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週刊スモールトーク (第595話) ホメーロスの亡霊~ギリシャの暗黒時代~

カテゴリ : 人物娯楽思想戦争歴史

2026.01.26

ホメーロスの亡霊~ギリシャの暗黒時代~

■ヨーロッパ最古の都市文明

ホメーロスの叙事詩は、ギリシャ文明の「暗黒時代」に生まれた。

文字がなく、ミケーネ文明とよばれた時代に。

そう、ギリシャ文明は一枚岩ではない。ミケーネ時代から始まり、文字が消えた暗黒時代をへて、光り輝くアテネ、スパルタの時代へ。

そのギリシャ文明だが、ヨーロッパ最古の都市文明とみなされることがある。一見問題なさそうだが、根本が間違っている。最古は、クレタ島のミノア文明である。この2つの文明は、エーゲ海世界に属するが、発祥した場所も時期も、民族も言語も文化も、すべて違う。よって、異文明なのである。

事実はこうだ。

先行したミノア文明を、ギリシャ文明が滅ぼし、文化を一部拝借したのである。その一部を根拠に、ミノア文明はギリシャ文明の源流と言い張るなら、人類はみな兄弟、歴史上の文明は一つしかない。

クレタ島の歴史は古い。

エーゲ海最大の島で、人が住み始めたのは、13万年以上前。2008年に、旧石器時代の石器が発見されたからだ。孤島で現生人類が誕生するはずがないから、石斧の時代に、船を作り海を渡ったのだ。

その後、紀元前20世紀~30世紀、クレタ島に青銅器文明が興る。これがミノア文明で、発祥地にちなんで、クレタ文明ともいう。

ミノア文明は、紀元前16世紀頃、ミノス王のもと絶頂期をむかえる。地中海交易で、巨万の富を築いたのである。その潤沢な資金を投じて再建したのが、クノッソス宮殿だ。

謎が多いランドマークで、地下に、ラビュリントス(巨大迷宮)があり、半人半牛の怪物ミノタウロスが閉じ込められていたという。

ミノタウロスの件はさておき、ラビュリントスは史実である可能性が高い。現存するクノッソス宮殿の遺跡から、1300以上の部屋が複雑に絡み合う構造が確認されている。しかも、上下階にも続く通路もあるので、3次元立体式迷路?

というわけで、クノッソス宮殿そのものがラビュリントスだった可能性がある。

ところが、クノッソス宮殿にはもっと怖い話がある。

ドイツの地質学者ヴンダリーヒが、クノッソス宮殿は「霊廟」だと主張したのだ。

彼は、自著「迷宮に死者は住む(※1)」の中で、クノッソスは、宮殿ではなく墓所だと熱く語っている。根拠が明快で説得力があるので、読んでいて、思わず正座してしまった。

■文字の深い話

つぎに、ミノア文明を滅ぼしたミケーネ文明をみていこう。

ミノア文明が絶頂期にむかう紀元前17世紀頃、ギリシャ本土でミケーネ文明が興った。これがギリシャ文明の源流で、担い手は、ギリシャ人の一派アカイア人である。

ミケーネ文明は、ミノア文明と交流しながら、地中海交易の覇権をあらそう。ミケーネ文明のアカイア人は好戦的で、ミノア文明のクレタ人は明るく平和的。よって、勝敗は明らかだった。紀元前15世紀の半ば、ミケーネ文明は、クレタ島に侵攻し、ミノア文明は滅んだのである。

その後、ミケーネ文明は、ミノア文明にとってかわり、地中海交易を牛耳った。そこで、新たな強敵が現れる。エーゲ海の東端にある小アジアのトロイアだ。

トロイアは、地中海と黒海を結ぶダーダネルス海峡の入り口にあり、交通の要衝だった。そこで、黒海周辺から運ばれる穀物、金、銀、鉄、琥珀を運ぶ船から莫大な通行料を徴収していたのである。ミケーネにとって、トロイアは地中海ビジネスの最後のピースだったわけだ。

