呉越戦争(4)~陶朱の富~
■越の陰謀
越の復讐の手だては悪魔のそれであった。陰湿で、執念深く、寒気がするほど巧妙。越は国力で呉より劣る分、そうするしかなかったのだろう。范蠡(はんれい)、文種(ぶんしょう)、逢同(ほうどう)、越の重臣は、みな深遠謀慮だった。あるとき、逢同は、呉に斉(せい)を攻めさせることもくろんだ。呉が斉に勝つことは分かっていたが、戦いで少しでも呉の力を削ぐためである。そして、その方法は巧妙で陰湿で、大胆だった。
伯ひは、呉で伍子胥をしのぐ権勢を誇ったが、すでに越に買収されていた。伯ひは貪欲の権化で、金品を受け取る見返りに、母国を裏切ったのである。国家第一の家臣が売国奴、というのは国にとっては悲劇である。逢同は、この伯ひをそそのかし、呉王、夫差(ふさ)に斉を攻めるよう進言させた。そして、夫差が乗ってこないことを知ると、さらに大胆な行動にでる。越みずから兵を出し、呉が斉を討つのを助ける、と申し出たのである。その口上は見事なものであった。
「呉王陛下、斉は大国のおごりから、魯(ろ)や衛(えい)のような小国を滅ぼそうとしています。古代より、天下の覇王たらんとする者は、このような理不尽を見逃さないものです。かつて、陛下は、会稽山(かいけいざん)で命数尽きかけたわが越を、慈悲をもって助けてくださいました。その恩に報いるために、こうして兵を率いてきました。もし今、斉を討ち、魯や衛を救えば、呉王陛下は、春秋13諸侯の覇王に推されることでしょう」
春秋13諸侯の覇王・・・越への復讐をなしとげ、目標を失った呉王、夫差にとって、唯一気分を高揚させる言葉であった。
■夫差と伍子胥の対立
虚栄心が強く、思慮の浅い呉王をそそのかすには、うまい口上だった。夫差が覇者の言葉に酔いしれ、歯の浮くようなセリフに聞き入る様を見て、伍子胥はいらだった。またもや、越が夫差をそそのかし、国を破滅させようとしているのだ。伍子胥は怒りを抑えられなくなった。伍子胥は、強い口調で言った。
「陛下には、越王、勾践の腹の内が見えませぬか。会稽山で敗れて以来、勾践は范蠡、文種、逢同をしたがえ、国をあげて粗衣粗食にたえ、富国強兵を練っています。それもすべて、わが呉を討って、会稽の恥をそそぐためです。勾践の狙いは、わが呉を斉と戦わせて、呉の力を削ぐためです。決して、斉を攻めてはなりません。攻めるなら越のほうです」
ところが、伍子胥に嫌気がさしていた夫差はこれを無視した。そこで、伍子胥は堪忍袋の緒が切れた。
「陛下!獅子身中の虫である越を捨ておき、斉を攻めるなど主客転倒、ことの大小、軽重を知らぬ者のすることです。決して、斉を攻めてはなりません」
その言い様に逆上した夫差は、伍子胥にこう言い放った。
「それほど言うなら、斉を攻めるのはやめよう!ただし、おまえは斉に行き、呉に無条件に降れと言え。もし斉が降れば、おまえの言うとおりにしてやろう」
夫差の命令が実現する見込みなどないことは、伍子胥には分かっていた。それでも、伍子胥は斉に出向いた。どんな命令であれ、主人の命に従うのが家臣のつとめである。だが、伍子胥は使者としての務めは果たさず、自分の子を斉の鮑氏(ほうし)預け、そのまま帰国する。伍子胥は、夫差も呉の国も見限っていたのである。一方、伍子胥の行動は、伯ひが放ったスパイによって、夫差につつぬけだった。
さらに、もう一人、伍子胥の命を狙う者がいた。越の重臣、逢同である。逢同は、呉でまともな家臣は伍子胥だけ、彼さえ取り除けば、呉は瓦解すると読んでいた。夫差は無能で、伯ひは逆臣、伍子胥さえいなければ、呉など恐るるに足らず。逢同は、買収した伯ひに、伍子胥を陥れるようしむけた。伯ひは、多額の賄賂を受け取り、夫差に恐ろしい讒言をした。
