イーリアスの英雄譚/オデュッセイアのSF漫画本
■イーリアス
イーリアスは、神の血を引く超人たちの英雄譚。
オデュッセイアは、血湧き肉躍る冒険譚、または、SF漫画本。
毛色が違うこの2作品が「ホメーロスの叙事詩」でくくられるのは、原作者が同じだから。そのホメーロスだが、シェークスピアと同じで、実在した人物かどうか怪しい。複数の作家の総称という説があるのだ。
そこで、ホメーロスの亡霊の二大叙事詩を深堀りしてみよう。
まずはイーリアスから。
イーリアスの始まりは鮮烈である。
聴衆は、考える暇もなく、いきなり、激情の世界に引き込まれる。
「怒りを歌え、女神よ、ペレウスの子アキレウスのーーー、アカイア勢(ギリシャ連合軍)に数知れぬ苦難をもたらし、あまたの勇士らの猛き魂を冥府の王に投げあたえて、その亡骸は、群がる野犬野鳥の食らうに任せた、かの呪うべき怒りを(※1)」
意味不明なので、ザックリ要約すると・・・
「女神よ、アキレウスの怒りを歌え。ギリシャ軍を苦しめ、勇者の命を奪い、その屍(しかばね)を動物が喰らう、そんな呪われた怒りを、歌いたまえ」
一言でいうと、アキレウスの怒りを讃えよ!
始まりがこれなら、イーリアスの主題は「怒り」?
じつは、世評ではそういうことになっている。
一方、ホメーロスの叙事詩は、西洋文学の原点とされる。
であれば、「ホメーロス叙事詩=西洋文学の原点=怒り」が成立し、西洋文明の核心は「攻撃性」にあり。よって、西洋の歴史は血なまぐさい?
強引にみえるが、歴史年表をみると、たしかにそうなっている。
その象徴的イベントが、大航海時代だろう。
ロマンチックな響きがあるが、騙されてはいけない、正体は「ヨーロッパ列強による地球征服計画」なので。
15世紀から20世紀にかけて、ヨーロッパ列強は、世界中を侵略した。物騒な大砲を搭載した巨大帆船の乗り込み、南北アメリカ、オーストラリア、アフリカ、インド、東南アジア、中国・朝鮮・日本を含む東アジアにおしかけた。あげく、大量殺戮、大量破壊の後に、植民地支配を断行した。直接的な植民地行政をまぬがれたのは日本ぐらい。人類史上、これほど大規模な征服事業はない。アレクサンドロス大王の東方遠征も、チンギス・ハーンの西方遠征も、かすんでみえるほどだ。
イーリアスに話をもどそう。
イーリアスは、トロイア戦争の英雄譚だが、一つ誤解がある。描かれているのは、トロイア戦争の全史ではなく、開戦10年目の数週間のみ。
イーリアスの主人公は、ギリシャ連合軍の総大将アガメムノンと、ギリシャの英雄アキレウスの二人。全体を貫くテーマは、アキレウスの怒り。ただし、アキレウスの怒りは、敵のトロイアだけではなく、味方のアガメムノンにも向けられた。
それは、イーリアスの冒頭「女神を怒りを歌え・・・」につづくフレーズで判明する。
「かくして、ゼウスの神意が遂げられていったが、はじめアトレウスの子、民を統べる王アガメムノンと勇将アキレウスとが仲違いして袂を分かつときより語り起こして、歌い給えよ(※1)」
一言でいうと、アガメムノンとアキレウスの内輪もめ。
アキレウスは、直情的だが、誠実な正義漢だ。一方、アガメムノンは粗暴で傲慢な人物。これでは、ウマがあうはずもなく、アキレウスはアガメムノンに腹を立て、戦線を離脱する。すると、ギリシャ軍は劣勢になり、アキレウスの無二の親友パトロクロスも、トロイアの英雄ヘクトールに討たれてしまう。
復讐に燃えるアキレウスは、ギリシャ軍に復帰し、怒涛の勢いでトロイア軍をおしかえす。親友の仇ヘクトールを一騎打ちで倒すのだった。
その後、戦いは膠着状態におちいり、決着がつかないまま、物語はクライマックスを迎える。
トロイア王で、ヘクトールの父であるプリアモスが、単身ギリシャ軍の陣中に潜入し、アキレウスに息子の遺体をひきわたしを乞う場面である。
プリアモスは、アキレウスの足元にひざまずき、手をつかんで、涙ながらにうったえる。
「わたしの息子を、何人も殺した相手のまえに、ひざまずかなければならない老人を哀れと思われよ・・・」
アキレウスは、心を打たれ、願いを聞き入れる。ヘクトールの遺体を、丁重に清めたうえで、プリアモスに返還したのである。ヘクトールがトロイアの宮殿において、厳かに埋葬される場面で、物語は終わる。
最終的に、アキレウスも戦死し、トロイアの木馬でギリシャ軍が勝利するが、イーリアスでは描かれていない。
こうして、10年におよぶトロイア戦争は終結する。
その戦後譚が、もう一つのホメーロス叙事詩「オデュッセイア」なのである。
■オデュッセイア
