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週刊スモールトーク (第180話) 日中尖閣戦争(3)~沖縄が中国になる日~

カテゴリ : 戦争歴史

2012.10.14

日中尖閣戦争(3)~沖縄が中国になる日~

■いびつな日本人

もし、尖閣諸島の領有問題で、日本が中国に譲歩したら・・・次に、中国は沖縄を要求してくる。それはありえない、と反射的に思ったら、洗脳がまだ解けていないと考えたほうがいいだろう。

戦後70年、日本はアメリカの軍事庇護の下、「物づくり」という響きの良い役回りを演じていればよかった。平和主義者を気取れるし、なにより、危ない目にあわなくてすむ。でも、その本質は・・・血を流したり、命を危険にさらすのは勘弁してください。でも、タダとはいいません。おカネならもいくらでも払いますよ・・・平和主義者というよりは、拝金主義者に近い。その象徴が在日米軍の駐留費の負担で、「思いやり予算」なんて人を食ったような名前がついている。

こういう発想は、日本では常識なのだろうが、国境紛争に苦しむ国からみれば、さぞかし、「歪(いびつ)」に見えるだろう。1978年、当時の自衛隊制服組トップ、栗栖弘臣・統幕議長は、週刊誌上で、「(現行の)自衛隊法には穴があり、敵から奇襲攻撃を受けた場合、首相の防衛出動命令が出るまで動けない。だから、現場の指揮官が超法規的行動に出ることはありえる」と発言した。

栗栖氏の主張はいたって単純である。

敵が日本に上陸し、攻撃を始めたら、国民の命を守るため、現場の自衛隊は、ただちに反撃する、それだけのこと。不備だらけの法律と、国民の命、どっちが大事?という話だ。もちろん、栗栖氏は、国民の命が大事と言ったわけだ。ところが、栗栖氏はその後も自説を曲げなかったので、伝家の宝刀「文民統制(シビリアンコントロール)」で、バッサリ解任されてしまった。防衛のことはよく分からない防衛庁長官によって。自衛隊のトップが、国民の命を守るのが最優先だと発言したら、解任された?不備な法律を守るために、国民を見殺しにしろと?そんな国が一体どこにあるのだ?

この事件は、日本という国の「歪(いびつ)さ」を象徴している。だが、事はそれだけではすまない。なぜなら・・・国民をバカにしているから。世界有数の軍事力を有しながら、敵に攻撃されても、法令遵守で、自衛隊が助けられない場合もある?では、自衛隊の維持費は誰が負担しているのだ?国民の税金では?ついでに、こんなバカことをやっている政治家の給与は誰が負担しているのだ?

国民の税金。おいおい・・・さらに、自衛官のプライドを著しく傷つけたことだろう。有事には命を張って国を守る責務を負いながら、自分たちの最高司令官がこんな扱いをうけたら・・・軍人の士気を下げて、何かいいことあるのか?さて、その栗栖氏だが、解任された後も、TVに出演して持論を展開した。局側も心得たもので、軍隊の暴走は許さないぞとばかり、「栗栖氏(悪)Vs知識人(善)」という対決スキームで討論会を設定した。学者、評論家、学生がみんなで、よってたかって、ルールを破った栗栖氏をやりこめようとしたが・・・ことごとく、栗栖氏に論破されてしまった。

不思議なことに、論破された側も、キョトンとした顔付きで、不快感を感じている様子はない。何ごとも疑り深く、皮肉屋の自分が彼の「高度な知性」に引き込まれていくのがわかった。頭が切れるだけでは、ここまではいかない。一体どんな人生を送れば、このレベルに達するのだ?栗栖氏は東大法学部卒の内務官僚だったが、なぜか、志願兵として帝国海軍に入隊している。大平洋戦争後は、弁護士を営んだが、やがて自衛隊に入隊。その後、制服組トップの統合幕僚長までのぼりつめている。もっと、楽ちんでエリートな人生があったのに、なぜ、軍人なのだ?おそらく、「国防」こそが、人生を賭けるに値する職務と確信したのだろう。そうでなければ、キャリア官僚がわざわざ海軍に志願したりはしない。日替わり防衛庁長官とは、本気度が違うわけだ。

