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週刊スモールトーク (第499話) ウクライナ侵攻(5)~モンゴル襲来とロシア分裂~

カテゴリ : 戦争歴史

2022.05.13

ウクライナ侵攻(5)~モンゴル襲来とロシア分裂~

■モンゴル襲来

ウクライナは「ロシアの母」と言っていいだろう。

ウクライナの首都キエフは「ルーシ諸都市の母」とよばれ、「ルーシ」は古ノルド語に由来するロシアの古名で「キエフ大公国」のことだから。

とはいえ、この時代、まだウクライナとロシアの区別はなかった。ところが、13世紀のモンゴル襲来で、ウクライナとロシアは分裂し、因縁の歴史を形成していく。

モンゴル襲来とはモンゴル帝国のユーラシア大陸侵攻で、歴史上2度あった。

モンゴルの第1次侵攻は1219年9月に始まった。

チンギス・ハーン自らが指揮し、最終的に中央アジアから西アジアまでが征服された。

このとき、キエフ大公国も大損害をこうむっている。1222年、モンゴルのジェベ・スブタイ軍は、キエフ大公国の東方の草原地帯に侵攻。先住民族のキプチャク族は、キエフ大公国に逃げ込み、領主に助けを乞うた。そこで、キエフ公、チェルニゴフ公、ガリチ公は連合軍を編成し、モンゴル軍を迎え撃ったが、大敗。領主たちは全員なぶり殺しにされた。これが1223年5月31日のカルカ河畔の戦いである。ところが、モンゴル軍はキエフ大公国には侵攻せず、引き返した。そのため、滅亡はまぬがれたのである。

だが、災難はつづく。

1236年春、モンゴルの第2次侵攻が始ったのである。

総司令官はチンギス・ハーンの孫バトゥ、前回を超える大軍がおしよせ、ユーラシアの大地は血に染まった。

1238年の冬から1239年の春にかけて、バトゥ軍はキプチャク草原を平定する。これが後のキプチャク・ハン国である。チンギス・ハンの長子ジョチの領国(ウルス)なので、ジョチ・ウルスともいわれる。

モンゴル軍はヨーロッパ全土を征服する勢いだったが、モンゴル帝国の総師オゴタイ・ハンが酒の飲み過ぎで急死。作戦は中止された。

ありえない?

そうでもない。

この時代、モンゴル帝室の深酒は常習化しており、いつおきてもおかしくない話。ただし、酒の失敗はモンゴルの専売特許ではない。かのアレクサンドロス大王も深酒が原因で、無二の親友を殺害している。周囲の友人・知人も酒の失敗は珍しくないから、深酒は避けましょう。我々の失敗が歴史を変えることはないだろうが。

■国民より憲法が大事な護憲派

モンゴル軍の第2次侵攻は、キエフ大公国にもおよんだ。1239年、キエフ大公国、ノヴゴロド公国、スーズダリ大公国、ヴォルィーニ大公国は連合して迎え撃ったが、再び大敗。領主は皆殺しにされ、領民も殺された。キエフ大公国の人口が半減したというから凄まじい。これほどのジェノサイ(民族大虐殺)は歴史上類を見ない。

国民の半分が殺される世界を想像してみてほしい。「平和憲法(憲法9条)」に執着する護憲派議員には想像もできないだろうが。

冷静に考えてみよう。

憲法は手段であって目的ではない。目的は国民の生命財産を守ること。その手段として憲法がある。

ところが、中国が尖閣海域に侵出し、韓国が竹島を占領し、ロシアが北方領土を占領し、北朝鮮が核実験を再開し、ロシアがウクライナに軍事侵攻しても、平和憲法を守れの一点張り。

国民の生命財産と平和憲法、どっちが大事なのだ?

日本はおかしな国だ。国益に反する議員を、国税で雇っているのだから。

言い過ぎ?

では、護憲派議員に問う。

護憲に執着し、改憲(憲法改正)を拒否するなら、有事に対応する代替案をしめせ。まさか「話し合い」で?

バカじゃないのか。

尖閣も竹島も北方領土も、一方的に実力行使され、すでに勝負はついている。実効支配したもん勝ちは、世界のデファクトスタンダードだから。

それで、どうやって話し合えと?

