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週刊スモールトーク (第522話) 鎌倉殿の13人(2)~黄変死した3人の将軍~

カテゴリ : 人物戦争歴史

2023.01.07

鎌倉殿の13人(2)~黄変死した3人の将軍~

■源平合戦

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」には、3つの物語がある。

1.源平合戦(源氏と平氏の戦い)。

2.将軍暗殺(源氏と北条氏の闘い)。

3.承久の乱(朝廷と武家政権の戦い)。

源平合戦は、1185年の壇ノ浦の戦いで決着がついた。源氏が勝利し、平氏は滅んだのである。

その平氏の栄枯盛衰を描いた一大叙事詩が「平家物語」だ。盲目の琵琶法師が、語り継ぐ形式で、冒頭から世界を達観している。

【原文】

祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり。沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらはす。おごれる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛(たけ)き者もついには滅びぬ、ひとえに風の前の塵におなじ。

※祇園精舎:釈迦が説法をした寺院の1つ。

※沙羅双樹:釈迦が入滅(涅槃・悟り)したとき花の色が変わったとされる高木。

【現代語訳】

祇園精舎の鐘の音は、万物は流転し、一時としてとどまることはない、そんな響きがある。沙羅双樹の花の色は、勢いある者も必ず衰える、という天地のことわりをあらわす。栄え、おごる者も長くは続かない、春の夜の夢のようなもの。どんな強者も必ず滅びるのは、風の前の塵と同じである。

平家物語は、平氏の栄枯盛衰をとおして、世界の原理をあらわしている。

ところで、平家と平氏の違いは?

平家は平氏の一派である。

平安時代、平氏も源氏も公家として朝廷に仕えていた。ところが、平安時代中期以降、藤原氏が朝廷の要職を独占したため、他家の居場所はなくなった。そこで、源氏と平氏は都落ちし、武家に転身したのである。平氏の中で、最も有力だったのが、伊勢に下った伊勢平氏で、これが平家である。その跡目が平清盛で、平氏の棟梁でもあったから、「平氏=平家」と考えていいだろう。

ただ、平氏には謎がある。

源平合戦のあと、平氏は日本史に二度と登場しないのだ。鎌倉幕府、足利幕府、徳川幕府、すべて源氏政権である。理由は、源平合戦で勝利した源氏が、平氏の残党狩りを徹底したから。これが「平家の落人(おちうど)伝説」を生んだ。残党狩りを逃れた平氏が、山奥や僻地に隠遁したというのだ。

石川県金沢市の東南端に「熊走(くまばしり)」という町がある。「熊が走るほど深い山」が語源だが、事実そのとおりで、町とは名ばかりで、実態は山奥の寒村に近い(失礼)。この村は、平家の落人が開拓したという。知人がこの村の出身で「俺は平家の末裔だ」と誇らしげに語っていた。昔は、今にも崩れ落ちそうな橋があり、その向こう側に小さな部落があった。そこが平家の落人の村で、追手が迫ったら、橋を落とし身を守ったのだろう。

もっともらしい話だが、ほんとうかどうかはわからない。くだんの知人は固く信じているが。

■将軍暗殺事件

源氏が平氏を滅ぼすと、源氏の棟梁・源頼朝は鎌倉幕府を開いた。

成立年には諸説ある。

昔は「1192年」で、「イイクニ(1192)作ろう鎌倉幕府」で暗記したものだが、現在、学校で習うのは「1185年」らしい。

では、どっちが正しい?

1185年は、源頼朝が守護・地頭の任命権を得た年で、支配者となったあかし。よって、この時点で幕府成立と言っても間違いではない。

1192年は、源頼朝が征夷大将軍に任じられた年で、武家の棟梁になったあかし。よって、この時点で幕府成立と言っても間違いではない。

で、どっちやねん?

