国から石油を止められ、中国も米国からの軍事援助を止められるから。

つまり・・・

日中戦争の原因は日本にあるが、第二次上海事変を引き起こし、日中全面戦争の引き金を引いたのは中国(国民政府)である。だから、日中戦争を十把一からげで論じるのは正しくない。第二次上海事変を境に、その前と後ろでは、紛争の本質が違う。前半は引き金を引いたのは日本、後半は中国である。もっとも、日本がこれ以上支配地を拡大する余裕がなかったのも事実だが。

では、その後どうなったのか?

日本軍は中国軍の撃退に成功し、その後、反撃に転じる。中国の開戦意思が明確なので、日本の選択肢は2つしかない。戦うか全面撤退するか?日本は前者を選んだのである。一方、中国軍は兵数で優りながら、各地で敗北を重ねた。

1937年12月、日本軍は国民政府の首都の南京を占領する。蒋介石は首都を重慶へ移し、中国共産党と連携し、アメリカから支援を受けながら抗日戦争を続けた。

1938年、日本軍は国民政府内で、蒋介石と対立する汪兆銘を首班とする南京国民政府(汪兆銘政権)を樹立する。

ここで、この頃の中国の勢力を整理すると、

①汪兆銘の南京国民政府(日本が支援)

②蒋介石の国民政府(アメリカが支援)

③毛沢東の中国共産党(ソ連が支援)

「②国民政府」と「③中国共産党」は国共合作で一応同盟なのだが、紛争が絶えなかった。特に、国民政府の蒋介石の反共意識は根強く、アメリカから受け取った兵器で中国共産党をたびたび攻撃した。それを知ったアメリカ大統領のルーズベルトは蒋介石に対し不信感を持ったという。とはいえ、蒋介石にも言い分はあった。国民政府軍が日本軍と戦っているすきに、中国共産党は支配地を拡大しようとしたからだ。

3者ががっぷり四つに組んだ、油断も隙もない戦いだが、そもそも、戦争は勝ってなんぼの世界。負けたら最後、リーダーは戦争犯罪人として処刑されるから。極東軍事裁判やニュルンベルク裁判のように。

1941年12月、日本はイギリスとアメリカに宣戦布告し、太平洋戦争が始まった。日本軍は鍛え抜かれた兵士と、優れた兵器で優位に立つことはあったが、アメリカの物量にはかなわなかった。1945年8月、広島と長崎に原爆が投下され、1945年8月14日、日本は降伏した。つづく、8月18日には満州国も崩壊、日中戦争も終わった。

戦後、蒋介石の国民政府は、フランス同様、戦いで勝利したわけではないが、連合国の主要メンバーに名を連ね、勝利をかたどったトロフィーを受け取った。

■中華人民共和国と台湾政府

ところが・・・

1945年11月、毛沢東率いる中国人民解放軍(中国共産党)の大攻勢が始まった。その翌年には、大規模な国共内戦(国民党Vs共産党)に突入する。当初、国民政府はアメリカの軍事支援を受けていたが、ソ連側のスパイ活動が功を奏し、アメリカ国内で、中国共産党支持派が力を増した。そして、最終的に、国民政府への援助が打ち切られたのである。

そこで、中国共産党は一気に優位に立つ。ソ連から大規模な軍事援助を受け、国民政府軍を各地で破った。

1949年4月23日、首都の南京が陥落すると、国民政府は崩壊状態に陥り、中華民国は実質消滅した。1949年10月1日、勝利を確信した毛沢東は中華人民共和国の建国を宣言する。

一方、蒋介石ら国民政府の残存勢力は、台湾島に移り、1950年1月、蒋介石を総統とする台湾国民政府を成立させた。

こうして、1911年の辛亥革命にはじまり、北洋軍閥、中国国民党、中国共産党と続いた中華革命は終わりを告げたのである。

《完》

by R.B

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