ウクライナ侵攻(7)~謎の封印列車とロシア革命~
■レーニンの封印列車
窓を隠した不気味な封印列車が、ヨーロッパ大陸を行く。
1917年4月9日、チューリヒを出発し、ベルリン、ストックホルム、フィンランドの水の町トルニオをへて、4月16日、ロシアの帝都ペトログラードに到着した。列車から降り立ったのは、黒帽子とヒゲ面の男、ウラジーミル・レーニンである。ロシア革命を成し遂げ、史上初の社会主義国家「ソビエト連邦」を樹立した革命家だ。
じつは、この封印列車を手配したのは、ロシア政府ではなくドイツ政府だった。この頃、第一次世界大戦の最中で、ロシアとドイツは敵対していたから、レーニンは敵国の助けで帰国?
しかも、列車の窓は隠され、外から車内が全く見えない?
一体、何がおきていたのか?
複雑な事情が重なっていた。
まず、封印列車の始発駅は、スイスのチューリッヒ。レーニンはロシア政府から追われ、スイスに亡命していたのである。レーニンはロシア政府の敵なので、ドイツにとって敵の敵、つまり味方。だが、ドイツ政府にはもっと分かりやすい動機があった。レーニンは革命家なので、ロシアに帰国すれば、革命で国をかき回すので、ドイツにとって都合がいい。そこで、ドイツ政府はレーニンとお仲間のボリシェヴィキ(革命左派)をまとめて、ロシアの帝都まで運んだのである。
とはいえ、レーニンは危険人物だ。革命思想をドイツ国内で巻き散らかされては困る。そこで、列車がドイツ領内を通過中は、レーニンは列車から降りないこと、ドイツ市民とは接触しないこと、が確約されていた。だから、封印列車なのである
帝都ペトログラードに着いた翌日、レーニンは「四月テーゼ」を発表する。レーニン式・革命の基本綱領で、プロレタリアートの行動指針が定められた。プロレタリアートとは、自分の労働力以外売るものがない無産階級である。
四月テーゼの基本は2つ。
第一に、時のロシア政権「臨時政府」をブルジョワ政府と見なし、決別する。ブルジョワとはプロレタリアートの反対言葉で、資産をもつ有産階級である。レーニンの同志はプロレタリアートで、ブルジョワではないのだ。
第二に、祖国防衛を拒否し、全権力をソビエト(社会主義評議会)へ移行することに、全力をあげる。
レーニンの革命の成功は「第二」によるところが大きい。外の問題(第一次世界大戦)より、内の問題(革命)を優先したからである。一方、その真逆の方法で失敗した人物がいる。中国の内戦で敗れた蒋介石だ。
■安内壌外の策
1930年代、広大な中国で、蒋介石率いる中国国民党と、毛沢東率いる中国共産党が戦っていた。さらに、国外勢も参戦。満洲国を樹立した大日本帝国である。蒋介石は、内敵の中国共産党と、外敵の大日本帝国と対峙していたのである。これを「内憂外患(ないゆうがいかん)」という。内も外も厄介ごとばかりでやっとれん、という意味。
とはいえ、2つ同時に処理するのは得策ではない。
では、蒋介石はどうしたのか?
レーニンと同じ、外の問題より内の問題を優先したのである。まず毛沢東の共産党を倒し、その後で大日本帝国を駆逐する。「内」を安定させた後、「外」を追い払うという意味で「安内壌外」ともいう。
ではなぜ、レーニンは成功し、蒋介石は失敗したのか?
蒋介石は、途中で安内壌外を捨てたから。ただし、蒋介石が望んだわけではない。仲間に裏切られたのである。
1936年10月、蒋介石率いる国民党軍は、数十万の大軍で、毛沢東率いる紅軍を陝西省と甘粛省に封じ込めていた。国民党軍は圧倒的優勢で、勝利は目前だ。蒋介石は西安で軍議を開き、将軍たちを叱咤激励した。
「いまや、囲剿戦は最後の5分の段階に来ている。油断するな、全員、奮励努力せよ!」
「囲剿戦(いそうせん)」とは、蒋介石の造語で、悪者(中国共産党のこと)を包囲殲滅すること。
ところが、ここで青天の霹靂、クーデターが発生したのである。
謀反人は、蒋介石の同盟者の張学良(ちょうがくりょう)と楊虎城(ようこじょう)。この二人を首班とするの反乱グループが、蒋介石を拉致し、国民党と共産党が同盟し、日本軍と戦うことを約束させたのである。つまり、「安内壌外」から「壌外安内」の大転換。これが「西安事件」である。
ではなぜ、張学良と楊虎城は蒋介石を裏切ったのか?
