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週刊スモールトーク (第589話) 知能は現実世界をシミュレートする装置である

カテゴリ : 思想社会科学

2025.09.08

知能は現実世界をシミュレートする装置である

■我思う、故に我あり

我思う、故に我あり。

フランスのデカルトが提唱した歴史的な命題だ。

この有名な哲学者は、近世哲学の祖とされるが、直交座標系を考案した数学者でもある。さらに、近代以降の西洋文明の優勢を決定づけた「合理主義」の創始者だ。

ところが、晩年、学問好きのスウェーデン女王クリスティーナに招聘され、個人講義をさせられ、ストックホルムの酷寒の中、肺炎で死んだ。デカルトは旅好きで、オランダ、ドイツ、イタリアに移り住んだが、スウェーデンが最後の旅になったわけだ。

余談はさておき、本題に入ろう。

この命題はあまりにも有名で、誰も疑わないが、「真」といえるか?

じつは怪しい。

この命題は、一般にこう解釈されている。

私が認識している(つもりの)世界は、存在するかどうかも怪しいが、そう意識している私がいることは確かで、よって、私は存在する。

一見、成立しそうだが、なんか怪しい。

そもそも、どんな根拠で「意識する=存在する」と言い切れるのだ?

でも、相手は偉大な哲学者、まずフォローから始めよう。

デカルトは、自分の意識の内世界と外世界を分離し、内世界に現れる表象が、外世界と実体と一致するとは限らないと考えた。つまり、自分が認識している内容は疑わしいけど、疑っていること自体は事実である。よって、疑う主体である自分は存在すると、考えたわけだ。

でも、これ、おかしいです。

この世界が、現実世界ではなく、シミュレーションだとしたら?

意識の外世界はシミュレーションなので、実在しない。外世界が実在しななら、内世界はどこに存在するのか?

そもそも、「世界」は「すべて」を意味する概念だ。よって、意識の外世界も内世界もない。もし、世界がシミュレーションなら、すべても部分も含め、十把一絡げで、実在しません。ひょっとして、存在と実在をいっしょくたにしている?

この仮説には、強力な根拠がある。

じつは、テスラのイーロン・マスクも、この仮説の熱心な伝道者だが、最近、本業が傾き、トランプ政権からも仲間外れにされ、それどころではなくなった。

マスクの個人的事情はさておき、「この世界はシミュレーション」は看過できない。

映画「マトリクス」が実話では、洒落にならないので。

■この世界は現実ではない

まず、カンタンな思考実験からはじめよう。

あなたは凄腕プログラマーで、現実世界を再現するシミュレーションを開発した。コンピュータの中のシミュレーション世界を、あなたは満足気に眺めている。すると、シミュレーション世界の中で、凄腕プログラマーがせっせとシミュレーションを開発している。さらに、そのシミュレーション世界の中には、凄腕プログラマーがいて・・・

無数のシミュレーション世界が、入れ子で創造されていく。

もし、このコンピュータにメモリ制限がなければ、シミュレーション世界は無数に創造されるだろう。

じつは、このような入れ子の無限世界は、日常生活でも確認できる。

目の前に鏡をおき、後ろに別の鏡をおいて、前の鏡で、後ろの鏡をのぞいてみよう。すると、鏡の中に鏡があり、その中にまた鏡があり・・・無限に続く鏡と自分が映し出される。向かい合った2枚の鏡が反射を繰り返した結果、無限の世界が造られるのだ。

つまり、シミュレーションの入れ子世界も、鏡の入れ子世界も、「再帰的」に処理されている。

再帰的?

ある処理の出力を、そのまま次の入力にできる規則をいう。

実例をあげよう。

たとえば、助詞「の」を使った結合規則は、再帰的である。

「私」と「小学校」を「の」でつなげば、「私の小学校」という言葉ができる。つぎに、「私の小学校」という適用1回目の出力を、2回目の適用の入力にすれば、「私の小学校の同級生」という言葉もつくれる。このように、前回の適用出力を、次回の適用入力とすれば、同じ規則を繰り返すだけで、長大な単語列をつくることができる。このような規則を「再帰的」という。

話をもどそう。

1つの現実世界から、無数のシミュレーション世界が再帰的に創造されるが、それぞれの世界の住人は、自分の世界が現実世界だと思い込んでいる。そう認識するようにプログラムされているからだ。

ところが、現実世界は原初の1つしかない。そこから派生した無数の世界は、すべてシミュレーションだ。

よって、われわれの世界が、原初の現実世界である確率は・・・

「1÷∞ ≒ 0(現実世界は1つで、シミュレーション世界は∞なので)」

つまり、われわれの世界が現実世界である確率はゼロに近い。

この仮説は、実証できないが、否定もできない。否定できないかぎり、真である可能性もあるのだ。

つまりこういうこと。

デカルトの命題「我思う、故に我あり」が真である確率は「1÷∞ ≒ 0」。

もちろん、この問題の本質は、確率が高い低いではない。もっと根本的な問題だ。シミュレーション世界の「我思う=我あり」が成立しないこと。

とはいえ、あまり神経質になる必要もない。

この世界が現実だろうがシミュレーションだろうが、われわれの人生は、明日以降も1ミリも変わらないから。

知らない方がよかった?

