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週刊スモールトーク (第43話) V2ロケット(2)~飛行原理~

カテゴリ : 戦争科学

2006.04.21

V2ロケット(2)~飛行原理~

■果てしない失敗

歴史上初めて、大気圏を脱出し、成層圏を飛んだロケット、それがV2ロケットだった。まだ、プロペラ飛行機が地表を得意げに飛んでいた頃、ペーネミュンデ秘密基地の科学者たちは成層圏を飛行するロケットを目指したのである。当時の技術水準を考えれば、10年先を行く驚異のテクノロジーだった。

ペーネミュンデ秘密基地のロケット開発チームは「ペーネミュンデ機関」とよばれた。技術の最高責任者はまだ20代のフォン・ブラウン。1937年、フォン・ブラウンらは、高度90kmの成層圏を飛ぶV2ロケット計画をスタートさせた。この計画をヒト・モノ・カネあらゆる面でバックアップしたのがドイツ軍である。ロケットの型番は「A-4」、後に「Vergeltungswaffe(報復兵器)」の頭文字をとって「V2ロケット」と命名された。

開発は順調に進んだが、ロケットに弾頭をつけたとたん、目をおおうような失敗が始まった。発射台で、あるいは離昇中に、さらには落下中に、ところかまわず、空中分解または爆発した。中でも、1943年6月30日に起こった事故は深刻だった。制御不能となったV2ロケットが、近くのカールスハーゲン飛行場に落下し、ドイツ軍機を爆発炎上させたのである。最初の戦果は味方の基地?シャレにならない。

ところが、ペーネミュンデの技術者には何のおとがめもなかった。V2ロケット計画はドイツの最優先プロジェクトだったのである。失敗の原因は、山のようにあった。まずは、弾頭の信管の誤動作。信管とは爆薬を爆発させる引き金である。V2ロケットの信管は「衝撃信管」で、大地に衝突した衝撃で爆発する。ところが、飛行中の振動や高温で信管が動作し、空中爆発した。また、燃料タンクが破損すれば、燃料に引火し、やはり空中爆発。大気圏突入時の空気との摩擦熱も問題だった。高温で、機械部品や電気部品が破損するからである。

さらに、姿勢制御に失敗すれば、軸線がぶれ、ロケット全体が振動し、空中分解。目も当てられない状況だった。V2ロケットの失敗は度を超していた。回数も規模も。1回の失敗で65000箇所の手直しをしたこともあった。いくら部品点数が多いとはいえ、この数字は異常だ。しかも、液体燃料ロケットとしてのメドが立った後のことである。記録によると、フォン・ブラウンの執念はすさまじく、失敗の連続に気落ちすることもなく、周囲の技術者たちを驚嘆させたという。だが、この失敗のすさまじさは、世に知られた天才フォン・ブラウンにある疑惑がわいていくる。

■失敗の原因

一般に機械装置は、部品点数が増えるほど、設計も製造も難しくなる。部品のからみが幾何級数的に増え、何が起こるかわからなくなるからだ。例えば、自動車の部品点数は5000個、ジェット旅客機は20万個、HⅡ型ロケットは35万個(あくまで目安)。陸→空→宇宙と高度が上がるにつれ、部品点数も増えている。つまり、V2ロケットは現代においても最高難度のテクノロジーなのである。

フォン・ブラウンは、このような難しいV2ロケットを完成させた天才技術者として知られている。だが、天才がこのような失敗をするだろうか。フォン・ブラウンの手法は、日本の野口英世博士を彷彿させる。野口博士は世界的な細菌学者で、ノーベル賞候補にもなった人物だが、理論より実験で攻めるタイプだった。考えられるあらゆるパターンをしらみつぶしに実験するのである、それも常軌を逸したレベルで。もちろん、並外れた特質だが、天才のアプローチとは思えない。

フォン・ブラウンもしかり、天才の世界の住人だったとは思えないのだ。じつは、フォン・ブラウンは数学が不得意だった。彼は、ロケットの元祖ヘルマンオーベルトの著した「惑星間宇宙へのロケット」を読んで感動し、ロケット開発を目指す。ところが、ロケット開発にはニュートン力学が必須で、そのためには微積分をはじめ大学レベルの数学が必要になる。そこで、必要に迫られて、数学をガリ勉したのである。

数学は天性が支配する世界である。中学までは努力でなんとかなるが、高校になるとそうはいかない。勉強しても伸びない学科の1つで、逆に資質に恵まれれば、授業を聞いているだけ高成績が得られる。芸術やスポーツの世界と同じだ。もし、フォン・ブラウンが真の天才なら、数学と物理を駆使し、机上で失敗を予測できたはずである。

一方、メンドウな理論をいじくりまわすより、とにかくやってみよう、で実験の数で勝負という手もある。V2ロケット計画に投入されたヒト・モノ・カネはとてつもないものだった。使い切った金額は現在の貨幣価値にして2兆円。労働力もドイツの強制収容所から無尽蔵に供給された。このような恵まれた環境では、ヘタな考え休むに似たり、とにかくやってみよう、が幅を利かすことになる。ただし、この手法は技術者の心を消耗させる。