その栗栖氏が生前著した書が「いびつな日本人」である。その中に、こんなことが書かれていた。栗栖氏が大使館の駐在武官として海外赴任したとき、「軍人が尊敬されていないのは、日本だけだ」と痛感したという。有事には、命懸けで国を守らなければならないのに、理不尽な話だ。2008年にも、これと似たような事件が起こった。田母神論文事件である。当時の航空自衛隊トップの田母神俊雄・航空幕僚長が、自身の論文の中で、集団的自衛権で、政府と異なった見解を示したため、(事実上)解任されたのである。いずれも、憲法第9条や自衛隊法の矛盾をつくもので、事は国の運命を左右する「国防」である。それを、政治家も官僚もマスコミも、見ざる聞かざる言わざるで、問題先送り・・・これでは「いびつな日本人」と言わてもしかたがないだろう。

高校時代、世界史の熱血先生が、「国が滅ぶ」共通の法則を3つ挙げていた。その一つが、「傭兵に頼る」その顕著な例が、古代ローマ帝国に滅ぼされたカルタゴだろう。ところが、そのローマ帝国(西ローマ)も、ゲルマン族の傭兵隊長オドアケルに滅ぼされてしまった。つまり、ローマ帝国滅亡の直接原因も「傭兵」だったのである。

■戦後のアジアの大戦争

話を戦後の日本にもどそう。日本が金儲けに勤しむ間、世界中で武力紛争が頻発していた。中には、市民を巻きこむ総力戦にまで発展したものもある。それも、地球の裏側ではなく、すぐ隣の中国と朝鮮半島で・・・1946年、中国で、蒋介石率いる中華民国軍と、毛沢東率いる中国共産党軍が内戦に突入した。この戦いは約3年続いたが、1949年、中華民国側は敗北し、蒋介石政権は台湾に逃れた。その後、民主化がすすみ、現在の台湾政府となっている。

また、朝鮮半島では、韓国と北朝鮮の間で朝鮮戦争(朝鮮動乱)が勃発した。1950年6月25日、国境付近で、突如、北朝鮮軍が砲撃を開始、10万を超える北朝鮮軍が韓国になだれ込んだ。戦場は、朝鮮半島全土におよび、都市を巻き込む激しい地上戦となった。結果、民間人だけで、韓国と北朝鮮合わせて、100万人~200万人が犠牲となったいわれる。さらに、戦闘員も含めると、犠牲者の総数は400万人にのぼるという。5年によおよぶ太平洋戦争の日本の犠牲者数は210万人。朝鮮戦争がいかに激しい戦争だったかがわかる。じつは、この朝鮮戦争で、漁夫の利を得たのが日本だった。国連軍の軍需物資の巨大な需要が、日本に空前の好景気をもたらしたのである。つまり、日本は他国の戦争で潤ったわけだ。

こんなことを続けていれば、「危険な戦争はアメリカにまかせ、金儲けに専念する方が得」それがいつのまにか、「日本は戦争なんかしない→日本は平和国家→日本は正義の国」という錯覚におちいり、そんな日本が攻められるはずがない、と信じ込むようになった。そして、最後の砦の自衛隊をないがしろにし、軍事予算をけちって、ひたすら商売と娯楽に精を出してきたのだ。だから、今回の尖閣諸島事件のように実力行使に訴えられると、たちまち、フリーズ、すべてが後手にまわる。だから、ゲームのルールを作るのはいつも中国なのだ。

話を沖縄にもどそう。「中国の沖縄返還要求」は、空想的平和主義者には、想像もできないだろうが、アメリカが中立を決め込むか、国力が衰退し、他人にかまっていられなくなれば、必ず現実になる。では、中国が沖縄の領有権を主張する根拠は?いくら、領有権の根拠は存在しないと言っても、根拠が皆無では、世間体(国際世論)が悪すぎる。

