アップル社の歴史 ~2人のスティーブ〜
■アップル神話の始まり
ハンサムで才能に恵まれたスティーブは、エンジニアを目指して大学に進んだものの、わずか1学期で中断してしまった。とはいえ、その頃は珍しいことではなかった。当時のアメリカはベトナム反戦デモが吹き荒れ、多くの若者が既成社会に反発していたからである。彼らはドロップアウトし、旅をし、集団で気ままな毎日を送っていた。
一方、それを苦々しく思う大人たちは、侮蔑の意をこめて、彼らを「ヒッピー」と呼んだ。ヒッピーの中でも、インドに行く者は格上で、ビートルズのジョン・レノンもその1人だった。そして、ハンサム・スティーブもインドに旅立つことにした。そこで、彼は深淵なヒンズー教に触れることになる。
ヒンズー教は開祖をもたない多神教である。多神教は読んで字のごとく、複数の神が存在する。ただ、神と言っても、土地に根付いたものが多く、一神教の神のようなカリスマはない。また、万人が納得できる倫理や道徳に言及しないので、普遍性をもたない。だから、世界宗教まで発展することはまれである。
ところが、ヒンズー教は奥が深い。宗教、哲学を超えて、宇宙の仕組み、つまり、自然科学にまで触れている。しかも誰にでもわかるよう、神話を使って分かりやすく説明している。たとえば、教典「ウパニシャッド(奥義の書)」によれば・・・
ビシュヌ神は宇宙の池で眠り、そのヘソから蓮がはえていて、その蓮のうえに創造主ブラフマンがすわっている。ブラフマンが目を開けると1つの世界がうまれ、それをインドラが治めるが、ブラフマンが目を閉じると、その世界とインドラは消える。また、ブラフマンが目を開けると新しい世界が生まれ、新しいインドラが治める。これが繰り返されるが、ブラフマンの命は43万2000年で終わる。すると蓮がしぼみ、新しい蓮、新しいブラフマンが生まれる。
ここには、旧約聖書にはない「宇宙のサイクル」が記されている。真実かどうかは別として、その発想が凄い。また、ヒンズー教の重要な教典「マハーバーラタ」も興味深い。かつて、アメリカは広島と長崎に原爆を投下した。それを開発したのがマンハッタン計画で、技術部門の最高責任者がオッペンハイマ博士だった。
原爆の想像を絶する破壊力を確認したオッペンハイマは、TVに向かってこうつぶやいた。
「われは死神なり、世界の破壊者なり」
じつは、この一節は「マハーバーラタ」の中の「バガヴァッド・ギーター(神の歌)」から引用されている。「マハーバーラタ」には古代核戦争のような描写があるからだ。
というわけで、単純な二元論世界で育ったキリスト教世界の住人にとって、インドは謎めいた国である。後のスティーブの不可思議な言動は、単純な合理主義を超えた理念と信念に支えられている。たとえば、スティーブの胆入りで建設されたコンピュータ工場は、内壁が美しいカラーでコーディネートされていた。ところが、その工場は無人、もちろん、ロボットに色の価値はわからない。
さて、インドも謎だが、スティーブも謎。インドの旅がスティーブの世界観、価値観に大きな影響を与えたことは間違いない。そして、その不思議な世界観・価値観が、後にコンピュータの歴史を変えることになる。
スティーブは、少なくとも2年間はインドに滞在し、アメリカに帰国した。つぎに、彼はオレゴン州にあるリンゴ園で働いた。彼は、リンゴが大好きだったのである。そのころ、彼には、同じ名前の友人がいた。この友人は、小太りで、いたずらと電子工学にしか才能を使わない人間だった。この小太りスティーブは、ハンサム・スティーブとは違い、インドには興味はなかったが、ボードコンピュータの設計に夢中だった。
ボードコンピュータとは、むき出しのコンピュータ基板のことである。演算機能と記憶機能しかないので、使うためにはキーボードとモニタをつなぐ必要があった。物好きなマニアしか買いそうにないこのボードに、ハンサム・スティーブは注目した。
ある時、ハンサム・スティーブは、小太りスティーブに、会社を設立しようともちかけた。ところが、小太りスティーブは面倒な金もうけなどに興味はなかった。たまにいたずらをして人を驚かせ、自分が作ったコンピュータに仲間が感激してくれれば満足だった。それでも、ハンサム・スティーブはねばり強く説得をつづける。彼は、このオモチャが石油や自動車のような巨大産業になると確信していたのである。小太りスティーブの望みはムダの一切ない電子回路、ハンサム・スティーブの夢は世界を変えることだった。
■アップル誕生