張学良は、満州・奉天軍閥の首領、張作霖の息子で、生まれながらのボンボン。陰謀や寝技は長けていたが、戦さはサッパリ。紅軍に連戦連敗、悲しいほど勝てない。西安に進軍したときも、師団長が捕虜になるという大失態をしでかしている。蒋介石に叱責され、居場所がない。そんなこんなで、張学良は紅軍と戦うのが嫌になっていたのである。
一方、楊虎城は、はなから紅軍と戦くのは嫌だった。愛国者で、中国人と戦いたくなかったという説もあるが、真相は不明だ。動機はさておき、そんな個人的都合が共鳴しあい、クーデターに発展したのである。人生は何がおこるかわからない。蒋介石は本当にお気の毒。
では、西安事件がなかったら、蒋介石は中国を統一していたか?
間違いない。
まず、1936年10月、蒋介石が言ったように囲剿戦は「最後の5分の段階」に来ていた。クーデターがなければ、この時点で、毛沢東も中国共産党も消滅していただろう。その後、1945年に日本は敗戦し、中国大陸から撤退するから、日本軍を追い払う必要もない。
つまり、西安事件がなければ、中国内戦の勝者は蒋介石だったのである。今ごろ、中国は共産主義ではなく民主主義の国。西安事件は、中国史の傍流を主流に置き換え、世界を一変させたのである。
中国の知の巨人、胡適はこう言っている。
「西安事件がなければ、共産党は消滅していた。西安事件が我々の国家に与えた損失は、取り返しのつかないものだった」
一方、レーニンは「四月テーゼ」で「安内壌外」を貫き、第二革命を成功させた。ロシアで「ソビエト政権」が樹立したのである。
第二革命?
ロシア革命には、第一革命と第二革命がある。この2つは連続しており、不可分だ。この連続革命により、300年続いたロマノフ王朝は崩壊し、史上初、前代未聞の「イデオロギーによる人工国家」が誕生したのである。
ここで、波乱に満ちたロシア革命をみていこう。
■因縁のクリミア半島
まず、ロシア革命の発端は「クリミア半島」にあり・・・意外かもしれないが本当だ。
そもそも、クリミア半島は落ち着かない土地である。ヘロドトスによると、最初の入植者は、誇り高きキムメリオス人だった。スキタイ人が攻めてきたとき、集団自決したほど。その後、住人は猫の目のようにコロコロ変わる。スキタイ人、ギリシャ人、タウリア人、ゴート人、キプチャク人、アラン人、ルーシ人、 ハザール人、アルメニア人、モンゴル人、ジェノヴァ人・・・日本は本当に幸せな国ですね。
クリミアは、20世紀初頭にドイツのヒトラーが、その後、ソ連のスターリンが引き継いだ。スターリンは、人口の大半を占めるタタール人(モンゴル人)を収容所送りにするほど冷酷な男だったが、後継者のフルシチョフはまだ情があった。クリミア半島をウクライナへプレゼントしたのである。もっとも、ウクライナはソ連の一部だったから、どっちも同じと考えたのだろう。
だが、ウクライナが西側陣営になびくと、そうも言っていられない。クリミア半島には、ロシアにとって貴重な不凍港「セヴァストポリ」があるからだ。セヴァストポリは黒海に面し、黒海からボスポラス海峡を抜ければ、地中海に出ることができる。不凍港が何より大事なロシアが手放すはずがない。
2000年、柔道黒帯のタフガイ、プーチンがロシアの大統領に就任した。プーチンは旧ソ連帝国の復活を夢見る覇権主義者だ。ウクライナとクリミアの問題を後回しにするはずがない。
2014年3月、クリミアで親ロシア派が住民投票を実施し、ウクライナからの独立を宣言した。クリミア共和国としてロシア連邦に編入したのである。ところが、ウクライナが頼りにしていた西側諸国は、弱々しい懸念を表明するにとどまった。ロシアにパイプラインを止められて、冬場に暖房が使えなくなると困るからだ。
だが、事はこれですまなかった。
ウクライナで、ウクライナ人とロシア人の対立が始まったのである。とくに、ロシア系住民が多いドネツク州とルガンスクは内戦にまで発展。そこで、2014年9月、ロシア、ウクライナ、ドイツ、フランスの4か国で「ミンスク合意(ミンスク議定書)」が締結された。内容は、内戦を止めて、兵を撤退させ、ドネツクとルガンスクに自治権を付与する。
ところが、2019年にウクライナ大統領に就任したゼレンスキーは「ミンスク合意」を履行しなかった。さらに、内政に失敗し、支持率が急落すると、EUとNATOの加盟を画策した。ロシアの国家安全保障にとって一大事だ。隣国ウクライナに、ロシアに向けられた核ミサイルが設置されるのだ。そこで、プーチンはウクライナに侵攻したのである。これは陰謀ではなく、公開された情報による。
ところが、日本のマスメディアは一切報じない。
なぜか?
