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スモールトーク雑記

■新型コロナ・志村けんの感染と新全体主義 2020.03.28

新型コロナウィルスには、2つの考え方がある。

(1)人類が経験したことのない未知のウィルスだから、感染拡大を断固阻止する。外出自粛、外出禁止、ロックダウン(都市封鎖)もいとわない!

(2)季節性インフルエンザより致死率が低いので、騒ぎすぎ。過度の制限は、国民生活と経済を直撃する。世界恐慌になったらどうするのだ!

では、どちらが正しいのか?

人による。

高齢者や基礎疾患(糖尿病、高血圧、心臓病)がある人なら、絶対に(1)。感染したら、重篤化し、命が危ないから。

一方、若者は(2)。感染しても、軽症ですむし、症状がでないこともある。それより、「自粛疲れ」の方がつらいわ。

では、政府は?

ビミョー。

高齢者と基礎疾患の人が死んでくれれば、年金と医療費の負担が減るから、(2)。でも、そんな魂胆がバレバレなら(間違いなくバレる)、選挙で高齢者の票を失う。やっぱり、(1)かな。

つまりこういうこと。

新型コロナウィルスは、老人と弱者を群れごと焼きつくす、神の御業か自然界の摂理か・・・を容認するかどうか?

もし、容認すれば、個(老人と弱者)より全体(国民全体)を優先する「全体主義」。否定すれば、全体より個を優先する「個人主義」。

ただし、本来の全体主義は、「どっちが優先」なんて生ぬるい話ではない。個人は全体を構成する部品にすぎない。ゆえに、個人の活動は、すべて全体の利益のために規定される。つまり、ジョージ・オーウェルの究極のディストピア「1984年」のような世界。

誰も言わない、言えない、人の道に外れた言い回しだが、これが現実なのだ。

では、日本政府はどっち?

全体主義。ただし、戦前のナチスドイツや大日本帝国にくらべればソフトなので、正しくは「新全体主義」。

それを暗示したのが、タレントの志村けんの新型コロナ感染だろう。その経緯をみると、「新全体主義」が透けて見えるのだ。

・3月17日、倦怠感を感じて、自宅療養。

・3月19日、発熱と呼吸困難。

・3月20日、病院で重度の肺炎と診断。

・3月23日、検査の結果、陽性と判明。

・3月24日、人工心肺装置で治療開始。

(3月30日、死亡)

お気づきだろうか。新型コロナの検査が行われたのは、症状が出てから1週間後!

ところが、そのときすでに重篤。

つまりこういうこと。

新型コロナに感染したら、死ぬ直前まで検査してもらえない。ひどい話だが、政府には深謀遠慮がある。他国のように、真面目に検査すると、感染者の数がバンバン増えて、病院がパンクする。つまり、個々の患者より、医療全体を優先しているわけだ。つまり、新全体主義。

では、新全体主義は悪か?

そうともいえない。一般論として、国の統治者は、個より全体を優先する方が理にかなっているから。事実、今回のパンデミックでは、個人主義の米国より、全体主義の中国の方がうまくいっている。

ただし、日本のように、意図的に検査を制限すれば、水面下で感染が拡大している可能性が高い。それが、ある日突然、表面化する。それが、政府のいう「オーバーシュート」だろう。

世界標準と真逆の手法、バクチをうっているのだから、失敗すれば、政府の責任は重い。「国民の命」を賭けたのだから。

もっとも、日本の場合、それで責任をとらされることはない。たとえば、福島第一原子力発電所事故。最大15.7mの津波は予測できたのに、防潮堤の費用をけちって、「東日本壊滅」寸前まで追い込んだのだ。それでも、東京電力のトップは、全員無罪。

というわけで、政府のバクチが、吉と出るか凶とでるか、それが問題だ。

吉であれ凶であれ、すべて国民に降りかかるのだから。

《つづく》

by R.B

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