ファミリーヒストリー(3)~敷浪村の3つの謎~
■承久の乱と敷浪村
敷浪村の3つの謎を解明しよう。
第一に、鎌倉時代、敷浪村の開村が、承久の乱と時期が一致する。
第二に、戦国時代、ド田舎の敷浪村が、重要な軍事拠点になった。
第三に、江戸時代、何もない敷浪村が、幕府直轄の天領になった。
この3つの原因は、時代を超えて結びついている。
まず、第一の謎。
敷浪村は、承久の乱と同じ年に開村している。
承久の乱は、後鳥羽上皇が朝廷の復権をもくろんだ戦いだった。1221年、後鳥羽上皇が、鎌倉幕府執権の北条義時の追討命令を発すると、幕府軍は3つのルートから京に攻め上がった。
・東海道(総大将:北条義時の嫡男・泰時)
・東山道(総大将:甲斐源氏・武田信光)
・北陸道(総大将:北条義時の次男・朝時)
1221年6月、東海道軍と東山軍は合流し、京を制圧した。ところが、北陸道軍は間に合わなかった。北陸道軍が入京したとき、すでに戦いは終わっていたのである。
なぜか?
北陸道軍の主将・北条朝時は、執権の北条義時から「北陸道の確実な制圧」を命じられていた。その制圧に手間取ったのである。
では、北陸道の何に手間取ったのか?
まず、北陸道「鎌倉 → 越後 → 越中 → 【敷浪村】 → 加賀 → 京都」の【敷浪村】に注目。
越中(富山県)と加賀(石川県)の国境を越えるには、敷浪村を経由するしかない(今も昔も)。つまり、敷浪村をおさえないと、北陸道は成立しないのだ。だから、承久の乱のとき、敷浪村は補給基地として開村されたのではないか?
つまり、敷浪村は鎌倉時代から、戦略上の重要拠点だった可能性がある。
■本能寺の変と敷浪村
つぎに、第二の謎。
戦国時代、敷浪村は重要な軍事拠点となった。
その根拠は、わが家の本家に伝わる記録と伝承である。
ことの発端は、1582年の本能寺の変。
日本の半分を支配する魔王、織田信長が、突如地上から消滅した。畿内と安土は大混乱に陥り、石川県の能登にも飛び火する。「荒山合戦」と「石動山天平寺の焼き討ち」である。この2つの戦いは、あわせて「石動山の戦乱」とよばれている。
石動山の戦乱は、羽柴秀吉の中国大返しと、明智光秀の三日天下にかすんで、あまり知られていない。だが、荒山合戦は「織田軍Vs.上杉軍」の1万を超える大合戦で、石動山天平寺の焼き討ちは、信長の比叡山延暦寺の焼き討ちに匹敵する。
じつは、石動山の戦乱は、歴史的背景がある。
石川県の能登は、元々、足利氏の分家の畠山氏の所領だった。ところが、1576年、畠山氏で内紛が発生し、それに乗じ、上杉謙信が能登に侵攻する。居城の七尾城を包囲したが、なかなか落ちない。それもそのはず、七尾城は、日本有数の山城だったのだ。
ところが、1577年9月、七尾城内で謀反がおこる。温井景隆(ぬくいかげたか)・三宅長盛(みやけながもり)兄弟が、主家を裏切ったのである。そして、あろうことか、城門を開けて上杉軍を招き入れたのだ。こうして、七尾城は陥落、上杉謙信は能登を制圧した。
ところが、その後、思わぬ展開になる。
この「七尾城の戦い」で、石動山天平寺は上杉方に加担した。それが巡り巡って「本能寺の変」とからみあって、「石動山天平寺の焼き討ち」をひきおこしたのである。まさか、上杉に味方したことで、僧侶が皆殺しされるとは誰も思わなかっただろう。
石動山(せきどうざん)は、能登半島中部にあり、霊験(れいげん)あらたかな霊山として知られる。その名も、天から降ってきた石に由来する。その山内に、坊院360、衆徒3000人を構える「天平寺」があった。「坊」とは小さな寺、「院」とは付帯する建物である。天平寺は浄土真宗派だが、比叡山延暦寺に匹敵する大寺院だった。
ところが、上杉謙信が大酒が祟って急死すると、今度は織田軍が能登を制圧する。そのとき、石動山天平寺は、上杉方に味方したかどで、寺領を5000貫から1000貫に減らされたのである。
石動山天平寺は面白くない。
それはそうだろう。石動山天平寺は、時の天皇・上皇の勅命で祈願する名門寺院なのだ。成り上がり者の織田とは格が違う。今見てろよ、信長。
そこで起こったのが本能寺の変である。
ここで余談。