■沖縄の領有権

中国が主張する「沖縄=中国領」の根拠は歴史にある。そこで、沖縄の歴史をみてみよう。12世紀に、源為朝が沖縄(琉球)に逃れたという伝説もあるが、確かな証拠はない。確かなのは、1429年、第一尚氏が琉球王国を建国したこと。もちろん、この時点で、沖縄(琉球王国)は独立国で、日本とは貿易以外の関係はない。

そして、16世紀後半、朝鮮出兵の際、豊臣秀吉が琉球王国に支援を命じたが、一度、拒否されている。琉球王国が明(中国)の冊封国だったから。明の冊封国(サクホウコク)?そう、ここが問題なのだ。冊封とは、中国の君主が、周辺国の君主と、名目的な君臣関係をもつこと。ゆるやかな、宗主国(中国)と属国(琉球王国)の関係といってもいい。この強化バージョンが古代ローマのクリエンテラ国家だ(ラテン語で「被保護者」を意味する)。このように、国家の君臣関係は、程度の差こそあれ、歴史上たくさん存在した。ということで、「冊封」をもちだせば、琉球は日本より中国に近かったことになる。

ところが、その後、薩摩藩が琉球に攻め込み、琉球を実効支配した。さらに、19世紀、明治政府は廃藩置県を促進するため、琉球王国に対し、清朝(明の次の中国王朝)との冊封関係を絶つよう迫った。ところが、琉球王国はこれを拒否。そこで、1879年3月、明治政府は武力によって、琉球を沖縄県とした。これが「琉球処分」である。もし、中国がここを突いて、「沖縄は本来、中国領、少なくとも日本領ではない」と主張したら、どうするのだ?ちょっと、理屈がヘン?

たしかに。だが、ここで重要なのは、厳密な論理・証拠ではない。らしき口実さえあれば、領有権の口火を切ることができる、ということだ。そして、一旦、ののしり合いが始まれば、はた目でみると、どっちが本当か分からなくなる。実際、尖閣諸島問題も、他国からみれば、このように映っている。それに、琉球処分を無効とし、沖縄が中国領だと主張する中国高官もいる事実を忘れてはならない。そこまでいうなら、国際社会に訴えてはどうだろう?国際司法裁判所に提訴するとか。きっと、公正な判断をしてくれるだろう。なるほど。では、それが意味があることかどうか、我々自身の歴史を振り返ってみよう。

■満州事変

2012年9月18日、中国各地で大規模な反日デモが発生した。都市部では暴動にまで発展したが、すべて想定内。というのも、「9月18日」は中国にとって特別の日なのである。つまり、「満州事変・日本侵略記念日」。1931年9月18日、満州の柳条湖(りゅうじょうこ)付近で、日本の南満州鉄道が爆破された。関東軍はこれを中国軍の犯行と発表したが、じつは、関東軍の自作自演だった。

その後、関東軍は満州で軍事行動を展開し、清朝のラストエンペラー溥儀を立てて、満州国を建国した。清朝は女真族の王朝だし、満州は女真族の故地なので、「溥儀=女真族=満州の王」の三段論法で、国際的な非難をかわせると考えたのだろう。もちろん、満州国が日本の傀儡政権であることにかわりはない。つまり、満鉄爆破は、関東軍の「満州支配」の布石だったのである。

ではなぜ、日本は満州に執着したのか?満州は、日本の国家安全保障のキモだったから。ロシアの領土は、ほとんどが寒冷地である。そのため、不凍港がない。どんな無敵艦隊でも、凍った港では「陸の砲台」である。そこで、ロシアは不凍港をもとめ、南下政策を進めていた。20世紀初頭、満洲を影響下に置いたロシアは朝鮮半島に進出しようともくろんだ。朝鮮半島をおさえれば、日本海への道が開かれる。

一方、日本にしてみれば、ロシアが満州と朝鮮半島に陣取れば、ロシアと直接対峙することになる。そうなれば、日本にとって、国家安全保障の最大の脅威だ。そこで、せめて朝鮮半島は渡せないと始まったのが、1904年の日露戦争だった。作家の司馬遼太郎は、わずか50年で、チョンマゲ「日本」を世界の一等国につくりかえた明治を称賛し、大平洋戦争をひきおこした昭和を愚としている。