軍事侵攻した方が悪いに決まってる・・・というより、ロシアを1ミリでも弁護すれば、袋だたきにあうから。
だが、ロシアは酷い、ウクライナは可哀そう、で終始するなら、戦争は再びおこるだろう。戦争の真の原因を見ないのだから、あたりまえ。もし、本当に戦争を防ぎたいなら、原因を直視し、真実を報道するべきだろう。
話をロシア革命にもどそう。
じつは、100年前のロシア革命もクリミア半島ではじまったのだ。つまり、クリミアはロシアとウクライナにとって因縁の土地なのである。
■クリミア戦争
ロシアは、国土の広さではダントツの世界一。ただし、その8割がウラル山脈以東のシベリアで、酷寒の土地。そのため、年中凍らない「不凍港」がない。不凍港がないと、大洋に進出できないから、陸に引きこもり。そこで、ロシアは海への出口「不凍港」を求めて、「南下政策」に乗り出したのである。
南下政策はヨーロッパから始まった。ターゲットはクリミア半島である。1853年、ロシアはクリミア半島を支配するオスマン帝国に宣戦布告した。
緒戦はロシアが有利だったが、形勢はすぐに逆転する。イギリスとフランスがオスマン帝国に加担したから。というのも、イギリスとフランスはロシアの南下政策が気に入らなかった。ロシアを陸に閉じ込めておきたかったのである。
こうして、クリミア半島を主戦場に、ロシア帝国Vs.オスマン帝国・イギリス・フランス連合軍の戦いが始まった。これがクリミア戦争である。ナポレオン戦争以来の国際戦争で、3年間続いたが、最終的にロシアが敗北した。
ロシアの敗因は明白、産業革命である。イギリスとフランスは産業革命を経験していたが、ロシアは蒸気機関も知らなかった。結果、黒海の海戦では、イギリス・フランスの艦隊は鋼鉄の蒸気船で、ロシア艦隊は木造の帆船。勝敗は明らかだ。1856年3月、ロシア帝国は敗北を認め、クリミア戦争は終結し、パリ条約が成立した。
この戦争で、ロシア皇帝アレクサンドル2世は、ロシアの遅れを痛感した。そこで、国の大改革を決意する。それが、命取りになるとは夢にも思わなかっただろうが。
まずは農業改革。近代化のため、農奴を解放した。ところが、農家はミールという管理組織にしばられ、農地を所有するために莫大な借金を背負わされた。やっと奴隷から開放されたと思ったら、借金地獄。やっとれん、農民の不満は募るばかり。
つぎに政治改革。中央集権的をめざしたので、既得権益が失われ、貴族の反感を買った。後に、アレクサンドル2世は暗殺されたが、主犯は旧貴族である。
さらに非ロシア系住民。ロシアに住むウクライナ人やベラルーシ人などの非ロシア民族は、ロシア化を強制された。自分たちの文化や制度が否定されるわけで、面白いはずがない。今にみてろよ・・・非ロシア系住民の不満は地底のマグマ。
つまりこういうこと。
ロシア皇帝アレクサンドル2世は、ロシアの農民と貴族、非ロシアの住民、国民から幅広く嫌われていたのである。こんな状況では、いつ革命がおきてもおかしくない。そこで、ロシア政府は、ユダヤ人を仮想敵にでっちあげて、政府への不満をそらそうとしたのである。これがシオン賢者の議定書の陰謀だ。結果、1903年から1906年にかけて、数百万人のユダヤ人が殺された。このようなユダヤ人の迫害・殺戮を「ポグロム」とよんでいる。
結局、アレクサンドル2世は暗殺された。お国のために大改革したらこの末路、割に合わない。指導者は大変である。その後、ロシア皇帝はアレクサンドル3世、ニコライ2世へ継承されるが、失政が続く。何をしようがしまいが、地獄の終着駅「ロシア革命」に引き寄せられていく。