よくある話です。

■知能は現実をシミュレーションしている

ただし、この世界のシミュレーション疑惑は、もう一つある。

仮に、この世界が現実世界だったとしよう。

その確率は「1÷∞ ≒ 0」だが、それも忘れよう。

それでも、この世界はシミュレーションなのだ。

どういうこと?

われわれが見ている世界は、現実世界そのものではない。脳が処理しやすいように、作られたシミュレーション世界なのだ。しかも、これはほぼ真実と言っていい。

根拠をしめそう。

この世界は一次元でも二次元でもない、三次元以上だろう。

ところが、網膜に映る視覚映像は二次元である。それが、脳内で三次元映像として認識されるのは、脳が二次元映像を三次元映像として再構築していからだ。見方を変えると、脳は限られた情報から、現実世界を作り直している、つまり、シミュレーション。

もっと、わかりやすい話がある。

21世紀現在、マクロ世界の最強理論はニュートン力学、ミクロ世界は量子力学だ。

なぜ、同じ世界を説明するのに、2つの理論が必要かというと、マクロ世界とミクロ世界を統一できる「万物の理論」が見つかっていないから。

マクロ世界では、地球の周囲をまわる人工衛星は、現在の位置と速度を特定できる。測定可能だし、計算で予測することもできる。

ところが、ミクロ世界はそうはいかない。原子核の周囲を回る電子は、位置と速度を同時に特定できないのだ。正確にいうと、位置を特定すると、速度は特定できない。「速度がv0である確率はm%」という風に、確率でしか表せないのだ。逆もまた真なり。これは測定や計算の誤差という次元ではなく、理論的に証明されている。それが、ハイゼンベルクの不確定性原理だ。

つまりこういうこと。

人間脳は、量子力学が示す現実世界を直接認識できない。それどころか、原子構造も見えない。大雑把な物体としてしか認識できないのだ。つまり、われわれが見ている世界は、現実世界そのものではなく、脳がつくりだしたシミュレーションなのである。

ゲームで考えるとわかりやすい。

現在主流は3Dゲームだが、昔は2Dゲームだった。マシンパワーが貧弱で、3Dはムリだったのだが、じつは、3Dより2Dの方がプレイしやすい。ゲーム世界は、3次元でグリグリ視点をかえるより、2次元で視点を固定する方が見やすいのだ。歴史的名作ゲーム「ディアブロシリーズ」が、2D亜種の斜め上視点(クォータービュー)にこだわるのもそのためだ。

ゲームが、プレイヤーが世界を理解しやすいように、デフォルメしているのと同じで、人間脳も、現実世界を再構築している。

脳は、現実世界とは異なる「世界モデル」を構成し、それを現実世界として認識しているのだ。

これは、人間以外の動物にもあてはまる。

■動物とAIの世界モデル

人間は、視覚を中心に世界をモデル化するが、コウモリは違う。

コウモリにも視覚はあるが、暗闇でも、目隠しても、巧みに障害物を避けて、飛行する。超音波を発して、その反響によって、世界を認識しているのだ。これを反響定位という。

人間とコウモリでは、世界の見え方が違うのは明らかだ。世界の見え方が違えば、世界モデルも違うだろう。

一方、ネコも視覚に頼るが、人間とは少し違う。

静止画の解像度では、人間の視力はネコより高いが、動体視力ではネコが圧倒する。

ネコの中でも、とくに動体視力が優れるのがスナネコだ。

スナネコ は、砂漠に生息する唯一のネコ科動物である。小型のネコで、愛くるしい姿形から「砂漠の天使」と言われているが、100%肉食の捕食者だ。

スナネコが毒蛇を狩る映像をみた。

自然界の生々しさ、リアルさに感動した。ネコも毒蛇も、一心不乱。仏教でいう「一意専心」、無心の境地だ。

毒蛇は、頭を持ち上げ、凄いスピードでスナネコに噛みつく。蛇の反応速度は0.04秒で、動物界でトップクラスだ。ところが、スナネコは軽くかわし、毒蛇の頭が伸び切ったところで、ネコパンチをくりだす。目にもとまらぬ速さだ。スローで再生すると、コマ飛びしている。つまり、秒間24~30コマでは、動きがとらえきれないのだ。ネコの反応速度は0.02秒で、蛇の2倍。これでは勝負にならない。

