進化論と創造論 ~インテリジェント・デザイン~
■偶然と必然
作家の三島由紀夫は、小説「美しい星」の中で、次のように書いている。
偶然という言葉は、人間が自分の無知を糊塗(とりつくろうこと)しようとして、もっともらしく見せかけるために作った言葉だよ。偶然とは、人間どもの理解をこえた高い必然が、ふだんは厚いマントに身を隠しているのに、ちらとその素肌の一部をのぞかせてしまった現象なのだ・・・宗教家が神秘と呼び、科学者が偶然と呼ぶもの、そこにこそ真の必然が隠されているのだが、天はこれを人間どもに、いかにも取るに足らぬもののように見せかけるために、悪戯っぽい、不まじめな方法でちらつかせるにすぎない(※1)
三島由紀夫のこのあまり有名ではない小説は「偶然と必然」の話ではなく、地球に住む宇宙人の家族の物語である。金星人の霊魂が、地球に住む一家に宿るという大胆な設定で、いわゆる三島作品ではない。
三島由紀夫は絵になる人だった。名家に生まれ、第一高等学校、東大法学部、大蔵官僚と進み、その9ヶ月後に、作家に転じている。代表作は「仮面の告白」、「潮騒」、毛色の変わったところでは「豊饒の海」がある。「豊饒の海」第一部、「春の雪」を読みかけたが、一ページ目で挫折した記憶がある。日本語なのだが、意味不明の漢字が散りばめられ、中味まで理解する余裕はなかった。
三島由紀夫の文体は、真似ようと思って真似られるものではない、というのが通説で、いわゆる天才肌の作家だった。そのためか、ノーベル文学賞の候補にもなっている。また、彼の活動は執筆にとどまらなかった。映画を撮ったり、出演したり、思想団体「楯(たて)の会」を創設したり。その「楯の会」だが、1970年11月25日、日本の歴史に残る大事件を起こしている。
この日、三島由紀夫ら「楯の会」のメンバーは、陸上自衛隊東部方面総監部の総監・益田兼利陸将を訪問した。その後、総監室で談話中、突然、三島らは総監を人質にして、籠城したのである。三島はバルコニーから自衛隊員に向かって、決起するよう呼びかけたが、罵声をあびるだけで、思いはとどかなかった。失望した三島は、部屋にこもり、割腹自殺する。短刀を腹に突き刺し、介錯(かいしゃく)で首をはねさせる、いわゆる「ハラキリ」である。並の胆力でできることではない。こうして、三島由紀夫は45歳でこの世を去った。
「美しい星」がいわゆる三島作品ではないと書いたのは、彼のこのような人生によっている。三島由紀夫ほどの大作家が「SF」なんぞ書くもんか。きっと、最後にどんでん返しがあって、現実世界に引き戻されるのだ、そう信じて読んでいくのだが、期待は見事に裏切られる。最後に、銀灰色の円盤(UFO)が登場するのである。
この小説は、高次の宇宙人から見た地球文明の愚かさをテーマにしているが、金星人、火星人、霊魂、空飛ぶ円盤・・・どうみてもB級SFである。一方、どこを読んでも、B級SFの臭いがしない。日常の中の非現実、という奇妙な感覚があるだけだ。「美しい星」は外見はB級SF、中味は純文学という珍しいハイブリッド種なのである。
冒頭の一節は、「美しい星」の中で、宇宙人家族の父が息子に語りかけた台詞だが、「偶然と必然」を見事に言い当てている。文章を書くのはひとえに才能なのだ、とつくづく思う。三島由紀夫が言いたいのは、
「理解を超えた必然は偶然にしか見えない」
そして、
「偶然など存在しない」
人文科学の頂点を極めた三島の説には説得力がある。論理ではなく、その表現力によって。
■不確定性原理
一方、自然科学の世界では、その真逆の説が優勢である。つまり、必然はなく偶然。事の発端は、1927年デンマークの都コペンハーゲン。若き天才物理学者ハイゼンベルクが提唱した「不確定性原理」に始まる。「不確定性原理」は、ミクロの世界を説明する最強の理論「量子力学」の扉を開いた歴史的な学説である。この理論を人文科学風に表現すれば
「この世界は確率でしか表せない。つまり、世界は必然ではなく偶然に支配されている」
これに対し、幾何学のような美しい理論を好んだアインシュタインは、
「神はサイコロは振らない」
と反論したという。「量子論」と「相対性理論」の比較でよく引き合いに出されるエピソードである。
ハイゼンベルクがこの歴史的論文を書いたのは25歳のときである。21歳で博士号を取得し、23歳でヒントを得て、25歳で完成、そして、31歳でノーベル物理学賞受賞。絵に描いたような天才である。その偉大な発見も、今では大学の教養課程で学ぶことができる(但し簡易版)。この理論の正本は、行列というややこしい数学で記述されている。かなり難解なので、人文科学的にまとめてみよう。
