骨折しました(2)~全身麻酔と死について~
■全身麻酔と死
全身麻酔で手術か、それとも一生腕が上がらないか?
究極の選択だ。
といつつ、躊躇せず「手術」を即決。
院長の言葉が効いたのだ。
「このままでは骨はくっつかない。手術しないと、偽関節になって、一生腕が上がらない」
偽関節・・・骨折部分が、本当の関節でないのに関節のようにグラグラ動くから、腕がちゃんと上がらない。しかも、痛みもともなう。だから「偽関節」なのだが、リアルな症状より、言葉の響きの方が怖い。
その後、担当医が、執刀する外科医になり、入院することに。
ところが、入院から手術までが綱渡りだった。
というのも、体温が37度以上あると、手術どころか、入院もきない。新型コロナが、まだ終息していないからだ。
入院の前に、体温を測ると、37.0度。
ギリ、ダメじゃん!
看護師さんが「うーん、新型コロナの検査をしましょう」
キター!
結果は陰性で、なんとか入院にこぎつけた。
ところが、手術する前に体温を測ると37.1度。
ゼンゼン、ダメじゃん!
看護師さん、天を仰いで、
「37度以上あると手術できないんですけど・・・うーん、コロナが陰性だから、いいでしょう」
というわけで、鼻の差で手術にこぎつけた。
手術までの4時間、心臓がバクバクかと思いきや、妙に落ち着いている。これが「まな板の鯉」なのだろう。
手術室まで歩いて行き、ベッドに横たわる。
頭上には、映画やドラマの手術シーンでおなじみの複眼ライト。まさか、この光景をリアルで見ることになるとは・・・
麻酔医師が落ち着いた声で、
「まず、左上半身を麻酔し、それから、全身麻酔します」
左上半身に麻酔をうったあと、しばらくして、麻酔医師が、
「麻酔が入りますよ」
数字を逆に数えさせられると聞いていたけど、そんなのなし。
3秒後に、意識がストン(後で認識)。
麻酔医師の
「終わりましたよ」
の声で目が覚める(後で認識)。
この間1秒(現実には1時間経過)。
手術は一瞬で終わった(後で認識)。
後で認識?
すべて目覚めたから言えること。目覚めなかったら、3秒で意識が落ちたことも、手術が一瞬だったことも、永遠に認識できない。意識が消滅しているから当然だ。
つまりこういうこと。
「全身麻酔」も「死」も、意識が落ちる瞬間に居合わせることは同じ。違いは、「意識が落ちた」を認識できるかどうか。「全身麻酔」は目覚めれば、記憶をたどって認識できるが、「死」はそれができない。
だから「死の永劫」なのである。
というわけで「全身麻酔」で「死」を疑似体験できた。
そのせいか、「死」が怖くなくなった。
さらに、人生観も微妙に変わった気がする。
■手術的治療と保存的治療
術後3時間は、絶対安静だ。
ベッドから起き上がることも、飲食も一切禁止。
術後の吐き気が凄いと聞いていたが、それはなかった。
ところが、術後、6時間たって、麻酔が切れたら、激痛が始まった。骨折したときより酷い。痛み止めの薬は、1ミリも効かない。脂汗がでる。看護師さんに訴えたら、筋肉注射を打ってくれた。
「これで眠ますよ」
全然眠れませんけど。
数時間後、あまり痛いので看護師さんに言ったら、座薬を入れてくれた。これが少し効いた。座薬が効いたというより、時間が経過したせいかもしれない。
というわけで、激痛は6時間で一服した。数日すると、痛み止めがいらなくなった。一方、感染症をふせぐ抗生物質は3日間、ガッツリ飲んだ。手術で一番怖いのは感染症、それを防ぐため。
手術の翌日、執刀医が病室に来て、手術の結果を報告してくれた。レントゲンの写真(←)を見せながら「金属の棒を6本のボルトでしっかり固定しましたから、大丈夫ですよ。1週間後からリハビリしましょう」
もし、手術をしなかったら(保存的治療という)、身体の負担は軽いが、骨がずれる可能性があるので、リハビリは6週間後。一方、手術的治療は、チタン棒とボルトで固定するので骨はズレない。そのため、リハビリは1週間後に開始できる。
退院後、ネットで、保存的治療と手術的治療を調べた。手術的治療に批判的な言説もある。理由は、全身麻酔は身体の負担が大きいこと、術後の感染症のリスクなど。とはいえ、保存的治療で骨がくっつなかったら、偽関節。どっちにしろ、リスクがあるわけだ。
今回の治療法は2つ。
保存的治療:命の危険はゼロだが、偽関節のリスクは高い。
手術的治療:命の危険はほぼゼロで、偽関節のリスクもほぼゼロ。
偽関節を回避するのが優先なら、手術的治療の方が、数学的期待値は高い。
これまでの人生、岐路に立たされたら数学的期待値を計算し、参考にしたが、今回は即決した。
■コンテンツ制作に目覚める
術後、1日で痛みは消えたが、頭がぼんやりしている。
終日、ベッドの上で、ウトウトで、何時間でも眠れる。
それが、なんとも心地良いのだ。
元々、せっかちな性分で、いつも、せかせか、マルチタスクの人生を送ってきた。
生成AI(ChatGPT)のせいでコンテンツ制作なんて無意味じゃんと、ボヤきつつ、プログラムとブログを書く。並行して、サン=テグジュペリの「人間の土地」を読みながら、手塚治虫の鉄輪アトムをパラパラ、ついでにYoutubeも・・・なんとも忙しない人生だった。
ところが、全身麻酔のおかげで、3日間、脳がマルチタスクをこなせない。
できることはせいぜい一つだ。
そこで、ふと、7年前に企画したコンテンツを思いだした。
パラレルワールドとタイムトラベルを融合した一大叙事詩だが、スケールが大きすぎて、頓挫していた。それを、考えだしたら、とたんに楽しくなった。アイデアがどんどん出てくる。これが展開思考なのだろう。忙しないマルチタスクが封印されているので、創作に集中できるわけだ。
人生を振り返れば、新卒でコンピュータのハード&ソフト開発から始まり、続いて歴史ゲーム事業と「コンピュータ×歴史」一筋の人生だった。
これが人生の締めくくりかも?
とはいえ、生成AIが猛威を振う今、コンテンツ制作に意味がない。なぜなら、映画、ドラマ、小説、漫画、あらゆるコンテンツは、消費者が生成AIを使って、自ら創作するからだ。つまり「消費者=生産者」の世界になる。
生成AIは、大規模言語モデル(LLM)から派生した「言語AI」だ。言語を巧みに操るだけで、ここまでできるのか、と感嘆したものだ。言語AIは、社会を一変させるので、毎日リサーチを欠かさなかった。さらに、自分でAIコードを書いたり、AI銘柄に株式投資をしたり。
ところが、全身麻酔で死が怖くなくなり、AIも怖くなくなった。
AIがコンテンツ制作を丸取りしようが、AIに勝ち目がなかろうが、気にならない。自分の作りたいものをつくるだけ。数年前、AIの猛威を予測し、本業を投資に転換し、コンテンツ制作をブランディング、と割り切ったことも幸いした。
というわけで、不思議な体験をした。
全身麻酔で、3日間、マルチタスクが封印され、7年前に頓挫したコンテンツが蘇り、構想がまとまったのだ。
骨折したのは災難だったけど、得たものも多い。
人間万事塞翁が馬ですね。
by R.B