■驚異の技術

V2ロケットは、液体酸素とアルコールを燃焼させ、燃焼ガスを噴射し、その反動で推力をえる。ただ、発射から着地まで噴射し続けるわけではない。成層圏に達した時点でエンジンを停止し、その後は慣性飛行にうつる。ということは、エンジンを停止した時点のV2ロケットの方向と速度だけで、その後の飛行ルートが決まる。ここがV2ロケットのキモだが、現代の戦略核ミサイルもすべてこの方式。

ここで、V2ロケットの飛行原理を詳しくみてみよう。V2ロケットは、全長14m、総重量12.5トンで、約1トンの爆弾が搭載された。推力は1秒間に1万トンに達するが、燃費は最悪で1秒間に110キロリットルもの燃料を消費した。まず、ターボポンプにより、液体酸素とアルコールが燃焼室に送り込まれる。回転電気点火装置で点火後、燃焼を開始、V2ロケットは垂直に離昇する。

やがて、傾きを49度に変え、目標地点に向かって飛行を続ける。V2ロケットの飛行方向は、噴射口にある4枚の方向舵でコントロールされたが、この方向舵はグラファイト製であった。なみの金属だと、高熱の噴射ガスで融けるからである。

また、V2ロケットが横転しないよう、4枚の安定版によって微調整された。次に、V2ロケットが、あらかじめ決められた速度に達すると、エンジンを停止する。それはいいが、どうやって速度を知るのだ?

「平均速度=移動距離÷移動時間」残念ながら、これは平均速度。必要なのは瞬間速度だ。瞬間速度は、加速度を時間で積分すれば求められるが、コンピュータはどこにあるのだ?

ところが、フォン・ブラウンらはうまい方法を思いつく。V2ロケットの中に、振り子ジャイロをおき、その角速度を求めれば、加速度を積分した結果、つまり速度に一致することに気づいたのだ。いわば、機械仕掛けの速度計。なかなかうまい方法だ。たぶん、歴史上初。

V2ロケットが、エンジンを停止する点を「ブレンシュルス点」という。V2ロケットは、このブレンシュルス点を通過した後、慣性飛行にうつり、その後、最高点に達する。最大射程の320kmの場合、最高点は高度93kmで、成層圏のさらに上の熱圏。エベレスト山の10倍の高さで、空気はほとんどない。もちろん、それまで人類が達した歴史上最高高度である。この最高点を通過した後、自由落下に入り、大気圏に突入する。後は、目標に向かって落下するだけ。

この飛行方法では、V2ロケットをコントロールできるのは、ブレンシュルス点まで。つまり、目標への命中率は、ブレンシュルス点を通過する時の、方向と速度だけで決まる。そのため、ブレンシュルス点を正しい方向と正しい速度で通過するよう、V2ロケットの姿勢制御と加速度制御を行う。姿勢の制御を誤れば、振動または回転で空中分解し、加速度の制御を誤れば、着弾点が狂う。飛行速度はマッハ3と尋常ではないので、わずかな誤差ですべて台無し。

一方、精巧なセンサーやコンピュータがない時代に、こんな精緻な制御をどうやって実現したのか?ロケットの姿勢制御は、ジャイロで機体の傾きを検出し、定めた進路とのズレを比較し、噴射舵と方向舵で姿勢を修正した。また、加速度制御は前述した振り子ジャイロと歯車計算機で行われた。電子制御もコンピュータもない時代に、機械式制御だけで300kmも飛行したのである。安易な電子制御に慣れた現代の技術者からみれば驚異である。

また、V2ロケットには、他にも画期的な仕掛けや工夫があった。アルコール燃料を利用した冷却装置。使用前の液体酸素は、燃料ポンプの潤滑油としても利用された。V2ロケットは究極の機械式飛行体だったのである。以前、物流システムメーカーのエンジニアとして働いたことがある。それまで機械仕掛けだった装置が、センサーとコンピュータによる電子制御に移り変わろうとする時代だった。制御に限れば、機械式より電子式のほうが簡単で精度も高い。

かつてハイテクの象徴だった機械式時計もすでにクォーツにとって代わられている。機械式腕時計は本来の「計時」の用途を失い、工芸品として生きのびているわけだ。つまり、我々はすでに電気文明に入っているのである。込み入った制御はすべて電子制御。というわけで、V2ロケットは今後も歴史上最も複雑な「機械装置」として君臨するだろう。

■運用

ペーネミュンデ秘密基地のV2ロケット実験は失敗続きだったが、その努力が報われる日が来た。1942年10月3日、初めて打ち上げに成功したのである。バルト海に向けて発射されたV2ロケットは、190kmを飛行し、目標地点から4km離れた地点に着弾した。誤差4km。都市を攻撃するには十分な精度だった。ところが、その後も失敗は延々と続いた。並の神経ではとてももたない。フォン・ブラウンは心の病気なんか無縁だっただろう。とはいえ、一度成功したのだから「実現可能」は証明されたのだ。後は改良を重ね、実戦配備して敵国にV2ロケットを撃ち込むだけ。