1976年4月、2人のスティーブはアップルコンピュータを設立した。資本金は1200ドル、工場はガレージだった。まずは、基板むき出しのコンピュータを売り出す。このボードコンピュータの心臓部には、モステックの6502というCPUが使われた。安くて、入手しやすかったからである。
当時、このようなCPUは、他にもたくさん存在した。例えば、後にCPUの覇者となるインテルは8080を売っていたし、CPUの芸術品68000を開発することになるモトローラも、すでに6800を販売していた。ところが、どれも1個10万円ほどする上、大量に購入する必要があった。ところが6502は、1個5000円ほどで誰でも買うことができたのである。ゲーム機の歴史を変えた任天堂の初代ファミコンも、この6502のカスタム版が採用された。
ハンサム・スティーブは、アップルコンピュータを個人商店で終わらせるつもりはなかった。世界を変えるには、それに見合った人材と資金が必要だ。彼は、ある人物を自分の壮大な計画に巻き込むことにした。マイク・マークラである。マークラはすでに、この世界で成功し、巨万の富を手にしていた。
ハンサム・スティーブは、コンピュータが個人レベルで使われるようになること、そして人間の精神や知性を拡大するツールになることを熱く語った。現実がどうであれ、未来がどうであれ、相手をそそのかす能力において、スティーブは傑出していた。それでも、「1人1台のコンピュータ」という予言は、若者にありがちな大ボラとしか思えなかった。
■大型コンピュータの時代
その頃、コンピュータといえば、大企業や大学の特別室に鎮座し、世話役のエンジニアたちに囲まれ、神のごときであった。個人で独占するなど夢のまた夢、使用者は、まるでコンピュータの奴隷であった。大学時代、卒論で大型コンピュータを使ったが、その頃の日課を紹介しよう・・・
午前中、手書きでプログラムを書く。つぎに、そのプログラムをパンチカードに打ちなおし、順番を待って、コンピュータに読み込ませる。たくさんの人が1台のコンピュータを使うので、結果を見るには、昼食を終える必要があった。午後3時ごろ、計算機センターに行くと、計算結果がプリンタアウトされている。さて、緊張の瞬間だ。もし、一つでもエラーがあれば、今日の作業を明日もう一度やり直すことになる。当時のコンピュータはこのように面倒臭いものだった。
この時代、1人1台のコンピュータを実現するには、CPUの処理能力が1000倍にアップし、値段は1/1000にダウンする必要があった。自動車が時速10万kmで空を飛び交い、価格が2000円?そんなことを言いふらす奴は、妄想癖があるか、タダの大ボロ吹きだ!しかし、それは現実に起こったのである。
■AppleⅡ革命
マイク・マークラは、アップルコンピュータを株式会社にし、会長の座についた。さらに、豊富な人脈を駆使し、莫大な資金と、多数の切れ者を採用した。そして、アップル社は、ついに、歴史を変えるコンピュータを完成させる。AppleⅡである。
AppleⅡの心臓部(メインボード)は、ベージュの洒落たプラスティックケースにおさまっていた。他社のパソコンは、どれも無骨な金属の箱で、ひどく見劣りがした。さらに、スペックにも大きな差があった。他のパソコンはモノクロでテキストしか表示できなかったのに対し、AppleⅡはカラー・グラフィック表示が可能だったのである。しかも、16色で40×40ピクセルか、6色で280×192ピクセルかを選ぶことができた。
そして、決定的だったのは、拡張ボードの仕様を公開したことである。喜んだサードパーティは、アップル社に代わって、様々な拡張ボードを世に送り出した。そのため、AppleⅡの拡張性は飛躍的に高まり、サードパーティの開発力まで取り込むことができたのである。
AppleⅡ拡張ボードのビジネスは日本でも行われた。おもに秋葉原のショップやその流通から依頼を受けたベンチャー企業が設計と製造を担当した。昔、このビジネスに関わったとき、AppleⅡの設計図を見たことがある。市販の部品を使い、怖ろしくシンプルな設計だった。
少ない部品で多くの色が出せるよう巧みに設計されたグラフィック回路。本当にこれで動くの?と思うほど部品の少ないディスク制御回路。世界を変えた電子回路と言っていい。小太りのスティーブは、「シンプル・イズ・ベスト(Simple is best)」を体現する魔術師だった。ところが、AppleⅡは日本では成功しなかった。1ドル270円の時代で、本体が40万円もしたからである(大卒初任給が10万円)。
■AppleⅡとゲーム