しかし・・・明治維新の象徴「日露戦争」は、太平洋戦争と五十歩百歩の大博打だった。太平洋戦争同様、ほとんど勝ち目のない戦(いくさ)で、最後まで戦えば日本が負けていただろう。ただし、日露戦争も太平洋戦争も、国家安全保障の観点にたてば、起こるべくして起こった戦争といえる。日露戦争はまさに「肉を切らせて骨を断つ」戦争だった。日本は開戦1年で、常備兵力20万人のところ、100万人以上を動員し、補充もままない状況だった。さらに、資金も完全に底を突いていた。

一方、ロシアの国力は日本とは桁違いで、まだ200万人の予備兵力を有していた。つまり、ヒト・モノ・カネ、戦争資源の点で、日本は戦争続行は不可能だったのである。では、なぜ日本は勝利できたのか?理由は3つある。まず、日本が局地戦(個別の戦闘)で連戦連勝し、ロシアの戦意をくじいたこと。次に、日本政府は状況を正確に把握していて、早期の「講和」に全力をあげたこと。最後に、ロシアは「血の日曜日事件」が勃発し、ロシア革命寸前で、戦争どころではなかったこと。

そんな経緯で、日本はかろうじて、日露戦争で勝利し、満州と朝鮮の権益を確保したのである。その後、ロシアから獲得した関東州(遼東半島)の守備、南満州鉄道の附属施設の警備を目的とした守備隊がおかれた。これが後の関東軍である。ところが・・・歴史というものは、ときに、「個人」に大きく揺さぶられることがある。辺境の一守備隊だった「関東軍」を、数十万の大軍団に成長させ、満州事変をひきおこした張本人「石原莞爾」のことである。

石原莞爾(いしはら・かんじ)は、陸軍幼年学校→陸軍士官学校→陸軍大学」と、非の打ちどころのないエリート軍人だったが、陸軍士官学校時代に、学科成績は3番なのに、最終成績は6番だったという。上官への「反抗と侮辱」で減点されたらしい。この時代に、軍隊で、上官を侮辱?!気骨のある人物だが、こういうタイプは能力がともなうと、人生、ただでは終わらない。そして・・・石原莞爾の知能は最強だった。語学、数学が得意で、地頭としては万能型。しかも、ビジョンを描く構想力に長け、軍事における戦略・戦術能力が傑出していた。軍事のシミュレーション演習では、教官を言い負かすこともあったという。

1918年、石原莞爾は陸軍大学を2番で卒業した。1928年、石原莞爾は、関東軍作戦主任参謀として満州に赴任する。そのころ、満州はロシアから譲り受けた権益を基盤に、新天地を築こうとする熱気にあふれていた。すべてにおいて、前例がなく、可能性も青天井。そこに、戦略・戦術の天才、天上天下唯我独尊の怪物が舞い降りたのである。歴史が揺さぶられるのは必然だった。石原は、ドイツ留学をへて、こんな未来を思い描いていた・・・科学技術が進歩すれば、いずれ、超兵器が生まれる。無給油で地球を1周する航空機とか、一撃で都市を破壊する爆弾とか。そのとき、西洋の覇者アメリカと、東洋の覇者日本が激突するという「世界最終戦論」を構想し、その前段階として、満州と内蒙古の領有をもくろんだのである。

その具現が、柳条湖事件に始まる満州事変だった。そして、最終的に、満州全土の武力制圧に成功する。ところが、この作戦には問題があった。日本本国の承認をえていなかったのである。では、誰が命じたのか?関東軍参謀の石原莞爾と板垣征四郎。このとき、石原は中佐で、板垣は大佐。左官クラスが起こせる大事ではない。歴史学の不毛の論争に、「歴史を創るのは、偶然か必要か?」というのがある。歴史において、個人と偶然の役割を重視するのか、それとも、歴史の決定論的側面を重視するのか、という問題である。後者は、「歴史の方程式」と言いかえるとわかりやすい。

