IFの歴史・世界恐慌がない世界(2)
■世界恐慌とヒトラー政権
IFの歴史・・・もし、世界恐慌がなかったらヒトラー政権は誕生しない。
エビデンスも明快だ。
世界恐慌がおこった世界では・・・
①1928年、総選挙で、ナチ党は12議席で、第9党。
②1929年、世界恐慌が勃発。
③1930年、総選挙で、ナチ党は107議席で、第2党。
世界恐慌をはさんで、第9党から第2党に大爆進。因果関係は明らかだ。
では、逆に、世界恐慌がおこれば、ヒトラーは政権をとれたか?
絶対とはいえない。
第2党から政権をとるまでの3年間は、ちゃぶ台返しの連続。無数の要因がからみあい、いつ、何がおきてもおかしくなかった。「ヒトラー政権」はそんなカオスが生んだ結末だったのだ。
とはいえ、ヒトラーの性質を考慮すれば、政権をとった可能性は高い。
なぜなら、混沌を制するのは、善悪を超えた「鋼の意志」を持つ者だから。
この時代、ドイツはそれほど混乱していた。
第一次世界大戦末期、1918年11月、ドイツのキール軍港で、水兵が反乱をおこした。それに端を発し、全国規模の民衆蜂起がおこり、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位した。結果、帝政ドイツからヴァイマル共和国に移行したのである。これがドイツの11月革命だ。
ところが、ドイツ革命を認めない一派がいた。民族主義を掲げる右翼である。彼らは、共産主義者とユダヤ人による「背後の一突き」でドイツは戦争で負けたと信じていた。こうして、革命後のドイツは、右派と左派が対立し、反ユダヤ主義が高まっていた。
ヒトラー政権誕生の火種は世界恐慌だが、火薬はすでに用意されていたのである。
■ヒトラーの裏取引
第一次世界大戦後のドイツ(ヴァイマル共和国)は、混乱の極みにあった。
世界恐慌で経済システムは破壊され、国民生活は破綻し、政権は目まぐるしく交代した。
世界恐慌がおこる前年の1928年5月の総選挙の結果をみてみよう。
1.社会民主党(153):中道左派
2.国家人民党(78):右派
3.中央党(61):中道
4.共産党(54):左派
5.人民党(45):右派
6.民主党(25):左派
7.ナチ党(12):右派
()は獲得議席数
左派と右派が交互に順位を争うが、いずれも単独過半数にはとどかない。そのため、連立政権で合従連衡をくりかえしていた。
そんな中、1932年5月30日、中央党を核とするブリューニング内閣が瓦解した。
世界大恐慌の対応に失敗したのである。この内閣の仕掛人は、政界のフィクサー、クルト・フォン・シュライヒャーだった。彼は、次期内閣も自分が仕切ろうと画策、1932年6月1日、パーペン内閣を成立させた。
首相に就任したフランツ・フォン・パーペンは男爵で、馬術以外に取り柄のない男だった。外交武官の経験はあったが、政治経験が浅い。周囲の評判は「人の上に立つ器ではない」でほぼ一致していた。
ではなぜ、そんな男が首相に任命されたのか?
第一に、パーペンは、国民的英雄ヒンデンブルク大統領のお気に入りだった。パーペンは貴族出身の退役軍人で、立ち振舞いが上品で、紳士然としていたから。じつは、ヒンデンブルクも貴族出身の職業軍人だった。ただし、ヒンデンブルクは、第一次世界大戦でドイツ軍を指揮して、ロシア軍に大勝利をおさめた真の英雄だったが。
第二に、政界のフィクサー、シュライヒャーが、ヒンデンブルク大統領にパーペンを首相に推したから。
ではなぜ、シュライヒャーは無能なパーペンを選んだのか?
操りやすいから。神輿(みこし)は軽い方がいいというではないか。
日本でもありそうな話だが、そんな軽い理由で、パーペン内閣が誕生したのである。
国民の内閣支持率はゼロに等しかった。閣僚9人のうち7人が貴族で、「男爵内閣」と揶揄されていたから。第一次世界大戦の敗戦と世界恐慌で、国民生活はドン底なのに、貴族の旦那衆に政治を仕切られてはたまらない。
さらに、パーペン内閣は、他の政党の支持率もゼロに近かった。ナチ党をのぞく、すべての政党が内閣を批判していたのだ。
ではなぜ、ナチ党はパーペンに忖度したのか?
ヒトラーはパーペンと裏取引をしていたのだ。
ナチ党はパーペン内閣を批判しない。そのかわり、パーペンはナチ党に便宜を図る。第一に、当時、ナチ党の武装集団「突撃隊(SA)」が数々の暴力沙汰で、禁止命令を受けていたが、それを解除する。第二に、国会を解散する。ヒトラーは、国会を解散し、総選挙に持ち込めば、第1党になれると踏んでいたのである(この時ナチ党は第2党)。
ヒトラーの読みは的中した。
1932年7月31日の総選挙で、ナチ党は、230議席を獲得して、第1党に躍り出たのである。
ここで、一気にヒトラー政権が誕生?
