核戦争後の世界(2)~全面核戦争の可能性~
■核戦争の可能性
核戦争の恐ろしさは、被害と後遺症が広域かつ長期におよぶ点にある。つまり、破壊が空間と時間の両方を支配しているのだ。かつて、アメリカのアイゼンハワー大統領はこう言った。
「核戦争は、敵を倒すことと、自殺することが一組になった戦争」
核戦争の本質を言い当てている。ところが、それでも、人間は核戦争をやりたいのだ。その証拠は歴史年表にも記されている。朝鮮戦争、キューバ危機、インドとパキスタン紛争、いずれも、核戦争寸前までいったのだ。核が存在する限り核戦争は起こる、と考えるほうが自然である。
それでも、1960年代から核の軍縮は進んだように見える。部分的核実験禁止条約(PTBT)、核不拡散条約(NPT)、米ソ間で戦略兵器制限条約(SALT)が調印され、1990年代には、米ソの戦略兵器削減条約(START)も締結された。一方で、1998年5月、インドとパキスタンが相次いで地下核実験を成功させ、非難を浴びた。先のNPTで、「国連の常任理事国以外は核兵器を持ってはならない」と決められているからだ。
もちろん、条約に加盟していない限り、なんの拘束力もない。このNPTの主張は、地球上の核を増やさないという1点で正当化されているが、筋が通らないことは明らだ。生死を賭けたコロッセウムで、武器を持ったグラディエーターが、俺たち以外は丸腰でいろ、というようなものである。
また、イスラエル、イラン、北朝鮮など新たな核兵器開発国のウワサも絶えない。だが、核保有国が彼らを非難したところで、説得力はない。一方、非核保有国が核保有国を非難したところで、100kmかなたの犬の遠吠え。言う方も言われる方も、初めからパーフォーマンスだと分かっているのだから。
また、ソ連が解体され、旧ソ連の核兵器の管理が難しくなっている。実際、ロシア政府は、核物質の盗難事件が何件も起こったことを認めている。それがテロリストの手にわたれば、核が非合法的に使用されるかも、と懸念されているわけだ。ところで、「核の合法的な使い方」とは?
ソ連崩壊とともに職を失った核兵器技術者たちの問題もある。彼らは、どこへ行ったのだろう?核兵器開発を目指す国にしてみれば、ノドから手が出るほど欲しい人材である。
どうみても、核兵器の数も、核保有国の数も増えている。核戦争の確率が増えていると考えた方がいいだろう。口あたりのいい平和論で現実から目をそらすのは、自殺行為だ。もっとも、最近の日本の世論は変わり、現実を直視する傾向にある。
■四面楚歌の日本外交
2006年7月5日、北朝鮮がミサイル発射実験を強行し、7発のミサイルが日本海に着弾した。あわてた日本は、国連安保理で制裁決議を提出したが、中ロの反対で却下された。これは予想どおりとしても、なぜ、この時期なのだろう?識者の話を聞いても、ピンとこない。きっと、ミサイル発射も外交の一つなのだろう。荒っぽい外交だが、少なくとも、日本には有効だ。
だが、北朝鮮のテポドンより、気がかりなことがある。2006年7月現在、日中、日韓の関係だ。誰がどう見ても、戦後最悪である。70年前なら、軍事衝突が起こってもおかしくはない。少し前、中国で大規模な反日デモがあった。大手金属メーカー上海支店の友人によれば、
「現地に住む中国人が皆、反日というわけではない。あれは中国政府のガス抜きだ」
らしいのだが、中国政府の言動を見るかぎり、そうは思えない。中国指導部には、日本に対する根深い念いがあるのは確かだ。それは、単なる感情を超えて、極東アジアの国家戦略と一体化しており、その接点において間然とするところがない。もちろん、念頭にあるのは中華(自分たちが世界の中心に位置する)。
さらに、中国は必要なら核ミサイルを使用すると公言している。これは脅しではないだろう。表向き、個人の生命と財産を擁護する民主国家と違い、中国は表も裏も、国益を優先する。全面核戦争の被害は一国で数億人に達する可能性がある。もしそうなったら、日本は、1億-5億=-4億、全滅。アメリカは、3億-5億=-2億、やはり全滅。ところが、中国は、13億-5億=8億、十分余裕?がある。勝者が誰になるかは明らかだ。
口あたりのいい中国安全論も、思慮の浅い中国脅威論も、どちらも危険だ。この問題の頭上には、髪の毛1本で、全面核戦争がぶら下がっているのだから。まさに、ダモクレスの剣。
もう一つ気になるのが日本外交。一見すると、日本の外交は2つしかない。へつらうか、高飛車か。戦後は前者だったが、ここに来て後者に切り替えつつある。特に、北朝鮮に対しては。一方、後ろ盾を確保するため、アメリカにこびへつらう姿は、見ていて辛い。アメリカは民主主義の国である。政権が変われば、外交も変わる。もっと、マシな外交はないのだろうか?