スナネコは、過酷な砂漠で、昆虫、サソリ、トカゲ、ヘビを捕食して生きている。優れた動体視力と、それに見合った反射神経、身体能力がないと生き残れないのだ。

スナネコの世界モデルは、静止体より、動体に最適化されているわけだ。

この映像から、さらに驚くべき事実が読み取れる。

毒蛇とスナネコのバトルが10回ほど続くと、毒蛇はぐったり動かなくなった。毒蛇の首部分の皮膚が裂け、ピンクの肉が露出している。スナネコは、毒蛇の神経が集まった首に集中攻撃をかけていたのだ。しかも、毒蛇のウロコを裂くほどの鋭い爪で。

不思議なことに、毒蛇が動かなくなっても、スナネコはすぐに食べない。そばに座り込んで、はぁはぁ、荒い息をしている。灼熱の砂漠で死闘を繰り広げたのだから当然だ。

そこで、スナネコの賢さに気づいた。

死んだ獲物は逃げない。体力が回復するのを待って、ゆっくり食するつもりなのだ。

スナネコは読み書きソロバンができないから、人間尺度のIQ・学力はゼロだ。ところが、環境に適応し、生き残る知恵、賢さをもっている。知能とは、行き着くところ、生命維持装置なのだろう。

では、新手の知能、AIは?。

AIは、現実世界をすべて「数値計算」で処理する。人間ともネコとも違う、異形の世界モデルだ。

つまりこういうこと。

人間、ネコ、AIの知能は、それぞれ異なる世界モデルを構築し、現実世界をシミュレーションしている。それで、外世界を把握しているのだ。

■ヒト哲学とネコ哲学

最近、よく人生を振り返る。

三度のご飯より、技術が好きで、コンピュータ一筋の人生だった。工場で使うFAコンピュータの設計・製造からはじまり、歴史ゲーム「GE・TENシリーズ」、最後に地球の歴史を再生するガイアチャンネルを開発・リリースした。GE・TENシリーズはプレイステーションと台湾と韓国のPCに移植され、ガイアチャンネルは任天堂DSに移植され「ポケット地球儀」のタイトルでリリースされた。

そんなこんなで、頑張ったつもりなのに、「夏草やつわものどもが夢の跡」、今は何も残っていない。お金もしかり。これまでの人生で、一番高い買い物は、2200万円の中古住宅なので(土地込み)。40才までに、お金持ちになって、リタイアするつもりだったのに、技術に執着したせいで、お金には縁がなかった。

昔、勤務していた会社の副社長に「一人でできることは限られている。おまえはなんでも自分でやりたがるから、大事はなせない」

副社長の予言どおりの人生になった。

お金持ちになるなら、人を使うしかないですよね。ネコだって人間を使っているわけだし。

ひょっとして、ネコ以下?

考えたくないです。

けれど、技術が好きだったんだから、しかたがないとか、あーだこーだ、心が休まる時がない。これじゃ、一生全力モラトリアムだ、と思ったとき、背後で気配を感じた。

ネコは哲学者?
ネコは哲学者?

振り向くと、同居しているネコがいた。
不安も迷いも感じさせない、たたずまい。
清々しく、神々しい。
周囲と完全に一体化して、間然としたところがない。
哲学者を想起させる風情。
負けた・・・

昔読んだ本にこう書かれていた。

「知能とは、環境に適応するための高次の認知機能である」

認知の最上位に位置するのが「メタ認知」だろう。

メタ認知とは、日常の有象無象の認知を俯瞰する能力で、自分が今、何のために、何を考え、何をしているか把握できる。これが日常的に活動すると、個々の認知に囚われて、心を病むことはない。人生と世界を達観できるからだ。

よって、メタ認知は哲学と宗教と深い関係がある。

哲学と宗教は、日常の認知から生まれる不安を取り去るために発明された。宗教は、人間にとって過酷な現実世界を、非現実的な楽園に変える企てだ。哲学は、そうした宗教を、形而上学的な思索で、見下してきたが、宗教も哲学もしょせん、同じ欲求から生まれたものだ。つまり、現実の不安から逃れたい・・・

ところが、ネコには不安の気配が一切ない、少なくとも同居しているネコは。

ネコは「究極の哲学=超メタ認知」を獲得しているのではないか?

そんな気がしてならない。

《つづく》

参考文献:
・知能とはなにか ヒトとAIのあいだ 田口 善弘 (著)出版社:講談社
・猫に学ぶ――いかに良く生きるか ジョン・グレイ (著), 鈴木晶 (翻訳)出版社:みすず書房

by R.B

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