こんな口先三寸ペテン議員を雇用するのは、狂気の沙汰。税金をドブに捨てるようなもの。国民もなめられたものだ。

モンゴル侵攻に話をもどそう。

キエフ大公国は、第2次侵攻で完全に崩壊した。キプチャク・ハン国の属国となったのである。スラヴ人はこれを「タタールのくびき」とよんだ。

「タタール」とはモンゴル人、「くびき」とは牛馬の首にあてて車をひかせる横木のこと。つまり、スラヴ人は自らを首をしめられる農耕牛と蔑んだのである。自虐的だが、人口の半分を殺されたのだから、本心に違いない。

■ウクライナとロシアの分裂

この時代のロシアを地図で確認しよう。

モンゴルの侵攻
【モンゴルの侵攻】

モンゴルの侵攻で、キエフ大公国はロシア、ウクライナ、ベラルーシに分裂した。その東方にキプチャク・ハン国が居座り、サライに王宮があった。モンゴル人はここからロシア全土を支配したのである。

とはいえ、モンゴル人は圧倒的に少ない。

では、大多数のスラヴ人をどうやって支配したのか?

まず、信仰の自由を保証する。宗教は「信じる」から始まるから、合理性も論理も通用しない。しかも、根が深いから、トラブルの元。万一、反乱がおこれば、信者は命懸けなので、鎮圧コストも莫大だ。古代ペルシャ帝国が長く続いたのも、信仰の自由を保証したから。

さらに、領民の義務は年貢のみ(税金と貢物)。しかも、モンゴル人は自ら徴税しない。ロシア貴族に一任したのである。その既得権益でのしあがったのがモスクワ大公国(ロシア)だ。つまり、モスクワ大公国はモンゴルの手先で、ウクライナは搾取されるだけ。こうして、ウクライナとロシアの新しい関係が始まったのである。

それにしても、モンゴルの統治システムは効率がいい。最小のコストで、最大のリターンが得られるから。モンゴル帝国といえば破壊と殺戮だが、意外に合理的だったのである。

結果、モンゴル帝国は人類史上第2位の版図を確立する(第1位は全盛期の大英帝国)。西は東ヨーロッパから東は極東まで(日本は除く)、ユーラシア大陸を横断する巨大帝国だ。ちなみに、キプチャク・ハン国はその西端に位置していた。

とはいえ、永遠に続く国は存在しない。

ペルシャ帝国、アレクサンドロス王国、ローマ帝国、かつて栄華を極めた国はすべて滅んだ。モンゴル帝国も例外ではなかった。モンゴル人の猛々しい気質は失われ、ゆっくりと衰退していく。

それを記した歴史的名著がある。イスラム世界の知の巨人イブン・バトゥータの「三大陸周遊記」だ。イブン・バトゥータは、キプチャク・ハン国の都サライを訪れ、王宮で、中国やインドから届けられた莫大な宝物を目撃している。チンギス・ハンの末裔たちは、征服欲を失い、異国の珍品に囲まれ、享楽にふけっていたのである。モンゴル帝国の始祖にして、史上最凶の征服者チンギス・ハンも、草葉の陰で泣いているだろう。

モスクワ大公国はモンゴルの凋落を注意深く観察していた。そもそも、モスクワ大公国は、好き好んでモンゴルのご機嫌取りしたわけではない。戦っても勝ち目がないから、我慢していただけ(当然です)。こうして、タタールのくびきは、少しづつ緩んでいく。

■第3のローマ

1453年、栄華を極めた東ローマ帝国が滅ぶ。栄枯盛衰は世の常人の常だが、ここで面白い事件がおこる。

東ローマ帝国のラストエンペラー、コンスタンティノス11世の姪ゾイ・パレオロギナが、モスクワ大公国のイヴァン3世に嫁いだのである。

それが?

歴史上大きな意味をもつ。

イヴァン3世が「余はローマ帝国の正統な継承者であり、モスクワは西ローマ、東ローマに続く、第3のローマである」と宣言したのである。

ローマ帝室の血筋は、他の国にもいるので、厚かましい話だが、西ローマ帝国も東ローマ帝国も滅んでいるから、ウソではない。早い話、言うたもん勝ち。さらに、イヴァン3世はツァーリの称号を名乗る。ツァーリとはローマ皇帝「カエサル」のスラブ語なので、まんまローマかぶれ。さらに、イヴァン3世は名実ともにカエサルたらんと、ロシアの諸公国の併合に乗り出すでのである。

1480年、モスクワ大公国はキプチャク・ハン国の年貢を拒否する。事実上、独立したのである。その後、モスクワ大公国はツァーリを戴く独裁国家へと突き進んでいく。

では、ウクライナは?

群雄割拠で無政府状態。軍事共同体「コサック」が、てんでんばらばらでモンゴルの残党狩りに精を出していた。ウクライナは、国造りより、タタールに対する復讐が大事?