■外交官タレーラン
歴史上、凄腕外交官と賞されるのがフランスのタレーラン。権謀術数の権化みたいな人で、好きにはなれないが、歴史にその名を刻んだ。
時は1814年、オーストリアの都で、ウィーン会議が開かれた。ナポレオン戦争でかき回されたヨーロッパの戦後処理のため、オーストリア、イギリス、ロシア、フランス、プロイセンの代表が集まったのだ。歴史上有名なウィーン会議である。
ナポレオンは、フランス革命の時、軍人として頭角をあらわした。望みは、おそらく、世界征服。少なくとも、ヨーロッパ全土とロシアを含む「ハードランド(ユーラシア大陸中枢部)」は狙っていたはずだ。徴兵制により前代未聞の兵数を確保できたこと、ナポレオンの軍事的才覚により、戦勝記録を塗りかえた。
ところが、ロシア遠征に失敗。その後始末のウィーン会議が開催された頃、ナポレオンはすでにエルバ島に流されていた。ウィーン会議の最重要議題は、この戦争で塗りかえられたヨーロッパの国境線をどう戻すかだった。もちろん、参加国の中で、とりわけ立場が弱かったのはフランスである。この大混乱の原因は、ナポレオン、つまりフランスにあったからだ。フランスの領土は切り取られ、少なくとも多額の賠償金は避けられそうもなかった。フランスはヤリ玉にあがり、集中砲火をあびたのは当然だった。
ところが、このフランスの国難をタレーランが救ったのである。タレーランが主張したのは「正統主義」だった。フランス革命以前のヨーロッパの姿が「正統」だから、すべてを革命前の状態に戻そうというのである。当然、国境線も革命以前に戻す。つまり、フランスの領土は減らないし、賠償金もナシ。そんな虫のいい話があるか、という反論は噴出したに違いない。
タレーランのあつかましい主張はさらに続く。
「悪いのは革命であって、フランスではない。その証拠に、フランス国王一家は殺され、支配階級の貴族は土地、財産、特権すべてを奪われた。わがフランスも被害者なのだ」
高校の歴史の授業で、タレーランの素晴らしい外交術、と習った記憶があるが、どう考えてもヘンである。「ドイツはユダヤ人を迫害したが、それはヒトラーとその取り巻きがやったことで、ドイツはゼンゼン悪くない。だから、謝罪もしないし、補償もしない」と居直るようなもの。もちろん、ドイツは戦後、公式に謝罪している。だいたい、このような幼稚な論理が通るわけがない。
では、タレーランは眉唾?そうでもない。タレーランの切り札はこれしかなかったわけで、それに賭けたことが凄いのである。この会議に参加した首脳は王族や貴族だったので、「革命こそが悪」は、まさに「銀の弾丸」だった。フランス革命は、革命というものが、王族・貴族に何をもたらすか証明したのである。首をはねられ、すべての財産と特権を奪われる。
タレーランは、国家間の外交といえども、個人の利益が国益に優先する、を巧みに利用したのである。ところが、現実はすんなりとはいかなかったようだ。会議は紛糾し、時間だけが過ぎていった。結局、タレーランの「正統主義」が合意をみたのは、同じフランス人、ナポレオンのおかげだった。封印したはずのナポレオンが、エルバ島を脱出したからである。ヨーロッパに再び、革命の嵐が吹き荒れようとしていた。1815年6月9日、タレーランの正統主義が承認され、ウィーン議定書があわただしく締結された。
■外交とインターネット
外交とは、このようなものなのだろう。
国益でダメなら、相手の個人的利害を突く。たとえ、感情的には賛同できなくても、そうしたほうが得かもしれない、と思わせる。
外交を見る限り、日本はアメリカの属国だ。当然、日本が中国や韓国にへつらっても、快く思われないだろう。一方、アメリカが中国を刺激しないよう、日本を見捨てることも考えられる。日本は一体何をやっているのだ?日本の外交を担当するのは、政治家と外交官だが、最近は国民世論も強くなっている。この国民世論を反映するのがTVや新聞。
ところが、最近、インターネットの影響力が大きくなっている。ブログの普及で、個の発言が急拡大しているからだ。インターネットは、情報無法地帯の暗黒面をもつ一方、古代ギリシャ以来の直接民主主義を体現している。インターネットがもたらす真の民主主義が人類を救うかもしれない。そして、そのすべてが、個の力にかかっているのだ。
窓の外を見ると、幼稚園の園児たちが黄色の帽子をかぶり、大きな声で歌いながら遠足をしている。この世界を破滅させたくない、と強く思う。自己の利益を極大化し、より効率的な兵器を追求するのは、人間の生物種としての性(さが)である。だが、核兵器の使用は代償があまりに大きい。ケンカの後で、「すべてなかったことにしよう」ではすまないのである。
核がある限り、全面核戦争は必ず起こるだろう。問題はそれがいつか?だが、考えてみたところで仕方がない。核のボタンを押すのは我々ではないし、核戦争が起これば、逃げも隠れもできないからだ。やはり、人類はもう一度やり直さなければならないのだろうか?
《完》
by R.B