紀元前13世紀、ミケーネのギリシャ連合軍はトロイアに侵攻する。これがトロイア戦争だ。それを描いたのがホメーロスの叙事詩「イーリアス」なのである。

おっと、一つ忘れていた。

ホメーロスの叙事詩は、文字が消えた暗黒時代に生まれた・・・

そこで「文字」の話をしよう。

たかが文字、されど文字、これがなかなか面白いのだ。

まず、クレタ島のミノア文明の文字は「線文字A」である。紀元前18世紀から紀元前15世紀まで使われたが、そこで終わったのは、文明も終わったから(当然です)。

つぎに、ギリシャのミケーネ文明の文字は「線文字B」である。紀元前16世紀から紀元前13世紀まで使われたが、それ以降、紀元前8世紀まで、文字は使われていない。文字も、粘土板も消滅してしまった。そこで、この500年をギリシャの暗黒時代とよんでいる。

ところで、線文字Aと線文字B、響きが似ていません?

じつは、紀元前15世紀、ミケーネがクレタ島に侵攻したとき、ミノアの高度な文明に驚愕した。とくに、ミノア語をあらわす線文字Aにいたく感動した。ミケーネは、ギリシャ語を話していたが、文字はもっていなかった。そこで、ギリシャ語をあらわす文字として、線文字Aから、線文字Bをつくったのである。

さて、ここからが面白い。

ミケーネの線文字Bは解読されたが、ミノアの線文字Aは今も解読されていない。

なぜか?

ミノアの線文字Aはあまりに複雑なので、ミケーネは難しいところをすべて削ったのである。それが線文字Bで、いわば、線文字Aの劣化版。だから、線文字Bは解読され、線文字Aは未解読なのである。ただ、昨今猛威を振るう大規模言語モデル(LLM)で、解読されるのは時間の問題だろう。

ギリシャの暗黒時代に話をもどそう。

ミケーネは、魔改造した線文字Bを、なぜ使わなくなったのか?

おそらく、歴史的大事件「海の民」が関係している。

■謎の海の民

「海の民」は、特定の国や文明を指すのではない。

身元不明の破壊集団で、どこから来て、どこへ行ったのか、今もわからない。あえていうなら、海からやってきた。だから、こんな身もフタもない名前がついたのである。

海の民は、紀元前12世紀頃、突如、東地中海に現れ、強大な国や文明を次々と滅亡させた。鉄剣で一世風靡したヒッタイト帝国もその一つ。帝都ハットゥシャは徹底的に破壊され、永遠に放棄された。ミケーネ文明も、文明の象徴である宮殿が次々と破壊された。政治も経済も社会も崩壊しただろうから、文字も失われたのだろう。

ホメーロスの叙事詩は、この文字のない暗黒時代にはじまった。

成立ではなく、始まった?

これには事情がある。

紀元前11世紀頃、ホメーロスの叙事詩は、口承文学から始まった。吟遊詩人が、聴衆の前で朗唱するのである。伝承するのも口づてで、文字は一切は使わない。線文字Bが消失していたからである。

その後、ギリシャ人は、ファニキア文字を真似て、ギリシャ文字を発明した。このアルファベット式のギリシャ文字を使って、イーリアスは紀元前750年頃、オデュッセイアは紀元前700年頃に文字化された。よって、ホメーロスの叙事詩が成立したのは、紀元前8世紀と考えていいだろう。

つまりこういうこと。

ホメーロスの叙事詩は、一度に完成したのではない。まず、口承文学から始まり、数百年かけて洗練され、最終的に、文字文学として成立したのである。

ただ、文字化されても、一気に文字文学に移行したわけではない。その後も、吟遊詩人による朗唱は続いた。ホメーロスの叙事詩は、声の世界と文字の世界の境界線を、彷徨っていたのである。

■トロイの木馬の謎

ホメーロスの叙事詩は「イーリアス」と「オデュッセイア」からなる。

詩行の数は、それぞれ1万5693行、1万2110行で、これを超えるのは古代インドの叙事詩マハーバーラタのみ。

イーリアスは、ギリシャの王子で英雄のアキレウスを中心に描いたトロイア戦争の英雄譚。

オデュッセイアは、トロイア戦争の後、ギリシャの領主で英雄のオデュッセウスが、祖国に帰還するまでの冒険譚だ。

トロイア戦争を起点に、イーリアスは前編、オデュッセイアは後編にみえるが、実際は違う。完全に独立した物語だ。

トロイア戦争は、ギリシャ連合軍が、小アジアのトロイアを攻めた戦役だが、おそらく史実だろう。古代の物語は、史実をもとにしていることが多いからだ。さらに、トロイア遺跡が発掘されており、戦争の痕跡も確認できるから、間違いないだろう。

トロイア戦争といえば「トロイの木馬」だが、不思議なことに、イーリアスには一切出てこない。オデュッセイアも、歌や回想シーンだけで、詳細な記述がない。

ではなぜ「トロイア戦争=トロイの木馬」が定着したのか?