「原子核の周囲を電子がぐるぐる回っている」という原子モデルは、高校の物理で習う。ここで、電子の質量を「m」、速度を「v」とすると、
「p=m×v」
が運動量となる。この式から、運動量なるものは、重くて高速なほど大きいことがわかる。例えば、高速で走行する大型自動車は運動量が大きいので、はねられるとダメージが大きい。運動量とはこのようなものと考えていいだろう。
次に、電子の動きを観測するとする。電子は原子核の周囲を回っているので、ある瞬間、電子の「位置」と「運動量」を測定できるはずである。ところが、「不確定性原理」によれば、
「位置と運動量を同時に測定することはできない」
これは測定誤差の話ではなく、数学的に証明されているという点が重要である。
それにしても奇妙な話だ。実体があるのに「位置」と「運動量」を同時に測定できない?幽霊じゃあるまいし。しかも、測定できないことを数式で表わせる?そう、それも驚くほど単純な不等式で・・・ただ、この不思議には”注釈”がついている。これが通用するのは、原子レベルのミクロ世界だけ。
では、なぜこのような不思議なことが起こるのか?まず、電子の位置を測定したとする。すると、位置を測定した影響で電子の状態が乱され、運動量が正確に測定できない。その逆もまた真なり。つまり、位置と運動量を同時にかつ正確に測定することは原理的に不可能である!?なんかだまされたような・・・きちんと理解するには、大学の物理学科に進学する必要がありそうだ(もう遅いけど)。
ただ、位置と運動量が測定できないといっているわけではない。値そのものはムリだが、その値が現実となる確率なら分かるというのだ。例えば、電子がAの位置にいる確率は90%、Bにいる確率は80%、Cにいる確率は1%、という風に。つまり、電子はAにいるのだろうが、確率は90%で絶対とは言えない。なんとも歯切れの悪い話だが、このことは、ミクロの世界が「確率=偶然」に支配されていることを示唆している。
つまり、「物理学」最強の量子力学によれば、この世界で何が起こるかは、無知な人間のみならず、神でさえ予測できない。ところが、この「偶然至上主義」は生物学の世界でも主流になっている。その象徴がチャールズ・ダーウィンの「種の起源」、いわゆる「ダーウィンの進化論」だ。
■進化論と創造論
「ダーウィンの進化論」は、明確に偶然が支配する世界である。例えば、人間のような精緻な生命体はいかにして造られたか?ダーウィンの進化論では次のように説明される。地球上の生命は原始生命から始まり、突然変異により、様々の生物種が生まれ、その中で、環境に適応したものが生き残った。
この理論のポイントは、偶然に起こる突然変異により、多種多様な生物種がつくられ、適者生存の仕組みにより、勝組が選択される、という点。つまり、人間は偶然の産物であり、あらかじめ設計されたものではない。一方で、この理論に疑問を投げかける人たちもいる。人間のような複雑で精緻きわまる存在が、偶然の連発で生まれるわけがない、猿に紙と鉛筆を与えたら、偶然、「美しい星」ができあがった?
キリスト教原理主義のある宗派は、進化論を次のように非難している。例えば、人間の目は、最も精巧なカメラよりはるかに複雑だ。眼球は、ガラス体とそれを包む網膜、光を集める水晶体、水晶体の厚みを変えて焦点を調節する毛様体、光量を調整する瞳孔、水晶体をシールドする角膜、さらには集光した光情報を脳に伝える視神経からなる。確かに複雑だ。
ここで重要な点は、目はこれらの部品がすべて同時に出現しないかぎり機能を果たさないということ。ところが、目が段階的に進化したとすれば、すべての部品がそろうまで、各部品はガラクタにすぎない。ところが、意味のないガラクタ部品はすべての部品がそろうまで生きのびることはできない。意味のないものは自然淘汰されるからだ。つまり、目はいつまでたっても完成しない。これは現実と矛盾する。目は現実に存在しているからだ。進化論の伝家の宝刀「自然淘汰」を逆手に取った恐るべき反論である。
このキリスト教宗派は、進化論をただ非難しているわけではない。ちゃんと、代替案も用意している。「神による天地創造論」だ。この説によれば、目は神が設計し創造した必然の産物で、偶然にできたものではない。だから、どれほど複雑であっても驚くことはないのだ、と。
仏教徒にとって、「神による天地創造」は重い。とはいえ、説得力がないこともない。ただ、この説にも弱点はある。神の存在がまだ科学的に証明されていないことだ。一方、現在では、科学者の中にも、ダーウィンの進化論に懐疑的な人たちもいる。ただし、進化論のすべてを否定しているわけではなく、「銀の弾丸」ではないと言っているだけなのだが。
