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週刊スモールトーク (第194話) 中国共産党の歴史(6)~満州鉄道~

カテゴリ : 戦争歴史

2013.02.17

中国共産党の歴史(6)~満州鉄道~

■張作霖爆殺事件

1928年6月4日、奉天軍閥の張作霖(ちょうさくりん)の乗った列車が、奉天駅の近くで爆発した。鉄橋に仕掛けられた300キロ爆弾が爆発したのである。

300キロ爆弾といえば、鋼鉄の軍艦を破壊する威力をもつ。車両は跡形もなく吹き飛び、台車だけが残った。もちろん、生身の人間はひとたまりもない。張作霖は、手足をもぎとられ、生き地獄を味わいながら死んだ。ときに、張作霖54歳。馬賊から「満州王」にのし上がった婆娑羅にふさわしい死に様だった。

ところで、こんな派手な暗殺を仕掛けたのはどこの誰?

大日本帝国の関東軍。

関東軍といえば、張作霖を助け、北京政府(北京軍閥)のトップにすえた支援者のはず。それが、なんで、いまさら暗殺?

状況が変わって、邪魔になったから。

わかりやすい話だ。ところで、関東軍って何?

「満州」の日本軍!

???

ということで、まずは「満州」から話をはじめよう。

■満州

「満州」と聞いて、ノスタルジーな気分にひたる人は少なくなった。かつて、「満州国」に暮らし、悲惨な引き揚げを経験していない人に限られ、しかも、そのほとんどが死んでしまったから。

満州は中国東北部(遼寧省、吉林省、黒竜江省)をさす広大な地域で(地図参照)、今から80年前、日本はこの地に「満州国」という植民地をつくった。その頃、帝国主義(侵略主義)が台頭し、欧米列強がアジアを次々と植民地にするのをみて、植民地にされる前に植民地を作ろうと考えたわけだ。つまり、攻撃は最大の防御ナリ。

その結果、太平洋戦争が起こり、日本はアメリカに敗北し、すべてを失った。つまるところ、欧米以外は植民地は許さないという話だが、時は流れ、今では、「帝国主義」も過去の遺物となっている。ところが、この危険なイデオロギーに取り憑かれた国がある。お隣の中国だ。すでにチベットを征服し、南シナ海、尖閣諸島(東シナ海)、沖縄、台湾まで射程に入れ、領土拡大に余念がない。

話を満州にもどそう。

19世紀末、ロシアは不凍港をもとめ、ヨーロッパとアジアで南下政策を推進した。ところが、ヨーロッパではうまくいかなかった。ロシアはスラヴ人の国である。そこで、落ち目のトルコに戦争をふっかけ、スラヴ人が多いブルガリアを手に入れたのだが、イギリスとオーストリアの猛反発を食らった。そこに割って入ったのがドイツの宰相ビスマルクで、ベルリン会議を開催し、難癖をつけて、ブルガリアのロシア領を削減した。面白くないのがロシアである。とはいえ、イギリス、オーストリア、ドイツを敵に回す勇気もない。そこで、頭を切りかえて、アジアを侵略することにした。

そのアジア侵略計画というのが仰天もので・・・満州と朝鮮を丸取りする。

地図をみれば明らかだが(地図参照)、ロシアが満州と朝鮮を手に入れれば、モスクワから日本海までシベリア鉄道を介して一気通貫。もちろん、不凍港もゲット。そうなれば、ロシアは大軍をモスクワから日本海までスルーで送り込める。一方、日本にしてみれば、狭い日本海をはさんで、ロシアの大軍とご対面。国の安全保障を直撃するトンデモない事態だ。そこで、日本は外交を試みたが、軍事力に自信満々のロシアは聞く耳を持たなかった。

そんなわけで、1904年2月8日、日露戦争が始まった。個々の戦闘では、日本は連戦連勝したが、台所は火の車だった。兵員と武器が枯渇して、補給も補充もままならなかったのである。そもそも、ヒト・モノ・カネの戦争資源では日本はロシアにかなわない、というか、桁違い。

ところが・・・

ロシアにものっぴきならぬ事情があった。この頃、ロシアを支配していたのは、ロマノフ王朝だが、君主国家の常で、民衆は搾取と貧困にあえいでいた。つまり、ビンボー。そこに、日露戦争が始まったものだから、毎日ビンボーになり、それに追い打ちをかけるように、陸でも海でも連戦連敗。もう、やっとれんわ、とばかり、民衆は立ち上がった。

1905年1月9日日曜日、ロシアの首都サンクトペテルブルクで、労働者のデモがおこった。ところが、不思議なことにロシアの労働者は皇帝を崇拝していた。そのため、「デモ」と言うよりは「懇願」に近かった。労働者たちは、行進しながら、日露戦争の中止、基本的人権の確立を「懇願」した。皇帝ニコライ2世ならきっと分かってくれると信じて・・・

ところが、デモの参加者は6万人に膨れあがり、だんだん雲行きが怪しくなってきた。「懇願」が「訴え」に、さらに「怒り」へと変質していく。それにつられ、治安維持にあたっていた兵士も、緊張で爆発寸前、というか、とうとう、デモ隊に発砲してしまった。

気がつくと、路上で1000人以上の死体が転がっていた。これが、有名な「血の日曜日事件」である。その後、民衆の皇帝崇拝は崩れ去り、共産主義運動が一気に加速する。そして、1917年11月7日、ロシア十月革命が勃発し、ロマノフ王朝は崩壊、最終的に共産主義国家「ソビエト連邦」が誕生するのである。

