安楽死(2)~バーチャル安楽死法~
■父の死
2年前、父が逝った。
95歳で天寿を全うしたのだ。
それまで、畑仕事をしていたのに、突然、起き上がれなくなった。病気の疑いもあるので、救急搬送したら、肺炎と判明。担当医は、抗生物質を投与し、リハビリもすると言う。だが、90歳をこえて、肺炎になればどうなるかは、医者でなくてもわかる。
その後も回復する気配はない。担当医は「抗生物質が効かないのはおかしいですね。薬をかえて、様子をみましょう」と、こちらをうかがうように話しかける。
「大丈夫」とも「もうだめです」とも言わない。希望を断つことも、希望をもたせることもしない。さらに、「今後の治療方針を相談させてください(延命治療を続けるか?)」といいつつ、なかなか切り出さない。抗生物質を投与し、喉にたまった痰は吸引するが、積極的な延命処置をしている気配はない。
2ヶ月後、父は特に苦しむことなく逝った。
死亡診断書には「肺炎」でなく「老衰」と書かれていた。すべてを知った上で、あるがまま、無理なく、送ってくれたのだ。病院は、死んで退院するとき、専用の出口を使う。担当医はそこまで見送ってくれた。この医師には今でも感謝している、ありがとう。
父は、太平洋戦争で、1万分の1の確率で生き残った少年航空兵だった。それでも最後は死ぬ。「死」は特別のものではなく、「生」の延長にあるのだ。
医療には、「治す」医療と「送る」医療があると思う。後者は発展途上だが、その頂点にあるのが「安楽死」だろう。
2001年、オランダで世界初の安楽死法が制定された。
痛ましいポストマ医師・安楽死事件から目を背けず、国をあげて安楽死に取り組んだ成果だろう。
オランダ人は寛容で、民主的、合理的、現実的であることは、歴史が証明している。いつでもどこでも、というわけではないが。そんな国民性が、このような偉業をなしとげたのだろう。
では日本は?
安楽死法の気配もない。
「人の命は地球より重い」国だから、当然だ。
生物学的「命」より、幸不幸を感じる「心」の方が、よっぽど大事なのにね。
とはいえ、安楽死は合理的で現実的なオランダ人にも難しい問題だった。本音と建前が共存し、非合理的で非現実的な日本人には、逆立ちしてもムリだろう。
■永遠の生命
安楽死法が成立すれば、自殺は減る方向にいく。
自殺を願う者の中には、安楽死を選ぶ者もいるだろうから。
とはいえ、自殺にしろ安楽死にしろ、自分で「死に時」を決める必要がある。自殺願望者は別として、漠然と死を望む者は躊躇するだろう。
というわけで、安楽死は、死の恐怖を軽減することが重要だ。
では、どうやったら、死の恐怖から逃れられるのか?
古くは、宗教と文学。
まず、宗教は「天国」と「生まれ変わり」で、死の恐怖を軽減しようとする。さらに発展的に、ハルマゲドンの後、死人が蘇るというのもある。一度死ぬが、その後があるから安心、というわけだ。だが、これでは、行き着くところ、信じるか信じないか。万人向きとはいえないだろう。
では、文学は?
シェークスピア「リヤ王・第5幕・第3場」にこんな一節がある。
「運命の輪は回り、私は死ぬ」
あらら、あきらめろって?
世界最古の文学「ギルガメシュ叙事詩」も、永遠の命を主題にしている。
「ギルガメシュ王は、永遠の命の秘密を知るウトナピシュティムを探す旅に出でました。ウトナピシュティムは、死の海に守られた島に住んでいました。ギルガメシュ王は、ウトナピシュティムから海の底に、若さをさずける草がはえていると教えられ、苦労して手に入れました。ところが、そのあと、ギルガメッシュ王は眠りこんでしまい、そのすきにヘビが木からおりてきて、その草を飲み込んでしまいました。ギルガメシュ王はさけび、そして、泣きました。このような終わりをむかえるのは、あまりに長く苦しい旅でした」(※1)
やっぱり、あきらめろ、と?
文学は、宗教と違って、信じるも信じないもないが、何の慰めにもならない。
■今日は死ぬのにもってこいの日
では、慰めになる文学はない?