話はそう単純ではない。

ウクライナのコサックは、モスクワ大公国に利用されたのである。コサックは戦さ上手だった。モンゴルの騎馬戦を踏襲し、辮髪から衣装まで真似る徹底ぶり。コサックはスラヴ版モンゴル騎兵だったのだ。そこで、モスクワ大公国はコサックに資金を提供し、モンゴル残党狩りをやらせたのである。

つまりこういうこと。

東スラヴ人は、ロシアとウクライナとベラルーシに分裂し、ロシア(モスクワ大公国)はロシアの統一を目指し、ウクライナ(コサック)はその傭兵になったのである。

その後、この棲み分けを強固にする大事件がおきる。隣国ポーランドの侵攻である。

■ポーランドの侵攻

この頃、ポーランドは黄金期を迎えつつあった。国策として、ユダヤ人を保護したからである。

じつは、ユダヤ人の迫害は20世紀のナチス・ドイツだけではない。19世紀のフランスでも、ドレフュス事件がおきている。ユダヤ人迫害は、歴史上枚挙にいとまがないのだ。

ポーランドはカトリック教国だったが、ユダヤ教には目をつむり、ユダヤ人を優遇した。そのため、多数のユダヤ人がポーランドに移住してきた。ユダヤ人の情報ネットワークと資金は、ポーランドに大きく利する。1569年、ポーランドはリトアニアと連合し、ポーランド・リトアニア共和国が成立する。ポーランドは大国にのしあがったのである。

その新興国ポーランドが目をつけたのが、隣国のウクライナだった。コサックが群雄割拠し、なかば無政府状態、獲るなら今。

ポーランドはウクライナに侵攻し、ウクライナの西方を征服した。征服地には、ユダヤ商人が送り込まれた。スラヴ人から徴税するためである。その過酷な取り立てが、ウクライナで反ユダヤ主義を生んだ。それが第2次世界大戦まで尾を引く。ナチスドイツがウクライナに侵攻したとき、ウクライナ人が「ユダヤ人狩り」に率先して協力したのである。

このような複雑な因果の連鎖は、勧善懲悪では語れない。独りよがりな「評価」は無意味で、事実として受け入れるしかない。

さらに、このような複雑な問題は、話し合いでは解決できない。そもそも、歴史上の問題は「武力」で解決した方が多いのだ。

これが歴史、現実なのである。

四方を海で囲まれた島国で、征服されたことない日本人には受け入れ難いだろうが。

■ロシアのシベリア征服

ウクライナにしてみれば、モンゴル人を追い払ったと思ったら、つぎはポーランド。

そこで、コサックの首領ボフダン・フメリニツキーが立ち上がった。モスクワ大公国と同盟し、ポーランドからの独立戦争をおこしたのである。戦いに勝利して、ポーランドを追い払ったと思ったら、今度はモスクワ大公国が干渉してきた。独立戦争に勝てたのはオレたちのおかげ。だから、言うことを聞けというのだ。

こうして、ウクライナのコサックは、自由を奪われていく。あげく、東方のモンゴル残党狩りに駆り出されたのである。

その中で、最も有名なコサックの首領がイェルマークだ。イェルマーク率いるコサック軍は、東進し、ウラル山脈を超え、モンゴルの残党「シビル・ハン国」を滅ぼした。それをイヴァン4世に献上したのである。コサック軍は、さらに東進し、シベリア先住民族(テュルク系)も征服した。それが現在の「シベリア」である。史上最大を誇るロシアの領土は、ウクライナ(コサック)のおかげなのである。

コサックのシベリア征服
【コサックのシベリア征服】

つまりこういうこと。

キエフ大公国(ルーシ)の時代、ウクライナとロシアの区別はなかった。ところが、モンゴルの侵攻で分断され、ポーランド戦争でロシアとウクライナの序列が確立する。ロシアは君主独裁制で支配者、一方、ウクライナはコサックの部族制でロシアの傭兵。

ロシアのウクライナへの「上から目線」も、この時代に生まれた。元々、ロシアは序列が好きな国だ。モスクワを第3のローマとし、ローマ帝国の継承者と称するほどだから。ヨーロッパになりきれないロシアのコンプレックスの裏返しかもしれない。

ところで、お気づきだろうか?

これまでウクライナが独立国だったことは一度もないのだ。

今回の軍事侵攻でウクライナは有名になったのに、マスメディアは絶対に報じないし、口に出す専門家も識者もいない。

なぜか?

不自然なものには理由がある。

《つづく》

参考文献:
・三大陸周遊記 抄、イブン・バットゥータ (著), Ibn Battuta (原著), 前嶋 信次 (翻訳) ‎ 中央公論新社

by R.B

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