■ロシア第一革命
ロシアは、南下政策はクリミアで失敗したが、それであきらめるロシアではない。西がだめなら東、極東に目を向けたのである。
ロシアが次に狙ったのは満州と朝鮮半島だった。中国の満州鉄道を手に入れれば、シベリア鉄道~満州鉄道で、モスクワから旅順と大連まで一気通貫だ。この2港は年中凍らない不凍港である。さらに、満州の南には朝鮮半島が隣接しているから、日本海に侵出するにはうってつけ。
ところが、極東には強力な軍事国家が存在した。大日本帝国である。
もし、満州と朝鮮半島がロシアの手に落ちれば、日本は日本海をはさんで大国ロシアとにらめっこ。シャレにならない、というか、国家安全保障の一大事だ。一方、ロシアは、極東で失敗すれば、不凍港は夢のまた夢。つまり、日本もロシアもどっちも引けない。これが国家安全保障というものなのだ。この時代の日本の指導者は、今と違い、能力も覇気もあった。国力数倍のロシアに立ち向かったのである。
1904年2月、日露戦争がはじまった。ロシアは連戦連敗で、1905年1月1日、ロシアの旅順要塞が陥落した。ロシア国内では、厭戦気分が漂い、1905年1月9日、ロシアの帝都サンクトペテルブルク(後のペトログラード)でデモ行進が始まった。神父が企画した平和的なデモだったが、政府軍がデモ隊に発砲。多数の死傷者が出た。これが「血の日曜日事件」である。この事件を機に、ロシア全土で反政府運動が広がり、ロシア第一革命に突入する。
この革命で、最も過激だったのがレーニン率いるボリシェヴィキ(革命左派)だ。レーニンは革命のためなら、手段を選ばない、そんな男だった。活動資金をえるために、郵便局、列車、銀行の強盗も辞さない。事実、1907年6月、ヨシフ・スターリン一派が、グルジアのトビリシで帝国銀行を襲撃し、現金と金を強奪している。さすがに、革命のお仲間、メンシェヴィキ(革命右派)から非難の声があがった。いくら、革命のためといえ、銀行強盗はいかがなものかと。
もちろん、レーニンはひるまない、カエルの面にションベンだ。レーニンは完全無欠のリアリストだった。そんな悠長なこと言っていて、革命が成功するか、おまえらバカか!と言ったかどうか知る由もないが、そんな気持ちが伝わってくる。
レーニンは未来を見通していた。メンシェヴィキ(革命右派)はブルジョワだから、中途半端な立憲君主制で満足するだろう。エセ革命家だから、あてにできない。そこで、レーニンは、最下層のプロレタリアートと農民で、君主制を打倒しようとしたのである。キューバーのカストロやチェ・ゲバラと同じ、筋金入りの革命家である。
ところが、結局、第一革命は失敗する。1907年6月、ロシア臨時政府きっての切れ者、ストルイピン首相に鎮圧されたのである。失敗の原因は、革命派がまとまらず、バラバラで戦ったこと。さらに、ストルイピンが秘密警察「オフラーナ」を使って、弾圧を強化すると、革命家はヨーロッパへ逃げのびるしかなかった。レーニンがスイスに亡命したのもこの頃である。
このまま平穏が続けば、ロマノフ王朝は存続していただろう。21世紀の今ごろは、ロシアはイギリス、日本とならぶ立憲君主国だ。ところが、ここで歴史的大事件がおこる。第一次世界大戦である。これで、ロシアは大混乱に陥り、第二革命が成功したのである。
■ロシア第ニ革命