例えば、進化論の急先鋒、「木村の中立説」。突然変異によって、環境に有利な変異体と不利な変異体が生まれた場合、有利な方が子孫を残し、不利な方は淘汰される。これは、自然淘汰による適者生存で、偶然ではなく必然が支配している。一方、突然変異で変異体が生まれるとして、環境に有利な変異体と不利な変異体のどちらが生まれやすいのか?答えは、
「五分五分=偶然」
つまり、突然変異はランダム(偶発的)に起こり、有利な変異体が生まれやすいことはないのである。これが、「木村の中立説」。
ところが・・・
ある実験で、有利な変異体のほうが、不利な変異体より高い確率で突然変異が起こることが確認されている。これは、突然変異がランダムではなく、特定の方向性をもつことを意味している。つまり、必然が介入している。
■インテリジェント・デザイン理論
今、インテリジェント・デザイン(intelligentdesign、ID)理論が熱い。インテリジェントは「知性」、デザインは「設計」。つまり、インテリジェント・デザイン理論とは、
「宇宙や生命が偉大なる知性によって設計された」
という説。なるほど、よくある神様の創造物語かと思いきや、そうでもない。その証拠に、
「宇宙や生命が神によって創造された」
とは言っていない。よく見ると、「神」は「偉大なる知性」に、「創造」は「設計」に置き換えられている。この差異により、インテリジェント・デザイン理論が怪しげな宗教ではなく科学である、と強調したいのかもしれない。
ただ、「創造論」にしろ「インテリジェント・デザイン理論」にしろ、「生命は適者生存の自然淘汰によって創られた」とするダーウィンの進化論と対立する。前者によれば生命は必然の産物、後者によれば偶然の産物だからだ。
インテリジェント・デザイン理論の有名な解説に、数学者ウィリアムデムスキーの「ネズミ獲り機」がある。ネズミ獲り機はネズミを捕獲するための装置で、ネズミをはさみ込むハンマー、ハンマーを固定するバネと解放する引き金、これら部品を固定する台からなる。当然、部品が一つ欠いても、ネズミ獲り機として機能しない。また、不要な部品も一つもない。つまり、ネズミを捕獲するという単一目的で最適化された完全体なのだ。これが、試行錯誤で段階的に完成するはずがない、というわけだ。
面白いことに、この「ネズミ獲り機」の話は先のキリスト教宗派の「目の話」に酷似している。インテリジェント・デザイン理論の信奉者たちは、地球上には、こうした特定の目的のためにデザインされた無駄のない構造物であふれていると言う。この世界が、未知の「偉大なる知性」によって、目的を意図して設計されたというのだ。つまり、偶然ではなく必然。
さて、あやしい宗教と科学のハイブリッド理論と、ノーベル賞理論とどっちを信じる?ところが、完全無欠と思われた「不確定性原理」の不等式が破られたという情報もある(※2)。最先端の科学もまだゆらいでいるのだ。
じつは、インテリジェント・デザイン理論の騒動は、アメリカのブッシュ大統領の一言から始まった。ブッシュ大統領が記者団の前で、
「公立学校では、インテリジェント・デザイン理論を進化論とともに教えるべきだ」
と発言したからである。前述したように、インテリジェント・デザイン理論は進化論より、「神による天地創造論」に近い。そのため、一神教を信奉する各宗派も活気づき、議論百出となった。
にぎやかな騒動の顛末はさておき、この議論が行き着くところは、
「世界は偶然の産物かそれとも必然か?」
これは立場による。宗教関係者は必然を、科学者は偶然をとることが多い。科学者が必然を毛嫌いするのは、必然を肯定すれば、「必然の根源=世界の設計者」を証明する必要があるからだ。もし、世界が偶然の産物なら、面倒な説明をすべて確率になすりつければいいのだから。
■宇宙はいかにして始まったか
だがよく考えてみれば、この世界が偶然の産物だとしても、偶然を起こすための部品やプロセス(法則)が必要なわけで、それはどうやって創られたのだろう?ニュートンの万有引力の法則やハイゼンベルクの不確定性原理のような物理法則が段階的に進化したとは思えない。これらの法則が、宇宙の誕生とともに一撃で完成しないかぎり、その後の宇宙創造のプロセスが説明できないのだから。
そう考えれば、天地創造のもう一つの仮説、「宇宙は神の一撃で始まった」のほうがまだ説得力がある。この仮説は、偶然も必然も眼中になく、
「この宇宙は宇宙の外から持ち込まれた!」
大胆不敵、驚愕の仮説である。ところが、この論者は日本を代表する大学の教授であり、宇宙物理学の権威だという。聖書に記された「世界は神が創った」は決して荒唐無稽とは言えないのだ。
参考文献:
(※1)三島由紀夫「美しい星」新潮文庫
(※2)日経サイエンス2007年4月号「不確定原理の今」
by R.B