神話学(2)~神話の価値~
■神話学者ジョージ・ルーカス
神話学者ジョーゼフ・キャンベルは、「わたしはスターウォーズが大好きだ」と公言した。映画「スターウォーズ」の中に神話の本質を見出したのだろう。スターウォーズ第1作(エピソード4)で、主人公ルークと仲間が巨大なゴミ捨て場に閉じこめられる。そこは水がはられていて、水中には怪物が潜んでいる。ジョーゼフ・キャンベルによれば、水は無意識をあらわし、水の中の怪物は無意識の領域に閉じこめられたエネルギーをあらわすのだという。さらに、この無意識のエネルギーは強力で危険なので、意識でコントロールしなければならない。そして、この行為こそが英雄の重要な試練である。この「無意識がもつ強力で危険なパワー」については心理学者のユングも言及している。もっとも、ユングは英雄にまでは結びつけていないが。
一方、ジョーゼフ・キャンベルは、「強力で危険な無意識→意識でコントロールできてこそ英雄」と結びつけた。もし、ジョージ・ルーカスがそこまで考えていたとしたら、彼は立派な神学者だ。また、スターウォーズに登場するハン・ソロ船長は海賊まがいの怪しい人物で、自分でもそれを自覚している。ルークとレイヤ姫と行動をともにしているが、それは欲得ずくだと思っている。ところが、最後のドタン場で、命がけで彼らを助ける。冒険によって眠れる資質が目覚めたのだ。これも英雄伝説の1つのパターンだと、ジョーゼフ・キャンベルは説明する。ハン・ソロ船長もまた英雄だったのである。ジョーゼフ・キャンベルの主張を認めれば、映画「スターウォーズ」はただの「宇宙大冒険活劇」ではなく、神話学を極めた先駆的作品ということになる。ゲームソフトのシナリオライターには、神学者なみの知識をもつ者もいるが、成功するにはこういう地味なバックボーンが必要なのかもしれない。
■ピマインディアンの神話
ジョーゼフ・キャンベルは、地球の神話には多くの共通点があると言っている。たとえば、最も古い神話の1つ・・・はじめに闇だけがあった。闇はところどころでかたまり、あつまっては、わかれた。神の霊が、水のおもてをうごき、やがて神はいわれた。光あれ。旧約聖書「創世記」のように見えるが、じつは、ピマインディアンの神話である。ピマインディアンの神話と旧約聖書が生まれた場所は、大西洋によって分断され、交流の余地がない(はず)。ではなぜ、このようなことが起こるのだろう?理由は2つ考えられている。一つは、人間の心の深層は、地域と民族を超えた共通部分があるという説。
もう一つは、地球上の文明が中近東とアジアを中心におこり、それが世界中に広まったという説。前者は心理学から、後者は歴史学から考察している。一方、神話は儀式と結びついているが、地域と時代を超えた普遍的な儀式も存在する。たとえば、「生贄(いけにえ)」。特に古代マヤの「生贄」が有名である。普通、生贄と言えば、「悪」ととらえれることがが多い。マヤを征服した野蛮で残酷なスペイン人たちも、「生贄は野蛮で残酷な悪習だ」と非難している。ところが、マヤの生贄の中には、常識では考えられないものもある。たとえば、マヤのボール競技。ルールはさておき、問題は勝敗の報酬である。勝ったチームのキャプテンが、負けたチームのキャプテンに首をはねられるのである。首をはねられるのは、負けた方ではなく、勝った方である。犠牲になることは人生の勝利であるという思想があるのだという。人間の深層心理は深い謎である。
■インドラの話
ジョーゼフ・キャンベルは生涯、神話の価値について語りつづけた。彼は、「神話とは宇宙の歌、人間の意識にしみこんだ音楽である」と言っている。これは含蓄のある言葉だ。たぶん、真実を言い当てている。具体例を示そう。たとえば、「長大な時の流れの中では、個人の力など無に等しい」と教訓をたれても、言葉の意味は分かるが、だから?の世界。では、これを神話で語るとどうなるのだろう。インドのウパニシャッド哲学の中にある雷神インドラの話を紹介しよう。インドラはこの世界を治めていた。あるとき、怪物が現れ、地球上の水をすべて封じ込めてしまった。すると、世界中で干ばつが起こり、人々は苦しんだ。そこでインドラは、稲妻を投げつけ、怪物を退治した。すると、水の流れはもとにもどり、世界は救われた。