というわけで、日本もロシアも戦争続行はムリだった。そこで、アメリカの仲介のもと、講和が成立し、1905年9月、ポーツマス条約が締結されたのである。

■ポーツマス条約

日本は戦闘で勝利していたので、一応は勝者の扱い。とはいえ、ロシアも本国に攻め込まれたわけではないので、負けた気がしない。そんなわけで、日本は賠償金をせしめることはできなかった。

その代わり、4つの権益を得たのである。

①日本が朝鮮を独占的に支配する(ロシアは朝鮮から手を引く)。

②ロシア軍は満州から完全撤退する。

③ロシアが清朝から租借していた関東州を日本に譲る。

④旅順から長春までの鉄道経営権を日本に譲る

①と②により、ロシアは満州と朝鮮をあきらめ、日本の目的は達せられた。一方、③と④は清朝が承諾することが条件とされたが、10年前の日清戦争で日本が勝利しているので、清朝はのむしかなかった。

この中で、中国の革命に大きな影響を与えたのが③と④である。

まずは、「③関東州の租借」。

「関東州」とは遼東半島の先端部をさし、重要拠点である軍港都市「旅順」と港湾都市「大連」を含む(地図参照)。また、「租借」とは他国の領土を一定期間借りることをいう。もっとも、借りるといっても、治外法権なので、借りる側の行政権、警察権、司法権が適用される。しかも、住宅街をつくろうが、工場を建てようが、遊園地をつくろうが勝手。土地を自由に開発できるわけだ。さらに、租借期限が切れても返還するかどうかは、そのときの力関係による。というわけで、どう考えても「占領」。

つぎに、「④鉄道経営権の譲渡」。

日本がロシアから譲渡された路線は「旅順~長春」だったが(地図参照↓)、これが、後の「南満州鉄道」である。この鉄道を管理運営するため、「南満州鉄道株式会社」も創業されたが、どちらも、略して「満鉄」とよばれた。その後、鉄道網は徐々に拡張されるが、まとめて「満州鉄道」とよばれるようなった(地図参照↓)。

Manchuria_Map

■満鉄

満鉄は、資本金を政府と民間がもつ半官半民の株式会社だった。1987年、NTTが民営化され、株式を募集したとき、あまりの人気に、クジ引きになったが、満鉄も似たようなものだった。第一回目の株式募集では、10万株に対し、申し込み株数は1億664万3016株。ほぼ1000倍である。満鉄はNTTなみの人気があったわけだ。しかも、まだ「財テク」が浸透していない時代である。

では、なぜ、満鉄はこれほど人気があったのか?

半官半民なので安心!もちろんそうだが、それだけではない。

じつは、満鉄はただの鉄道会社ではなかった。

鉄道事業にくわえ、鉱山業(撫順の石炭、鞍山の鉄鉱石)、製鉄業(鞍山製鉄所)をはじめ、農林畜産、電力、ホテル、そして、おどろくなかれ、知の研究機関「シンクタンク」まで抱えていた。しかも、この「満鉄・シンクタンク」は、太平洋戦争の行く末を極めて正確に予知していたといわれている。ということで、満州は今でいう大コンツェルン。実際、満鉄は1906年に設立されたが、世界恐慌がおこった1929年には、関連会社の数は35社に達している。

このような急成長は、やはり、「新地(さらち)からのスタート」が大きい。ゼロスタートなので、急成長と多角化はあたりまえ。でも、地図をみるとわかるが、関東州はネコの額のように狭い。しかも、旅順と大連はすでに街で、新地ではない。

一体、どこか「新地(さらち)」なのだ?

じつは、急成長をもたらした新地は別の所にあった。南満州鉄道の「附属地」である。

附属地」とは鉄道の線路沿いに設定された”おまけ”の土地である。第一の附属地は、線路沿いに幅62mで設定された(※1)。幅は狭いが、路線が長いのでそれなりの面積になる。とはいえ、ヒモのように細長い土地なので、使い勝手は悪い。

第二の付属地は、駅周辺に設定された。広さは駅によって違うが、例えば、ハルビンの場合、街丸ごと一つ分。なので、広くて使い勝手がいい。そこで、日本は、満鉄社員、日本から来るビジネスマン、軍人のために、住宅地、食料品店、雑貨屋、レストラン、デパート、ホテルを建てた。

つまり・・・

駅という「点」を、鉄道という「線」でつなぎあわせ、セットで商売したわけだ。西武グループや東急グループをイメージするとわかりやすい。結局、「④鉄道経営権の譲渡」のキモは「鉄道」でなく、「附属地」だったのである。

■関東軍

こうして、日本は異国の満州で、関東州と満鉄とその附属地を間借りすることになった。それを管理する「関東都督府」も置かれ、日本は満州の「点と線」を支配したのである。でも、そうなると、次に欲しくなるのは、「面」の支配・・・

一方、古くから満州に住む女真族や漢民族にしてみれば、日本人は憎たらしい侵略者だ。実際、日本人と現地人との間でトラブルが多発した。また、満州の奥地には張作霖のような馬賊も出没する。というわけで、満州を維持するには軍が必要だった。そこで、関東都督府に「陸軍部」がおかれ、関東州と満鉄と附属地を守備することになった。

じつは、これが泣く子も黙る「関東軍」の始まりだった。

関東軍はつつましい守備隊からスタートし、ピーク時には、総兵力65万人、戦車657両、航空機750機を擁する大軍団に発展する(※1)。そして、満州のみならず、中国にも干渉し、満州を制圧するため、ありとあらゆる手を尽くすのである。

《つづく》

参考文献:
(※1)満州帝国50の謎森山康平(著),太平洋戦争研究会(編集)ビジネス社

by R.B

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