1192年を支持する。

理由は単純明快。鎌倉幕府の一番の歴史的意義は、史上初の武家政権である。「武家の棟梁=征夷大将軍」を考慮すれば、1192年の方が理にかなっている。

それに、「イイクニ(1192)・・・」の方が覚えやすいし、1185年は壇ノ浦の戦いなので、まぎらわしい。

だが、文科省の決定にケチをつけるつもりはない。鎌倉幕府にはもっと重大な事があるから。

創業家が呪われている。

まず、1199年2月9日、初代の源頼朝が51歳で死んだ。ところが、鎌倉幕府の正史「吾妻鏡(あずまかがみ)」にその記述がない。

創設者が死んだのに、なぜ?

人に言えない状況で死んだに違いない。

落馬説が有力だが、隠すほど重大な死因とは思えない。

では、人に言えない状況とは?

頼朝には暗殺説がある。

頼朝の子、頼家も実朝も暗殺されているから、可能性はある。動機の点で、一番怪しいのは北条氏だ。

鎌倉幕府のトップは「将軍(鎌倉殿)」で、それを補佐するのが「執権」である。将軍は源氏、執権は北条氏が独占した。つまり、北条氏は万年ナンバー2。そこで、北条氏は自分たちの言いなりになる将軍を担ぎあげ、幕府を実効支配しようとした。そのためには、神輿(みこし)は軽いほどいい。もちろん、源氏直系はブランドが重いからムリ。そこで、源氏直系を一掃したのだろう。

物的証拠はないが、状況証拠がある。

源頼朝が死んだ後、直系の将軍が次々と殺されたのだ。2代将軍の頼家は22歳で謀殺、3代将軍の実朝は27歳で暗殺された。頼朝の死後わずか20年で、源氏の直系が絶えたのだ。

連続する謀殺・暗殺は偶然ではない。一族皆殺しの「意志」が存在したと考えるのが自然だ。

■2代将軍・頼家の暗殺

鎌倉幕府の初代執権は、北条時政である。

源頼朝の正室の北条政子の父だから、将軍(鎌倉殿)の岳父にあたる。源頼朝の直系をのぞけば、一番の有資格者だ。

北条時政は、権力にとりつかれた男だった。血みどろの権力闘争を繰り返し、都合の悪い者を、次々と葬り去っていく。最初の標的は、2代将軍の源頼家だった。

頼家は北条時政の孫なのに、なぜ?

頼家は、父・頼朝のように、政務を仕切ろうとした。当然、執権の北条時政は面白くない。頼朝の子以外にとりえがないのに、何を偉そうに、この若造が、お前なんか将軍(鎌倉殿)の座に座っているだけいい、というわけだ。

そこで、北条氏は13人の合議制を敷いた。これがNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の語源である。表向きは、経験の浅い頼家を補佐するため。本当の狙いは、北条氏の鎌倉幕府の乗っ取りである。

これに危機感を覚えた頼家は、正室の父、比企能員(ひきよしかず)を重用する。有力な比企氏の力で、北条氏に対抗しようとしたのである。そこで、北条氏は頼家を引きずり下ろし、頼家の弟の実朝を将軍にすえようともくろむ。

その後、おかしなことがあった。頼家が重病になり、寝込んだのである(毒をもられた?)。

その間に、北条時政は比企能員を謀殺し、比企一族を皆殺にした。病から回復した頼家は激怒、北条時政の追討命令をだすが、誰も従わない。それはそうだろう。将軍は飾りモノで、実力者は執権の北条なのだ。哀れな頼家は、隠居させられ、人知れず殺された。誰が命じたかは言うまでもない。

その後、北条時政は、頼家の弟・実朝を3代将軍にすえる。実朝は、優しい人物で扱いやすかった。時政にしてみれば、ちょろいもん。

時政の野望は際限がなかった。

1205年、畠山重忠を謀殺し、武蔵国を我が物にした。つぎに、二番目の妻、牧の方と謀って、将軍の実朝を殺害をもくろむ。娘婿の平賀朝雅を、将軍に据えようというのである。

さすがに、これはやりすぎ。

娘の北条政子と息子の北条義時が猛反対した。実朝の廃嫡は阻止され、時政は幕府内で完全に孤立する。時政は出家し、最終的に伊豆国に隠居させられた。これを牧氏事件という。

北条時政の後を継いで、2代執権になったのは、息子の北条義時である。

北条義時は、有力御家人の和田義盛を討ち、父の権勢をしのぐほどになった。つぎに、正室の姫の前を離縁し、新たな妻として、伊賀の方を迎え入れたが、これは失敗。義時は、伊賀の方に毒をもられて、死んだ可能性が高いので。

鎌倉幕府の権力闘争に「毒」は欠かせない?