インドラは、自分がなんと偉大なのだろうと思った。そこで、世界の中心にある山に行き、新しい町、新しい宮殿をつくることにした。インドラは、神々のために働いていた大工の棟梁をよび、建設を命じた。やがて、すばらしい宮殿が完成するが、インドラがやってきて、それを見るたびに、もっと大きく、もっと豪華にしろ注文をつける。困り果てた大工の棟梁は言った。「あなたも、わたしも不老不死。このままでは、わたしは永遠に囚われの身です」大工の棟梁は神ブラフマンに助けを求めた。ブラフマンは、この世界の創造主で、インドラより上位の神である。ブラフマンは、蓮の花の上にすわり、その蓮は、ビシュヌのへそからでている。蓮は、聖なる力、聖なる恩寵の象徴をあらわす。ビシュヌは眠れる神で、ビシュヌの見る夢が宇宙そのものなのだ。棟梁はブラフマンに、事の次第を伝えた。
ある日、青黒い肌をした若者がインドラのもとにやってきた。インドラはその若者に、なんのために来たのか尋ねた。若者は答えた。「これまでのどのインドラより、立派な宮殿を建てたと聞いたので見に来たのです」インドラは、怪訝そうに尋ねた。「これまでのどのインドラより?」若者は、笑いながらこう答えた。「インドラはあなた以外にもいたのです。それが、現れては消え、また現れては消え・・・」若者は話をつづけ、この宇宙の仕組みを説いた。
ビシュヌ神は宇宙の池で眠り、そのへそから蓮がはえていて、その蓮のうえに創造主ブラフマンがすわっている。ブラフマンが目を開けると1つの世界がうまれ、それをインドラが治めるが、ブラフマンが目を閉じると、その世界とインドラは消える。また、ブラフマンが目を開けると新しい世界が生まれ、新しいインドラが治める。これが繰り返されるが、ブラフマンの命は43万2000年で終わる。すると蓮がしぼみ、新しい蓮、新しいブラフマンが生まれる。この宇宙には無数の銀河があり、その星の1つ1つで、蓮の上にブラフマンがすわっている。たとえ、海にある水滴の数や、浜辺の砂の数は数えられても、ブラフマンの数は数えられない、まして、インドラの数など・・・そのとき、宮殿の前をアリの群が整然と列をなして横切った。それ見た若者が、声を立てて笑った。インドラは「なぜ笑うのか?」と聞くと、若者は答えた。
「不愉快になるから、聞かない方がいいですよ」インドラは、ますます気になり若者に迫った。すると若者は答えて言った。「あのアリはこれまでのインドラたちです。魂の一番低いところから、長い時間をかけて最高のインドラまでのぼりつめ、自分が偉大だと思った瞬間、また一番低いところに落とされるのです」
インドラは宮殿をつくるのをやめ、大工の棟梁は仕事から解放された。当事者のインドラだけでなく、この神話を読む者すべてが、「長大な時の流れの中では、個人の力など無に等しい」を悟ることができるだろう。真実が意識にまで到達したのである。つまり、「神話とは宇宙の歌、人間の意識にしみこんだ音楽である」
■神話の価値
歴史でもっとも退屈なものは歴史年表で、次は教科書かもしれない。入試のような欲得ずくでない限り、読む気がしない。イベントの断片を、何の脈絡もなく、ただ並べただけ。だから、何も伝わってこない。一方、神話には脈絡がある。無数の因子がリンクし、互いに影響を与えながら、壮大な物語をつづっている。無駄なものなど一つもないのだ。ジョーゼフ・キャンベルはこう言っている。「神話が語り伝えられるのは、それが語り伝えられる値打ちがあるからだ」神話は人間が創造した至高のコンテンツなのかもしれない。
《完》
参考文献:「千の顔をもつ英雄」ジョゼフキャンベル著平田武靖/浅輪幸夫監訳人文書院
by R.B