さにあらず。
ナチ党は、第1党とはいえ、得票率は37.4%で、単独過半数に達しない。自力では政権をとれないわけだ。
ここから、奇々怪々の政局が始まる。
■ヒトラーの野望
1932年8月5日、パーペン内閣の生みの親、シュライヒャーはヒトラーと面会した。
ヒトラーを副首相として入閣させるためである。理由は単純明快、議会第1党のナチ党をとりこめば、議会運営がやりやすくなるから。
ところが、ヒトラーは申し出を拒否、首相以外は受けないという。
そこで、シュライヒャーはヒトラーを首相にするよう、ヒンデンブルク大統領に迫ったが、拒否される。
理由は?
ヒンデンブルクは、ヒトラーを「ボヘミアン伍長」と蔑んでいたという説がある。ここでいう「ボヘミアン」は、自由気ままな芸術家をさす。じつはヒトラーは画家崩れだった。また「伍長」は、第一次世界大戦のヒトラーの最終階級である。貴族出身のエリート軍人のヒンデンブルクなら口にしそうな話だ。
一方、ヒンデンブルクは第一次世界大戦で、志願兵として戦ったヒトラーを高く買っていたという説もある。さらに、ヒトラーが愛国者で、国家主義的な思想をもつことに感銘をうけたという。ヒンデンブルクは左派が大嫌いで、国粋主義者なので、これもありそうな話。
というわけで、真偽のほどはわからない。
ただ、この時点で、ヒンデンブルクはヒトラーよりパーペンを買っていたことは確かだ。「ヒトラー首相」案を却下したのだから。
一方、パーペンもヒトラーに首相を譲るつもりなかった。どうでもいい閣僚ポストをくれてやれば、ヒトラーは満足すると考えたのだ。もちろん、パーペンの読みは甘かった。最終的に、ヒトラーに出し抜かれるのだから
1932年9月12日、ドイツで国会が召集された。
ここで、想定外の事件がおきる。
共産党が、パーペン内閣の不信任案を提出したのだ。
パーペンは右派で、共産党は極左だから、提出は想定内だ。問題は、512対42の大差で可決されたこと。なぜなら、第3党の共産党だけで可決するわけがないから。
ではなぜ、大差で可決したのか?
共産党に加担した政党がいたのだ。
第1党のナチ党である。
ではなぜ、ナチ党は、不倶戴天の敵の共産党に手を貸したのか?
ヒトラーは「内閣不信任 → 議会解散 → 総選挙 → ナチ党が単独過半数を獲得」を狙っていたのだ。
内閣不信任案が可決した以上、パーペンに残された道は一つしかない。議会の解散だ。
これで、ヒトラーの思うつぼ?
そうカンタンにはいかなかった。
議会は解散したものの、総選挙でナチ党は議席数を減らしたのだ。
くんずほぐれつ、政治は一寸先は闇である。
■アルトナ血の日曜日事件
1932年11月6日、総選挙で、ナチ党は前回の「230議席」から「196議席」に大きく議席を減らした。
第1党は維持したものの、単独過半数どころではない。
ではなぜ、ナチ党は議席を減らしたのか?
原因は「アルトナ血の日曜日事件」にある。
総選挙の4ヶ月の1932年7月17日、事件はおきた。
ハンブルク近郊のアルトナで、7000人のナチ党の武装集団「突撃隊(SA)」が挑発的に行進、共産党と路上乱闘をおこしたのである。この頃、ナチ党と共産党の乱闘は日常茶飯事だったが、このときは19人が死んだ。
このナチ党の暴力的なやり方に、国民はドン引きした。穏健派の国民はもちろん、反共の財界でさえ心が離れたのである。議席数が激減して当然だ。
これに震え上がったのが、首相のパーペンである。
パーペンは、貴族出身の男爵で、軍人上がりの保守派で、右派だから、左派が大嫌い。ところが、右派のナチ党と中道左派の社会民主党が議席数を減らし、極左の共産党が大躍進したのだ。100議席を獲得して、第2党に迫る勢いだった。
1932年11月9日、危機感をつのらせたパーペンは、ナチ党にすりよる。
ヒトラーに副首相就任を打診したのである。ナチ党も議席数を減らしたから、今度は乗るかもしれないと期待したのだ。ところが、ヒトラーは再び拒否、首相以外は受けないというのだ。
このスッタモンダに、業を煮やしたのが政界のフィクサー、シュライヒャーである。
首相のパーペンは、一体何をやっているのだ(何もやっていない)。
そこで、シュライヒャーは大勝負に出る。
■パーペン内閣の総辞職
シュライヒャーは、ヒンデンブルク大統領に、パーペンの辞職を提案したのである。
ヒンデンブルクはこれに同意し、1932年11月17日、パーペン内閣は総辞職した。わずか半年の短命政権だった。
パーペンはシュライヒャーを深く恨んだ。男の嫉妬、恨みほど恐ろしいものはない。回り回って、いろんなことが重なって、翌年、射殺されたのである。