それはさておき、お人好しの実朝は間一髪のところで、救われた。

実朝は、和歌をたしなむ文化人だった。そのため、和歌が好きな後鳥羽上皇とウマがあった。実朝は実子がいなかったから、後鳥羽上皇の皇子、雅成親王(まさなりしんのう)を、次期将軍にすえようと考えていた。

執権の北条に異存はない。将軍は源頼朝の直系でなければ、担ぎやすいから誰もいい。

後鳥羽上皇も、自分の血族が武家政権のトップになるので、悪い話ではない。というわけで、何事もなければ、実現していただろう。

ところが、ここで大事件がおこる。

■3代将軍・実朝の暗殺

1219年1月29日、雪が深々と降る夜のこと。

鶴岡八幡宮に参拝した3代将軍の実朝が暗殺されたのだ。

下手人は、2代将軍・頼家の子の公暁(きぎょう)である。殺された実朝は頼家の弟なので、公暁は叔父を殺したことになる。公暁は、父の頼家が謀殺されたのは、3代将軍の実朝と北条のせいだと恨んでいた。北条はアタリだが、実朝は濡れ衣である。実朝は、父を失った公暁を哀れんで、猶子(ゆうし)にしていたから。猶子とは、血のつながりはないが、親子関係を結んだ子である。

こうして、源頼朝の直系は、2代続けて殺害された。しかも、初代頼朝も不審な死。

冷静に考えてみよう。

鎌倉幕府のトップの将軍が、3代続けて黄変死?

しかも、これで源頼朝の直系が絶えたのだから、日本史上類を見ない異常事態である。

というわけで、鎌倉幕府は血なまぐさいし、気味が悪い。呪われているとしか思えないのだ。

一方、この事件に驚愕したのが、後鳥羽上皇である。

後鳥羽上皇は、1198年、土御門天皇(つちみかどてんのう)に譲位し、天皇に代わり政務を執り行っていた。このような形態を院政(いんせい)という。つまり、後鳥羽上皇は、朝廷の最高権力者だったのである。

後鳥羽上皇は、暗殺された実朝がお気に入りだった。実朝は朝廷を敬い、和歌をたしなむから、上皇と趣味があう。しかも、清和源氏の嫡流だから、天皇家と血縁関係にある。その実朝が無惨に殺されたのだ。そんな物騒な鎌倉に、大事な皇子はやれない。そこで、代わりに送り込まれたのが九条家の三寅(みとら)だった。

後鳥羽上皇は、幕府の悪の根源は執権の北条義時と考えていた。そこで、陰湿な嫌がらせを次々と仕掛ける。

まず、上皇の愛妾、亀菊(かめぎく)の荘園の地頭をクビにしろと迫った。地頭とは、土地管理人である。土地収入の一部が得られるから、うまみのある役職だ。そこで、鎌倉幕府は、戦功のあった御家人に、恩賞として与えていた。それを没収すれば、北条義時の面目は丸つぶれ。北条義時は拒否するしかなかった。

つぎに、後鳥羽上皇は内裏(だいり)の修繕費用を出せと命じた。内裏とは宮城内部にある天皇の私的居住区である。そんな個人的な費用を御家人に負担させれば、北条義時は面目まるぶれ。これも拒否するしかなかった。

とはいえ、北条義時が全面拒否なら、今度は後鳥羽上皇が面目丸つぶれ。

というわけで、どっちも退けない。

こうして、日本史上初の朝廷と武家政権の戦いが始まった。承久の乱は「自然の摂理」だったのである。

《つづく》

by R.B

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