2020年6月、オンラインイベント「本能寺の変原因説50・総選挙」が発表された。なぜ本能寺の変がおきたか、みんなで投票する楽しい企画だ。
結果は・・・
1位:暴君討伐説(信長の非道を止めるため)
2位:羽柴秀吉の黒幕説(真犯人は秀吉だった)
・・・
それなら「石動山天平寺の黒幕説」も入れてください。
話をもどそう。
本能寺の変で、信長が死んでくれて、願ったり叶ったり。千載一遇のチャンスだ。石動山天平寺は、寺領奪還をもくろむ。
とはいえ、相手は戦さ慣れした織田軍。しかも、主将の前田利家は、信長に付き従った歴戦の勇者だ。僧兵3000では心もとない。
そこで、石動山天平寺は、七尾城の戦いで、主家を裏切った温井景隆・三宅長盛の兄弟に援軍を要請。さらに、織田の宿敵、上杉景勝にも援軍を要請した。
一方、織田方の主将・前田利家は、佐久間盛政と柴田勝家に援軍を要請、自らも出陣した。
こうして、石動山の戦乱の第一戦「荒山合戦」が始まった。
■敷浪村と石動山の戦乱
双方の兵力を比較しよう。
【織田方】
・前田利家:3000
・佐久間盛政:2500
【上杉方】
・上杉景勝:3000
・温井・三宅兄弟:1300
・石動山衆徒:3000
織田方5800、上杉方7300、総勢1万2800なので、小競り合いではない。かなり大きな合戦だ。
荒山合戦は、1582年6月23日に始まった。温井・三宅軍と上杉軍は、石動山に登り、天平寺の衆徒と合流。温井・三宅軍は、翌日、石動山に近い荒山に陣を張った。
一方、前田利家は迅速だった。
佐久間盛政と柴田勝家に救援を要請、自ら3000の兵を率いて、石動山に進軍した。これに慌てたのが、荒山の温井・三宅兄弟だ。石動山があぶない・・・そこで、荒山の兵の一部をさいて、石動山に移動させた。歴戦練磨の前田利家がこれを見逃すはずがない。移動中の兵を急襲したのである。温井・三宅軍は蹴散らされ、荒山と石動山に逃げ込んだ。こうして、温井・三宅軍は、荒山と石動山と分断された。兵の分散は最悪である。各個撃破されるから。そして、それが現実となる。
前田利家は、荒山と石動山の中間の柴峠に陣取り、荒山の出城を一つ一つ潰していく。それが片付くと、つぎは石動山の総攻撃だ。一方、救援にかけつけた佐久間盛政は、荒山を攻め立てる。こうして、石動山と荒山の温井・三宅軍は、あっけなく壊滅した。
残るは、石動山天平寺に立て籠もる衆徒と上杉軍だ。
1582年7月26日の朝方、織田軍は石動山天平寺を包囲した。あたりは濃霧がたちこめ、天平寺の衆徒と上杉軍は、織田軍の動きに気づかない。織田軍が坊院に火を放つと、山は火の海となった。不意を突かれた衆徒と上杉勢は武具もつける暇もない。そこへ、前田・佐久間の鉄砲隊が一斉射撃する。ほぼ瞬殺だ。生き残った者も、ことごとく斬り捨てられた。
この焼き討ちは、織田信長の1571年の比叡山延暦寺の焼き討ちに匹敵する。比叡山延暦寺では4000人、石動山天平寺では3000人の衆徒が殺されたのだ。
石動山の戦乱は、歴史的意義も大きい。
第一に、前田家の能登支配が確立し、明治時代まで続いたこと。
第二に、日本有数の大寺院「石動山天平寺」が灰燼に帰したこと。
この戦いは「本能寺の変」に属する戦いなのに、「羽柴秀吉Vs.明智光秀」の陰にかくれ、ほとんと知られていない。だが、一部歴史マニアの間で人気だ。なぜなら、ドラマティックで絵になるから。
始まりはメジャーリーグの「織田Vs.上杉」の大合戦、それに続く石動山天平寺の焼き討ち。極楽浄土へ続く聖域が、火炎地獄へと化したのだ。
そんなわけで、直木賞作家の村上元三は、石動山の戦乱を題材に小説「流雲の賦」を上梓している。
じつは、この石動山の戦乱に、わが先祖が深くかかわっていた。
この戦いで、敷浪村の「御旅屋(おたや)」とよばれる地域が戦場になった。そのとき、敷浪村は、織田につくか、上杉につくか迫られた。わが先祖は織田方に協力し、敷浪村を織田軍の軍事基地として提供した。大きな食料庫と武器庫も作られたという。
この戦いで勝利したのは織田軍である。そのため、わが先祖は、褒美として武器庫を払い下げられたという。
■天領と敷浪村
敷浪村の第三の謎は、江戸時代、天領だったこと。
周囲の村は、すべて加賀百万石・前田藩の領地だったのに。なぜ、敷浪村だけ天領だったのか?