1932年12月1日、ヒンデンブルク大統領は、パーペンとシュライヒャーを招集した。パーペン内閣総辞職の後処理である。
パーペンは、首相をあきらめるつもりはなかった。そこで、恐るべき計画を提案する。国軍を出動させて、議会を半年間停止し、改憲して大統領権限を強化する。その後、パーペンが首相に返り咲くというのだ。早い話、軍事クーデターである。
シュライヒャーは猛反対した。自分が首相に就任し、ナチ党の分裂させ、一部を取り込むというのだ。ヒンデンブルクはパーペンを支持したが、シュライヒャーは聞く耳を持たなかった。
こうして、結論は閣議にもちこまれた。
1932年12月2日の閣議。
シュライヒャーは、閣僚たちに向かって断言した。
「パーペンの計画は軍事クーデターである。国を混乱に陥れるだけだ。その間、ナチ党が内乱を起こしたらどうするのか?国軍が鎮圧することは不可能だ」
これにビビった閣僚はシュライヒャーを支持した。あわてたパーペンは大統領府にかけこみ、ヒンデンブルクに泣きついたが、ムダだった。大統領もパーペンの無力に気づいたのである。
1932年12月3日、シュライヒャー内閣が発足した。
とはいえ、シュライヒャー内閣はパーペン内閣と顔ぶれはかわらない。このままでは、パーペン内閣の二の舞いだ。政権を安定させるには、議会の支持が欠かせない。そのためには、議会の最大会派のナチ党を取り込むしかない。
ところが、パーペン内閣は何度も失敗していた。勝負師ヒトラーは、自分が首相になることしか頭にないのだ。
だが、シュライヒャーには秘策があった。
ナチ党を分裂させるのである。
■ナチ党分裂計画
ナチ党は一枚岩ではなかった。
ヒトラーのやり方に、批判的なグループがいたのである。
彼らはこう考えていた。
ヒトラーが首相に固執すれば、ナチ党は永遠に野党のまま。それより、副首相で手をうって、とりあえず、与党になった方がいいのではないか。そのグループの代表格が、グレゴール・シュトラッサーだった。シュライヒャーは、シュトラッサーに接触して、説得に成功する。
ここで、IFの歴史・・・もし、シュトラッサーが「ヒトラー副首相」工作を実行していたら?
史実の「1933年1月30日のヒトラー首相就任」は消える。さらに、こんな不安定な状況では、その後、ヒトラー政権が成立する保証もない。つまり、シュトラッサーが歴史を変えたかもしれないのだ。
ところが、土壇場でシュトラッサーは怖気づいてしまう。
ヒトラーに何も言い出せず、党務を放棄し、そのまま引退してしまった。
仰天したのがシュライヒャーだ。
あの作戦は、一体何だったのか?
シュライヒャーさん、お察しします。
ガッカリした人間がもう一人いた。
ヒンデンブルク大統領である。
彼は、これまでの大統領頼みの政治にうんざりしていた。
政府は、議会に多数派を確保できていない。そのため、何かあるたびに、大統領のヒンデンブルクが引っ張り出され、大統領緊急令を発し、大統領の全権を政府に付与するのである。そんないびつな政権運営に嫌気がさしていたのだ。
彼が望んだのは、全権を備えた強力な政府だった。至極真っ当な政治観だが、現状、誰が首相になっても、議会の単独過半数に届かない。
ヒンデンブルクは、その調停役として、パーペンに期待したが失敗した。そもそも、パーペンの目は別の方向に向いていた。シュライヒャーへの復讐である。
つまりこういうこと。
たしかに、ヒトラーはミスをおかした。だが、他の勢力は、もっと大きなミスをおかしたのである。
■翳りゆくナチ党
1932年11月の総選挙で、ナチ党の快進撃は止まった。
年明けの1933年の1月1日、風刺誌「ジンプリチシムス」はこう書いている。
「確かに言えることは一つだけ、俺たちはそれで万々歳さ、ヒトラーはおしまいだ、この『総統』の時代は過ぎた」(※1)
さらに、1933年の年頭、ナチ党にとって、悪いことが重なる。経済状況が好転したのだ。1年前にくらべ、フランクフルト証券市場で、株価が30%上昇した。倒産件数は前年にくらべ、1/3に激減した。
ナチ党の得票率は、失業率と並行して上昇する傾向があった。つまり、経済状況が悪いほど、ナチ党に有利なのだ。危機的状況では、ナチ党の危険なイデオロギーに賭けるしかないから。ところが、景況は好転しつつあった。
というわけで、政治は一寸先は闇。
たとえ、世界恐慌がおきても、ヒトラー政権が誕生しない世界があったのだ。
参考文献:
(※1)ヒトラー権力掌握の20ヵ月グイドクノップ(著),高木玲(翻訳)中央公論新社
by R.B