1914年6月28日、サラエボを訪問していたオーストリア皇太子夫妻が、セルビア民族主義のテロ組織「ブラックハンド」に暗殺された。その報復として、オーストリア=ハンガリー帝国は、ドイツ帝国の後ろ盾を得て、セルビアに宣戦布告。すると、セルビアと同盟していたロシアは総動員例令を発令。その後、同盟国がわれもわれもと参戦し、ドミノ倒しで、第一次世界大戦が始まった。このとき、ロシアの帝都サンクトペテルブルクはドイツ語風という理由で、ペトログラードに改名された。
誰もが、戦争はクリスマスまでには終わると思っていた。ところが、1915年に入ると、西部戦線は膠着する。兵士たちが塹壕に引きこもり、戦況が動かなくなったのである。
そこで、ドイツは矛先を東方に変えた。ロシアに大攻勢をかけたのである。不意を突かれたロシアは連戦連敗。ロシアは、工業生産力のほとんどを軍需物資にあてざるをえなかった。結果、生活物資が不足し、国民生活は困窮した。一方、戦争の長期化で、兵士の士気は低下するばかり。
あちこちでデモが発生し、収拾がつかなくなった。そして、帝都ペトログラードでおきたデモがとどめを刺す。大規模な武装蜂起に発展し、皇帝ニコライ2世は退位したのである。300年続いたロマノフ王朝は崩壊、これが「十月革命」である。
その後、ロシアで臨時政府が成立し、戦争は継続されたが、ロシア兵の脱走が頻発。地方では、農民が反乱をおこし、土地を占領した。工場も、資源や原料が不足し、生産が激減、労働者が解雇された。一方、労働者も負けていない。ストライキをおこし、資本家に抵抗したのである。目も当てられない惨状だが、臨時政府は収拾することができなかった。
さて、ここでレーニンの登場、冒頭の封印列車である。
レーニン率いるボリシェヴィキは、ロシア臨時政府を倒し、政権を奪取した。そして、国民にむけて、高らかに宣言する。戦争を終わらせる、農民に土地を分配する、労働者の権利を向上させる、少数民族は解放する。国民は歓喜の声をあげ、ボリシェヴィキを支持した。だが、公約は戦争終結を除いて、すべて反故にされた。
レーニンは、第一次世界大戦から離脱するため、和平交渉をはじめた。ところが、外国への債務履行を拒否したため、同盟国の怒りを買う(当然です)。国内では、革命の混乱に乗じて、多くの少数民族が独立を宣言したが、すべて握り潰した。
独立を公約したのに?
アゼルバイジャンの石油、コーカサスの鉄鋼、ウクライナの穀物・・・こんな貴重な資源を手放すはずがない。
ところが、1918年、ドイツはトートツにウクライナの独立を承認する。レーニンは激怒し、ドイツとの和平交渉を中止したが、ドイツはロシアへの攻撃を再開、広大な領土を占拠した。レーニンは、ドイツが有利な講和条約に署名せざるをえなかった。これが、1918年に締結されたブレスト=リトフスク条約である。これでロシアは第一次世界大戦から正式に離脱した。
だが、ロシアが失ったものは大きかった。ウクライナ、ベラルーシなどの多くの独立が承認され、南コーカサス地方をオスマン帝国に明け渡し、人口の1/3を失った。それに付随する資源も消失。それでも、レーニンはご機嫌だった。「安内壌外」に一歩前進したからだ。レーニンの判断は間違ってはいなかった。最終的にロシア革命は成功したのだから。
一方、蒋介石も「安内壌外」が正しいことを知っていたが、クーデターでひっくり返された。スターリンは、同志やロシア国民を数百万人殺害したことで非難されているが、クーデターを恐れたからである。というわけで、政治家は大変だ。並の人間では務まらない。けれど、日本の政治家をみていると、そんな緊張感は微塵も感じないが、気のせいかな?
参考文献:
「世界滅亡国家史」ギデオン・デフォー (著), 杉田 真 (翻訳) 出版社 : サンマーク出版
by R.B