トロイア戦争で勝利したギリシャ軍は、それぞれ故郷に向かう。
その中に、イタケーの領主オデュッセウスの軍もあった。
オデュッセウスは、12隻の船団をひきいて、トロイアを出帆する。ところが、風向きが悪く、地中海を南西に流され、北アフリカ沿岸の島に流れ着く。ここから、波乱万丈の大冒険が始まる。1つ目の人喰い巨人、船を丸ごと呑み込む海獣、そして神々までが、行く手を阻むのだった。そんな試練を乗り越えながら、オデュッセウスは故郷をめざす。
オデュッセウスは、アキレウスのようなストイックな人物ではない。身の丈を超える大きすぎる運命を夢想したりしない。目の前の現実を受け入れ、ときには、倫理に反する快楽も楽しむのだった。
船団が、美しいニュンペ(女神)のカリュプソの島に着いた時のことだ。
カリュプソが、オデュッセウスに提示した贈り物は、不老不死と快楽だった。地中海の美しい楽園で、こんな夢のような日々が永遠に続くのである。オデュッセウスは受け入れ、カリュプソのもとにとどまるのだった。
だが、哀しいかな、人間には「繰り返し」耐性がない。たとえ、それが永遠の至福であっても。
永遠も、しょせんは、抜け出せない無限ループではないか。
不自然につくりこまれた偽物の喜び、蜃気楼のような不確かな世界。辛く苦しくても、手応えのある現実の方がマシかもしれない。
そんなわけで、カリュプソと暮らして、6年後、オデュッセウスはイタカへ帰郷する決意をするのだった。老衰した父親、青年になった息子、更年期にさしかかったペネロペアが待つ岩だらけの島へ。
オデュッセウスは、領主であり、勇敢な戦士だ。そして、冒険者で海賊で、生存を優先する俗物でもある。だから、生きて還れたのである。
一方、アキレウスは、型どおりの英雄で、真面目で、融通の効かない、戦闘マシンだ。だから、戦場で死んだのである。
こうして、ホメーロスは、対照的な2つの叙事詩、リアルで暴力的な英雄譚と、幻想的で血湧き肉躍る冒険譚で、ギリシャ人を夢中にさせたのである。
さらに、後世の文学にも大きな影響を与えた。西洋文学の巨匠ウィリアム・シェークスピアと20世紀を代表する作家ジェイムズ・ジョイスだ。
ジョイスは、ホメーロスによほど感化されたのだろう、オデュッセイアのオマージュというべき「ユリシーズ(※4)」を書いている。パロディと言えなくもないが、それしては上品だし、20世紀を代表する大長編小説とみなされているから、悪口は言えない。
ただし、難解だ。
ジョイスをネタに一席ぶつなら、「ダブリンの人々(※3)」の方がいいだろう。ユリシーズと同じく、アイルランドのダブリンの1日を描いているが、ずっと読みやすい。特筆すべきイベントはなく、市民のありふれた日常が小川にように流れていく。ただ、読んだ後、意識に残留する不思議な余韻が心地良い。
ユリシーズは、オデュッセイアの物語を、ダブリンの1日に凝縮している(人名と舞台設定は違う)。オデュッセイアという古代ギリシャのキラキラ大冒険を、古めかしいダブリンの日常という缶詰に押し込んだのだ。
つまり、ユリシーズはオデュッセイアの剽窃(ひょうせつ)なのである。他人の文章やアイデアを、出典を示さずに自分のものとして発表すること。もっとも、オデュッセイアは、2800年前に著作権が切れているので問題はない。
それ以前に、オデュッセイアの文学的価値は、疑わしい。偉大なホメーロスの作で、ギリシャ文学の金字塔になっているが、イタケーの領主オデュッセイアを、スーパーマンに仕立てた古代のSF漫画本みたいなもの。しかも、イーリアスとは違い、終わり方もハッピーエンドで、メデタシ、メデタシ。文学的価値といっても・・・
というわけで、ホメーロスの叙事詩はツッコミどころ満載だ。
それなら、ちょっと読んでみようか、という気になるのだが、ハードルが高い。訳が古いせいもあるが、朗唱を前提とした韻文なので、読みづらいのだ。われわれ現代人は、散文文学に慣れすぎたのかもしれない。
いつの日か、散文風に翻訳したイーリアスとオデュッセイアが上梓されることを願っている。
参考文献:
(※1)ホメロス イリアス 上・下 ホメロス (著), 松平 千秋 (翻訳) 出版社:岩波書店
(※2)ホメロス オデュッセイア 上・下 ホメロス (著), 松平 千秋 (翻訳) 出版社:岩波書店
(※3)ダブリナーズ ジェイムズ ジョイス (著)、柳瀬尚紀 (翻訳) 出版社:新潮社
(※4)ユリシーズ1-12 ジェイムズ・ジョイス (著), 柳瀬 尚紀 (翻訳) 出版社:河出書房新社
by R.B