「陛下、伍子胥は実直をよそおっていますが、実は残忍な男です。父と兄を見殺しにして、自分一人呉に逃げ込んだのがその証拠です。そのような薄情な男が、陛下のためを思って行動するでしょうか。以前、伍子胥は斉に出兵することに反対しましたが、結果は呉の大勝利でした。伍子胥は、それを妬んでいるのです。自国の勝利を妬む家臣が、どこにいるでしょうか。それに、斉を攻めることにあれほど反対するのは、斉から賄賂を受け取っているからかもしれません。伍子胥は、呉にとって禍(わざわい)の元です」
伯ひの恐ろしい讒言、それを背後で操る越。知らぬは、夫差のみ。
■伍子胥の最期
伯ひの讒言と、斉での行動が露見した伍子胥は窮地に追いこまれた。そして、ついに、越が長年待ち望んだ日がやって来た。夫差が伍子胥を殺す決意をしたのである。夫差は、使者を送り、伍子胥に属鏤(しょくる)の名剣を与えた。この名剣で自らの首をはねよ、という意味である。夫差にしてみれば、呉の先王、闔閭(こうりょ)から仕えた重臣に対するせめてもの思いやりだった。伍子胥は気性の激しい人物だった。怒りを抑えられない伍子胥は、呉王の使者の面前で、こう言い放った。
「伯ひこそが呉の逆臣である。その逆臣の讒言を信じて、呉王はわたしを殺すという。なんということだ。わたしは夫差の父を助けて呉王にし、夫差も王にしてやったではないか。夫差は、それに感謝し、このわたしに国の半分を与えるとまでいったことを忘れたのか。だが、こうなった以上、是非もない。いさぎよく自らの首をはねよう。だが、一つだけ言っておくことがある。わたしが死んだ後、この目をえぐり取って、呉の東門の上に置け。その東門の上で、越が攻め入って呉を滅ぼすのを見届けてやる」
そう言って、伍子胥は自らの首をはねた。使者は、伍子胥のこの言葉を夫差に伝えた。夫差は激怒し、伍子胥の体を皮袋にいれ、長江に投げ捨てさせたという。こうして、呉の忠臣、伍子胥は哀れな最期をとげた。
■越王、勾践の復讐
紀元前477年3月、黄池(こうち)にて、呉王、夫差は会盟の儀式にのぞんだ。会盟とは、春秋の諸侯間でむすばれた同盟で、盟主は覇者とよばれた。この儀式では、牛が生贄(いけにえ)にされ、覇者が牛の耳を切り取り、会盟者全員がその血を飲むのである。まだ中央集権が確立していない中国では、この覇者こそが、王者であった。
その名誉ある儀式が執り行われるさなか、突如、越は4万の大軍で呉に攻め入った。10年もの年月をかけ練り上げた越の復讐劇がはじまったのである。鍛え抜かれた越軍は強かった。呉の都、姑蘇城(こそじょう)はたちまち陥落、留守を守っていた太子友(ゆう)は、とらえられ、殺された。会盟の儀式の最中、夫差はこの異変を知った。覇者にならんとした瞬間、都が落城し、太子が殺されたのである。天国から地獄へ。夫差は、この知らせを信じることができなかった。
ただへつらうだけの越が、呉に攻め入った?大切な後継者、太子友が殺された?夫差は、この知らせを伝えた使者をすべて殺し、事実を隠したまま、いそぎ帰国した。一方、呉の都、姑蘇城を占領した越軍も予断を許さない状況だった。兵数に優る呉軍が姑蘇城に包囲すれば、越軍の兵糧は断たれるからである。
一方、攻めに転じて、呉軍を殲滅する力もない。呉と越は和議をむすび、越軍は帰還した。これで振り出しにもどったように見えるが、じつは、呉と越の立場は逆転しつつあった。夫差にとって、越の攻撃は青天の霹靂(へきれき)で、現実を受け容れることができなかった。それに、越軍が精強さは周知となり、次に攻め込まれたら、勝てるかどうかわからない。呉の兵は自信を失い、脱走者が続出した。さらに、跡を継ぐ太子友を失ったことも、夫差をひどく落ち込ませた。越の望みが明らかになった今、夫差は、越の動向におびえながら毎日を送っていた。せっかく手に入れた「春秋の覇者」も実体のない呼称に過ぎなかった。このとき初めて、夫差は伍子胥の具申がすべて正しかったことを知ったのである。