結論からいけば、歴史家の多くは、後者を支持している。前者を支持すれば、普遍性が薄れ、学問ではなくなるから。しかし・・・歴史の方程式では、左官が本国に無断で戦争を引き起こすことはありえない(クーデターは別)。そういう意味で、石原莞爾という個人と偶然の役割を重視しない限り、満州事変は歴史学では説明できない。もちろん、満州国も。つまり、「満州国」という歴史は、個人と偶然が生み出したものだった。ところが、一旦、建国すると、日本は国を挙げて満州国を支援することになる。もちろん、後者は国家安全保障の理にかなうので、歴史の方程式で説明可能だ。

■幻の巨大都市

この新しい国に、日本は莫大なヒト・モノ・カネを投下した。とくに、満州国の首都「新京」は、壮大な20ヵ年計画のもと、世界に類を見ない巨大なメトロポリスを目指したのである。新京は、幅60m、全長7.5kmのメインストリート「大同大街」が南北をつらぬき、直径300mの「大同広場」を中心に、道路が放射状に街全体に張り巡らされた。写真をみると、道幅は広く、洋風のコンクリート建造物がゆったりと建ち並び、街路には電線も電柱もない。すべて、地中に埋設されたのである。しかも、下水道まで完備し(この時代に水洗トイレ!)、飛行場、競技場、競馬場、ゴルフ場まで備えていた(※1)。

満州は日本にとって夢の新天地、一山当てようと、多くの日本人が移住した。1931年の建国当初、新京の人口は10万人だったが、1944年には、86万人に達した。このように、日本が満州に心血をそそいだのは、国家安全保障のためだが、当然、中国にも国家安全保障はある。日本に満州に居座わられてはたまらない。そこで、中華民国(蒋介石政権)は国際社会に訴えることにした。国際連盟に提訴したのである。1932年3月、国連はリットン調査団を現地に派遣し、

・柳条湖事件における日本軍の侵略は自衛とは認められない。

・満州国の独立も自発的とはいえない。

と結論した。実行支配を考慮し、一部日本の主張も認めたものの、総論として、中華民国が勝利したのである。ところが・・・日本はこれを不服とし、国際連盟を脱退し、満州を実行支配した。そして、日中戦争、太平洋戦争と突き進むのである。さて、この歴史から、我々は何を学ぶのか?国際社会に訴えようが、国連に訴えようが、「武力行使」の前には何の意味もない。だから・・・領土問題は「武力行使」を想定し、「自力」で解決するしかない

■領土問題の本質

領土問題は、根拠や道理で解決できるものではない。お互いに、譲歩したら最後だと分かっているからだ。これがあるべき姿とは言わないが、現実を直視するべきである。ここで、領土問題を整理しよう。

1.領有権に「根拠」はない(あるとすれば実効支配)。

2.仮にあったとしても、武力行使の前では無力。

3.領土問題を他人任せにしても解決できない。

ということで、世間体(国際世論)があるので、話し合いは必要だが、武力外交も想定しておくべきだ。最後にモノを言うのは軍事力だから。それに、こっちに強力な軍事力があれば、相手も簡単に武力行使できないだろうから。

これまで、日本は、軍事をアメリカ任せにし、金儲けさえしていればよかった。ところが、アメリカの国力は衰退し、中国の国力は増大し続けている。このままでは、経済、軍事の両面で、中国がアメリカを超える日がくるだろう。そうなれば、アメリカはアジアから手を引かざるをえない。そのとき、日本は自分で自分を守るしかないのだ。いびつな平和主義で洗脳された日本人にとっては、受け入れがたい現実だろう。しかし、武力が最終解決となる問題に、正義やイデオロギーは無力だ。現実の問題は、現実的に解決するしかないのである。我々が対峙しているのは、取るに足らない小国ではなく、核戦争さえいとわない、やる気満々の国なのだから。

《つづく》

参考文献:
(※1)写説・満州太平洋戦争研究会編解説森山康平ビジネス社

by R.B

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