天領は、江戸幕府の直轄地で、石高が高いか、有用な鉱物や良木が採れるか、良港があるかで選ばれた。ところが、敷浪村はなんにもない。それどころか、田んぼは、沼を埋立てたもので、生産性が低い。しかも、土地が狭いから、石高が低い。なんの取り柄もない寒村だ。
ただ、第一の謎と第二の謎は、敷浪村が交通の要衝だったことを示唆している。それは、現在も同じ。敷浪村のど真ん中に、JRの「敷浪駅」があるのだ。たった193軒の寒村に、JRの駅!?
というわけで、江戸時代、敷浪村が天領だったのは、交通の要衝だったからだろう。
そして、そのことが敷浪村に大きな恩恵をもたらした。
第一に、敷浪村は、隣接する前田藩の村より、暮らしぶりが良かったという。前田藩の村民は、前田藩の過酷な搾取で苦しんでいた。一方、敷浪村の領主は、遠く離れた江戸幕府。目が届かず、しめつけがゆるかったのだろう。飢饉のときも、前田藩は容赦なく米をとりたて、たくさんの餓死者がでた。ところが、敷浪村は、幕府直轄領で過酷な取り立てを免れ、死者はわずかっだったという。
第二に、敷浪村の輸送業者は大きな利益をえていた。江戸時代、輸送業者には縄張りがあり、リレーの要領で物資が運ばれた。ところが、敷浪村の輸送業者は、加賀と能登の境界という地の利を活かして、輸送ルートを独占しようとした。それを加賀藩に直訴したところ、特例として認められたという。
なぜか?
前田藩は100万石を誇ったが、外様大名だった。江戸幕府が、前田藩の取り潰しをもくろんでいたことは衆知だ。だから、天領の敷浪村に告げ口されたくなかった。そのため、虫のいい直訴をのまざるをえなかったのだろう。
さらに、時代はすすみ、江戸時代末期、歴史的大事件がおこる。
「ペリーの黒船来航」だ。
1853年、ペリー提督率いる米国艦隊4隻が、浦賀沖に居座り、日本に開国を迫ったのである。
このとき、江戸幕府は、石川県(加賀と能登)を治める前田藩に、海岸を調査し備えよと命じた。そこで、前田の殿様は800人を引き連れ、能登を一周することにした。前田の殿様が行くのだから、各村は、白い砂を敷いて、村人はひれ伏して迎えよというお触れが出た。ところが、敷浪村だけが拒否。ウチは天領だから、前田藩の言いなりにはならん、というわけだ。
敷浪村の村民は、全員打ち首?
さにあらず。
前田の殿様一行は、行きは能登の海岸沿い、帰りは、敷浪村は通らず(誰も出迎えないので)、裏の山道を抜けたという。じつは、その山というのが、父から相続した「東山」なのだ。今は、クマやイノシシが駆け回っているが、当時はどうだったのだろう。前田の殿様が、クマに襲われたという記録は残っていないが。
これはすべて、本家に残る古文書と伝承による。なので、史実である可能性が高い。
というわけで、天領、恐るべし。
最後に、本家に伝わる面白い話。
正史にはでてこないから、本邦初公開。しかも物的証拠もある。
横浜市に、總持寺(そうじじ)という曹洞宗の仏教寺院がある。永平寺と並ぶ日本曹洞宗の大本山だ。その第2世が峨山韶磧(がさんじょうせき)で、中興の祖といわれる。
その峨山韶磧が、若い頃、敷浪村で追い剥ぎをしていたというのだ。敷浪村の年寄りで知らぬ者はいない。
物的証拠がある。
峨山韶磧が物見に使っていた松が、伐採され、欄間(らんま)になったのだ。
じつは、この欄間はわが家の檀那寺にある。
檀那寺(だんなでら)とは、その家が帰依しているお寺さん。一方、帰依する側の家を檀家(だんか)という。檀那寺に、葬儀・法要をしてもらう代わりに、檀家はお布施を納める。この檀那寺と檀家の相互扶助は、田舎では今も存続している。
わが家が、この寺の檀家になったのは、初代が亡くなった1844年(江戸末期)である。そこで、住職にお願いして、くだんの欄間の写真を撮らせてもらった
さすが、村一番の寺に保存されるほどのことはある。彫りが精緻で、迫力がある。素晴らしい欄間だ(左写真)。
というわけで、歴史は面白い。
正史だけでなく、私的文書、郷土史もからめると、もっと面白い。
ビックリで、ワクワクな史実が、瓢箪から駒(ひょうたんからこま)なので。
by R.B