そして、その4年後、越はふたたび呉に攻め入る。呉の国人はすでに夫差に背を向けていて、越軍は連戦連勝、2年後に呉の都、姑蘇城を包囲した。紀元前476年3月、姑蘇城の近く笠沢(りゅうたく)で、呉と越の最後の決戦が行われた。呉軍は大敗し、姑蘇城に逃げ込んだが、それでも、3年もちこたえた。紀元前473年11月、越軍は城門を突破し、ついに都に突入する。夫差は姑蘇山に逃れ、越軍は山を包囲した。20年前の「会稽の恥」が、呉と越の立場を入れ替え、再現されたのである。
■夫差の最期
呉王、夫差は、公孫雄(こうそんゆう)をつかわし、越の勾践に和を乞うた。公孫雄は、越王、勾践に懇願した。
「わが王、夫差になりかわり、お願い申し上げます。どうか、夫差の命だけはお助けください。夫差は、かつて会稽山にて、越王陛下のお申し出をいれ、囲みをとき、兵を引きあげました。願わくば、あのときの慈悲を思いおこされ、夫差を臣下することで越をおゆるしいただくよう願い申し上げます」
勾践は、20年前の会稽山の屈辱を思い出した。あのとき、夫差は勾践の命を助け、そのおかげで、勾践は目的をとげることができたのである。勾践は、夫差と自分の立場が20年前と逆転したことに、運命の恐ろしさを感じた。そして、夫差に強い哀れみを感じたのである。こうして、勾践は、呉との和睦に傾きはじめた。呉を属国として夫差を臣下とし、夫差をゆるそうとしたのである。ところが、范蠡は語気を強めて、反対した。
「会稽山のときは、天が越を呉に賜ろうとしたのに、呉がそれをうけなかったのです。そして今、天は越に呉を賜ろうとしています。天の意志に逆らってはなりません。陛下が今日まで、豚の胆(きも)を嘗(な)めて、耐え忍んだのは、呉に復讐するためだったはずです。20年も謀ってきたことを、一朝にして捨て去ってよいものでしょうか。天が賜るものを受けなければ、必ずや天のとがめをうけると言います。呉はその手本です。陛下は、呉が犯したあやまちを、繰り返すつもりですか。会稽の恥を忘れたのですか?」
范蠡は、呉の使者、公孫雄を追い返した。公孫雄は涙を流しながら帰っていった。家臣もまた、主人の命を救おうと必死だったのである。范蠡の意に従って、使者を追い返したものの、勾践の気持ちは晴れなかった。夫差が哀れでならなかったのである。勾践は范蠡に言った。
「そちの言うとおりだが、夫差が哀れでならない。夫差を甬東(ようとう)の島へうつし、余生を送らせてはどうか。それなら、再び背くこともできまい」「陛下のお気持ちがそれですむなら、それもよいでしょう」
范蠡はそう答えたが、夫差が受けないことはわかっていた。越の文種は、密かに夫差の元に行き、それを伝えた。「わが君、勾践はこう申しております。呉王である夫差どのを、呉にとどまらせればまた復讐をよぶことになる。さりとて、お命を奪うのも忍びない。そこで、甬東の島でご一族ともども静かな余生を送られてはと申しております」しかし、夫差は生きることをあきらめていた。呉の王として23年間、君臨し、西施と夢幻の世界に遊び、春秋の覇者になることもできた。もう、思い残すことはない。夫差はこう返答した。
「お心づかいはありがたいが、余も歳である。いまさら、越王の臣下となって、世の笑い者になるもつらい。ただ、無念なことは、伯ひごとき奸臣の讒言を信じ、呉にとってかけがえのない忠臣、伍子胥を疑い、このような結果を招いたことである。国を滅ぼしたことは自業自得としても、伍子胥を殺してしまったことが恥ずかしい」
夫差は勾践の厚情をことわると、あの世で伍子胥に合わせる顔がないと、自ら顔を布でおおい、首をはねさせた。こうして、呉は滅んだのである。越王、勾践は、夫差を手厚く葬る一方、奸臣、伯ひを処刑した。
■范蠡第二の人生
呉を滅ぼした勾践は、その後、北上し、斉、晋の諸侯と徐州に会し、会盟の儀をおこなった。ついに、春秋の覇王となったのである。范蠡もまた、上将軍と称され、名声の絶頂にあった。ところが、このとき、范蠡は周囲にこうもらしたという。「大名(たいめい)のもとには久しくおりがたい」大きな名声の中にあって、長い間、身の安全を保ち続けることはできない、という意味である。勾践が凱旋した数日後、范蠡とその一族は越を去った。嘆き悲しんだ勾践は会稽山に廟(びょう)をたて范蠡を神として祀ったという。