一つあります。
米国の詩人ナンシー・ウッドの詩集「今日は死ぬのにもってこいの日」は、アメリカ先住民の美しい死生観を描いている。
「今日は死ぬのにもってこいの日だ。生きているものすべてが、わたしと呼吸を合わせている。すべての声が、わたしの中で合唱している。すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。今日は死ぬのにもってこいの日だ」(※2)
素晴らしい。
本文もいいが、「まえがき」も奥深い。
「ね、ほら、わかるよね。いろんな人がここへやって来る、そして俺たちの生き方の秘密を知りたがる。土とワラでできてる俺たちの家は、彼らから見ると妙チキリンなんだよね。だからここに住んでいなくてよかった、と本当は思ってるわけ。そのくせ、俺たちが究極の理解への鍵を握っているんじゃないかと疑っている。俺たちの人生の秘密を見つけだそうとすれば、永遠の時があっても、連中には足りないな。たとえ見つけたとしても、やつらはそれを信じないだろうよ」(※2)
文明に汚染され、自分を見失った現代人を、みごとに炙り出している。
人生がうまくいこうがいくまいが、関係ない。人生を目一杯生きた者にとっては最高の言葉だ。魂が揺さぶられる。
ということで「今日は死ぬにはもってこいの日」と言い残して、自死するのも悪くない。ただし今ではないが。
ふと、ダンテの神曲・地獄篇を思い出した。
「人生の旅の途中で、暗闇の森に迷い込んだ。そこに真っ直ぐ続く道はない」
人生の岐路で悩んだとき、励みになる言葉だが、この一節を人生最期バージョンにアレンジしてみた。
「人生の旅の最後で、暗闇の森に迷い込んだ。そこに先に続く道はない」
さて、達観できました?
ムリです。
■バーチャル安楽死
というわけで、安楽死法が成立しても「死の恐怖」をクリアしないと、有効とはいえない。
自殺願望者は死をためらわないが、漠然と死を望む者は死を躊躇するからだ。安楽死には、自分で「死」を決断する恐怖と、死の瞬間に居合わせる二重の恐怖がある。突然死の方がよっぽど楽ですね。
とはいえ、突然死がいつ来るか、気になりだすと、常時「死と同居」なので、やっぱり怖い。人間は面倒くさいですね。
そこで、リアルな死を意識しないですむ方法を思いついた。
それが「バーチャル安楽死」だ。
「安楽死」は本当に死後の世界へ行くが、「バーチャル安楽死」は擬似的な死後の世界へ行く。社会的には死んでいるが、生物学的には生きている「半生半死」の世界。
「社会的な死」というのが一番のポイントだ。
基本的人権は生存権に限定され、第三者の倫理より、本人の「生きる苦しみの軽減」が優先される。ただし、法案成立には、オランダのように国民、メディア、政府、国をあげて取り組む必要があるだろう。
この案は、きれいごと、建て前、それを方便化する倫理・道徳とは無縁だ。純粋に「生きることが苦痛な人」を救済するためにある。
では具体的に。
まず、本人の希望が最優先される。「バーチャル安楽死」を希望する者は、慎重な審査をへて・・・なんてことはやらない。
理由は2つ。
第一に、本人の「生き死に」を、第三者が口出しするのは不適切である。なぜなら、死を選ぶ理由は、本人が誰よりも理解しているから。
2023年5月18日、市川猿之助の自殺未遂が報じられた。メディアは「責任感の強い俳優がなぜ舞台に穴をあけるような行動を」。だが死を望む者に舞台も仕事もない。俗世の損得よりもっと重大な事情があったのだ。原因がわからないのに、結果だけあれこれ言うのは間違っている。
さらに、俗世の欲得にどっぷりの俗物より、死を選ぶ者の方が純粋で賢い可能性がある。自分より劣る者の説教に、耳を傾ける者はいないだろう。しかも、生きるべきか死ぬべきかの切羽詰まった状況で。
第二に、死を望む者は、生に執着する者と異なる価値観をもっている。もちろん、価値観に良し悪しはないから、説教も説得も無意味だ。
つぎに、バーチャル安楽死の運用方法について。
バーチャル安楽死を希望する者は、山奥に隔離された施設に入る。一般社会から完全に隔離された世界だ。選挙権など社会的権利は消失し、基本的人権は緩やかな生存権のみ。
入居者を世話するのは、AIとロボットだ。感情がなく、予め決められたルールに従い、粛々と世話をする。心身の苦痛が酷い場合、それを軽減する処方が優先される。たとえばモルヒネ。末期がんなどで使用されるが、量が多いと死に至る。この量の加減が、命の存続より、苦痛軽減が優先される。これが一般の病院との違いだ。
つまりこういうこと。
入居者は、死に居合わせる必要がないから、死の恐怖がない。さらに、一般の病院より、苦痛が軽減される。
家族は、入居者と会えないが、生物学的に生きているという安堵感がある。ただし、面会も連絡もできない。それを認めると老人施設と同じになるから。
というわけで、バーチャル安楽死は、本人と家族にメリットがある。一方、倫理や道徳をもちだして、正し道とやらを説く者もいるだろう。
そんなおせっかいには、こう言い返せばいい。
第一に、強制ではなく選択です。
第二に、他人の人生をとやかく言う前に、自分の人生を考えた方がいいですよ。あなたも、人生の旅の最後で、暗闇の森に迷い込むときが来る。そこに先に続く道はない。
さて、どうしますか?
《つづく》
参考文献:
※1:「ギルガメシュ王の物語」ルドミラ・ゼーマン (著)、 松野正子 (著)、出版社:岩波書店
※2:「今日は死ぬのにもってこいの日」ナンシー・ウッド (著)、 金関寿夫 (翻訳)、出版社めるくまーる
by R.B