古代ローマの詩人ウェルギリウスの叙事詩「アエネーイス」に、トロイの木馬の詳細な描写がある。ウェルギリウスは、ラテン文学の黄金期を現出させた詩人として有名だ。つまり、トロイの木馬は、オリジナルのギリシャ文学ではなく、それを継承したローマ文学の系譜なのである。

トロイの木馬は、この叙事詩の歴史的意義を示唆している。

ホメーロスの叙事詩は、後のローマ帝国に大きな影響をおよぼした。ラテン文学の巨匠を感動させ、トロイの木馬のエピソードで、この叙事詩をより壮大な物語にしたのだ。つまり、ホメーロスの物語は、ギリシャ文学とラテン文学の合作なのである。

■ホメーロスの亡霊

イーリアスとオデュッセイアは、登場人物が違うし、ストーリーに連続性がない。

これで、前編・後編を名乗るのはムリだろう。

それだけではない。

イーリアスとオデュッセイアは、ストーリーの建付け(たてつけ)が違う。

オデュッセイアは、英雄伝説の文法にのっとり、英雄は旅立ち、成し遂げ、帰還する・・・神の祝福あれ。

一方、イーリアスは、英雄は旅立ち、成し遂げる前に、討ち死にし、永遠に還れない・・・神々の呪い?

違うどころか、真逆である。

さらに、世界観も正反対だ。

イーリアスの舞台は戦場である。若者たちが死に、親が子より長く生きる世界だ。イーリアスには、描かれていないが、トロイア戦争は10年も続き、アキレウスも戦死し、トロイヤは廃墟と化す。男たちは殺され、女たちは奴隷として売られ、物語は深い闇の中で終わる。救いのない世界だ。

一方のオデュッセイアは、血湧き肉躍る大冒険。オデュッセウス率いる船団は、明るく開放的な地中海を旅する。行く手をはばむのは、1つ目の巨人、海獣、そして、人間臭い神々。ところが、どこか明るい。しかも、イーリアスのような正統派の英雄譚ではなく、SFかファンタジー。ゲームにすればさぞ面白いだろう。

世界観が違えば、当然、主人公の気質も違う。

イーリアスの主人公アキレウスは、自国にとどまれば、栄光はないが長く静かな人生を選べた。トロイアに向かえば、偉大な戦士としての死を選ぶこともできた。ところが、預言者が、アキレウスがトロイアに行けば、二度と帰れないだろうと警告したにもかかわらず、アキレウスは戦場に行く。彼は、伝統的な戦士であり、厳しく悲劇的な世界の住人なのだ。

一方、オデュッセイアの主人公オデュッセウスは、将としての自覚はあるが、現実の享楽を受け入れ、生きのびることを優先する。健全で明るい俗物だ。

つまりこういうこと。

イーリアスとオデュッセイアは別の物語なのである。

左半分がルーベンス、右半分がゴッホの一枚絵のようなもの(逆も真なり)。色彩は、ルーベンスが写実的でダイナミックなら、ゴッホは抽象的で不安定。世界観は、ルーベンスが豊穣で、ゴッホは狂気。個々には素晴らしい絵だが、いっしょにならべれば、ちんどん屋が花見に行くようなもの。

とすると、イーリアスとオデュッセイアに共通するのは「原作者=ホメーロス」のみ。

ところが、それも怪しい。というのも、ホメーロスの存在そのものが疑われている。生年、没年、出生地さえわかっていないのだから。

というわけで、死せるホメーロス、2800年後の世界を惑わす。

《つづく》

参考文献:
(※1)H・G・ヴンダリーヒ「迷宮に死者は住む」新潮社
(※2)ホメロス イリアス 上・下 ホメロス (著), 松平 千秋 (翻訳) 出版社:岩波書店
(※3)ホメロス オデュッセイア 上・下 ホメロス (著), 松平 千秋 (翻訳) 出版社:岩波書店

by R.B

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