一方、アメリカでは、AppleⅡ用の拡張ボードやソフトウェアが多数販売され、新文化圏「AppleWorld」が形成されつつあった。非力なCPUを巧みに利用した3DCGツールまであった。もちろん、ワイヤーフレームのみで色はつかなかったが。また、シンセサイザーボードを差し込めば、サウンドを生成したり再生したりすることもできた。とはいえ、一番人気はやはりゲーム。その一部は、任天堂の初代ファミコンにも移植された。
1981年にシェラオンライン社から発売された「TIIME・ZONE」は、ゲームソフトで一線を画していた。まず価格が29000円。そして、桁違いのスケール。物語は、夜散歩にでかけるところから始まる。原っぱでタイムマシンを見つけ、なんの疑いもなくそれに乗り込み、地球の太古の時代から4000年後の未来まで旅するという設定だ。史上初の歴史ゲームかもしれない。ストーリーとは関係ないが、窓ガラスをたたくと、ちゃんと割れたのには驚いた。さすがに動画とはいかないが、カラーの静止画が1000枚ぐらいはあったと思う。
「ZORK」という地下迷宮の宝物探しゲームもあった。テキストのみのゲームだったが、意外に人気があった。世界観が良かったのだろう。また、現在オンラインゲームで人気のウルティマオンラインの原型も、この頃すでに世に出ていた。
次に、ビジネスソフト。この頃、一世を風靡したのが「ビジカルク」だった。表計算ソフトの元祖で、世界を変えた歴史的なソフトである。このビジカルクのおかげで、AppleⅡはホビーにくわえ、ビジネスまで取り込んだのである。ちなみに、当時、ビジカルクの価格は72000円。なるほど、この頃のソフト会社が儲かったわけだ。古き良き時代のお話。
こうして、ハード&ソフト&拡張性が三位一体となったAppleⅡは爆発的に売れた。わずか4年間で、売上高は2億円から300億円、社員も2人から3400人へと急成長したのである。AppleⅡはマイナーチェンジだけで、6年間も販売されたが、今のパソコンと比べると、驚異的な長寿命である。こうして、ハンサム・スティーブは世界を変え、アップル社の未来も前途洋々だった。
■アップルの危機
だが、永遠につづく繁栄はない。アップル社が怖れていた日がやってきた。インターナショナル・ビジネス・マシーンズという物々しい名の巨大企業が、パソコン市場に参入したのである。大型コンピュータの覇者「IBM」である。世界に敵なし、ライバルと呼べるのはアメリカ合衆国政府ぐらいだった。この時、IBMが開発したパソコンは、現在のパソコンのデファクトスタンダード(事実上の標準)の原型となった。
IBMの参入を機に、アップル社の迷走が始まった。小太りスティーブこと「スティーブウォズニアク」は、自分が開発し、いまだ利益の柱であるAppleⅡがないがしろにされるのに腹を立て、アップル社を去って行った。時代はAppleⅡからMacへと移っていたのである。ハンサム・スティーブは、ペプシコ社の副社長ジョン・スカーリーを「三顧の礼」で迎えたが、後に、スカーリーに解雇されてしまう。
アップル社を去ったハンサム・スティーブは、「NeXT社」を創業し、名だたる著名人や世界企業をそそのかし、壮大なNeXT物語をつづった。ところが、巨額の資金を食いつぶしたあげく、まともな利益出すことなく、崩壊した。日本が誇る世界企業も被害者として名をつらねた。
2人のスティーブが去ったアップル社は迷走を続け、社長も次々と交代した。アップルはもうおしまいだ、アップル社に対する悲観的な観測が流れた。しかし、アップル社は生き残ったのである。なぜか?よく言われるのが、アップルフリーク(熱烈的な信者)がアップルの製品を買い支えた・・・間違ってはいないが、一番の理由は潤沢なキャッシュ(現金)だろう。並の会社なら瞬殺の赤字でも、アップル社ならかすり傷ですんだのである。潤沢なキャッシュがあれば、慌てることはない。時間をかけて解決すればいいのだ。
■アップルの復活
そして、長い遍歴をへて、ハンサム・スティーブがアップル社に帰ってきた。たぐいまでな予知能力、人をその気にさせるそそのかしモード、老獪な経営手腕を身につけて。ハンサム・スティーブことスティーブ・ジョブズは現在、アップル社のCEOである。
現在のアップル社は、大胆かつ慎重に事業を推進しているように見える。血筋の良いUNIXをコアに、使いやすいGUIをかぶせたTigerは、強力なOSだ。覇者Windowsを脅かすのは、Linuxではなく、Tigerかもしれない。アップル社は、30年前に見せつけた神通力をまだ失ってはいない。それどころか、アップル社が再び世界を変える日は近いかもしれない。
参考文献:
「TwoSteves&Apple」旺文社
by R.B