その後、范蠡は海をわたって斉に移り、鴟夷子皮(しいしひ)と名乗り、海辺の土地で耕作にいそしんだ。これが、范蠡の第二の人生である。やがて、范蠡は斉で交易をはじめた。物が高値のときに売り、安いときには買い、やがて数千万の富を築いた。それを聞きつけた斉王は、范蠡を宰相に任じようとしたが、范蠡はこれを固辞した。
「家にあっては千金をもうけ、官については卿相となることは栄華の極みである。だが久しく尊名を受けることは身のためではない」
それから、范蠡は資産を村人に分け与え、陶にむかった。陶は天下の物資の集散地として栄えていた。そこで、范蠡は陶朱公(とうしゅこう)と名をあらため、商品投機で、巨万の富を築いたのである。その後、「陶朱公」は大商人の代名詞となり、故事「陶朱の富」の語源となった。
范蠡は、政治、軍事、経済、投機に長けた万能型の天才だったのである。范蠡は、越を去り、第二、第三の人生を成功させたが、越の重臣、文種はどうなったのだろう。范蠡は、あるとき、文種に次のような書状を送った。
「越王は、苦はともにできるが、楽をともにすることはできない。あなたは、なぜ越王のもとを去らないのか」
それを読んだ文種は、心あたりがあったので、病と称して家に引きこもった。すると、「文種は謀反をたくらんでいる」と越王に讒言する者がいた。越王は文種に剣を送り、文種はその剣で自ら首をはねた。やはり、長居は無用だったのである。こうして、文種は、呉の伍子胥と同じ運命をたどった。歴史はくりかえされたのである。
越は勾践亡き後、5代にわたり栄えたが、6代目の無疆(むきょう)の時、楚に滅ぼされた。その後、秦が中国最初の統一王朝をうちたて、春秋戦国時代は終わる。
■伍子胥・范蠡・文種
呉越の戦いをささえた重臣、呉の伍子胥、越の范蠡と文種。彼らは、いずれも、知と忠義を兼ね備えた名臣で、国政を左右し、歴史に名も刻んだ。ところが、その末路は三人三様であった。三人の中で、もっとも短命だったのは伍子胥。呉王、夫差の逆鱗に触れ、自決させられたのである。伍子胥は、呉で唯一、越の謀略を見抜き、警告し続けた忠義の臣だったが、呉王の信頼をえることはできなかった。王への進言が真っ直ぐ過ぎたのである。
伍子胥は、かつて、恨みを晴らすため、亡き楚の平王の墓をあばき、王の屍(しかばね)をむち打たせた。「屍にむち打つ」の語源となったこの故事をみても、伍子胥の感情の激しさは尋常ではない。つまり、人に嫌われる普遍的資質があり、それが呉王との関係を破綻させたのだろう。伍子胥の死の責任は、夫差だけにあるとは思えない。
一方、范蠡は人生の達人であった。会稽の恥の原因となった出兵でも、勾践が聞かぬとわかればすぐに容認し、負けた後に備えた。このように、感情をおさえ、遠点を見て、遠回りも辞さない大局観は、伍子胥には見られない。この点で、范蠡は三国志の諸葛亮孔明に似ている。孔明が蜀王、劉備とその子、劉禅から絶大な信頼を得たのは、過ちと分かっても、いったんやらせ、失敗後に備えるという、深い気配りによっていた。また、范蠡は、越王が目的を成就すると、すべてを捨てて、第二の人生に旅立つ。このような達観と決断は文種には見られない。そして、この資質の欠如が文種の死をはやめたのである。いかに功名をあげとも、出世しようとも、家臣はあくまで家来、権力は王からの借り物、幻影にすぎないのである。
こうして、呉越の戦いは、呉が滅び、越王、勾践が春秋の覇者になることで終わりをつげた。復讐、運命の逆転、王とそれを取り巻く重臣たち。なにもかもが、歴史とは思えないほど面白い。また、呉越同舟、臥薪嘗胆など多くの格言も生まれた。呉越の戦いは、三国志にくられべれば影は薄いが、中国史で最も面白い物語の一つである。
《完》
参考文献:後藤基巳駒田信二常石茂他著新十八史略天の巻河出書房新社
by R.B