ところが、もう一つ課題があった。V2ロケットの発射方法である。実験段階では、V2は固定発射台から発射されたが、総責任者ドルンベルガー大佐は実戦では移動式発射台を採用するつもりだった。発射位置を固定すると、敵に探知され、爆撃、破壊されるからである。ドルンベルガーは、V2ロケット部隊を陸軍の砲兵隊のように考えた。大砲と同じように、移動可能にすれば、敵に探知されにくく、攻撃地点も選ばない。

ところが、ヒトラーは、巨大な固定発射施設「ブンカー」にこだわった。「ブンカー」とは分厚いコンクリートンで隠蔽された強固な防御施設のことである。1943年3月29日、ヒトラーの命令により、V2ロケット用の巨大ブンカーの建設が決まった。その後、1年ほどの間に、フランスの大西洋岸のカレーやノルマンディーに15のV2発射基地が建設された。この施設は連合軍の空爆にはもちこたえたが、

1944年6月6日、ノルマンディ上陸作戦の後、連合国軍によって占領された。それ以降、V2ロケットはすべて移動式発射台から発射された。その運用のため、97両の車両、228名の兵員からなるV2ロケット中隊も編成された。車両の内訳は、ロケット運搬用トレーラー、トレーラーを牽引するトラクター、アルコール燃料タンク車、液体酸素タンク車、電源車、指揮車など。まず、V2ロケットはロケット運搬用トレーラーに横向けの状態で運ばれた。そして、発射場所で液圧ピストンで垂直に立てられる。ロケット運搬用トレーラーが発射台も兼ねるわけだ。次に、ジャイロスコープと誘導装置の最終点検を行い、燃料が注入され、発射される。たかが、1トンの爆薬を撃ち込むのにかなりの手間暇だ。

兵器としてのコストパーフォーマンスは最悪。爆撃機や大砲の方がよほど効率がいい。

1943年8月17日、ペーネミュンデ秘密基地に思いもよらぬ災難がふりかかる。基地がイギリス空軍の大爆撃を受けたのである。どうやら、V2ロケット計画がイギリスに露見したらしい。爆撃の5日後、親衛隊長官ヒムラーと軍需相シュペアは、V2ロケットの開発拠点をポーランドのブリズナに、生産拠点をノルトハウゼンの地下工場に移すことを決めた。この頃、V2ロケット計画の管理は陸軍から親衛隊に移っていた。先の地下工場の建設には、ブッフェンヴァルト強制収容所の収容者たちがかり出されたが、強制収容所を統括していたのが親衛隊である。新しい総責任者には親衛隊ハンス・カムラー将軍が任じられた。V2ロケット計画は完全に親衛隊に取り込まれたのである。

■V1ロケット

時代を少しさかのぼって、第二次世界大戦の初め、フランスを占領したドイツ軍はイギリス侵攻作戦を企てた。ところが、ドイツ空軍はイギリス空軍に大敗する。そこで、V2ロケット計画の責任者ドルンベルガーは空爆よりロケットが有効であると説いた。空軍はすぐにこの話にのった。1942年、ドイツ空軍は独自のミサイル計画をスタートさせたのである。このミサイルの正式名称はFi103だが、「V1飛行爆弾」の方がよく知られている。

ただし、V1飛行爆弾は同じミサイルでも、V2ロケットとは似て非なるものだった。まず、V1はV2のようなロケットではなく、パルスジェットエンジンで飛行するジェット機である。つまり、推進方式の根本が違う。ジェット機は、外気を取り込むため酸化剤は不要だし、V2からみればはるかにシンプル。その分安価で、V1はV2の1/10のコストだった。

ところが、V1の本体は安価だが、発射台は高くついた。離陸のための専用滑走路が必要だったからである。V1は航空機のように水平に離陸する。そのため、発射台はゆるやかな上昇曲線を描いたスロープが必要だった。発射台はフランスのカレーに建設され、1944年6月には実戦配備された。V1飛行爆弾はロンドンに向け発射され、1週間で5000名もの犠牲者を出した。この犠牲者の数はV2ロケットを上回る。

V1飛行爆弾は時速700km、戦闘機より速く飛ぶことができた。そのため、戦闘機や対空砲火で撃墜することは困難だった。ところが、まもなく、イギリス軍はV1の弱点に気づく。V1は無人なので直線飛行しかできない。だから、V1の未来の位置が予測可能なのだ、しかもかなり正確に。やがて、V1は対空砲火や戦闘機で簡単に撃墜されるようになった。その後、V1を迎撃する必要もなくなった。1944年9月、連合国軍がノルマンディーに上陸し、カレーを占領したからである。V1の発射台は連合軍に押収され、ただの滑り台になった。

■ペンギン作戦

ノルマンディー上陸後、連合国軍の作戦は順調で、ヨーロッパの国々は次々と開放された。9月半ばには、連合国軍はベルギーの大半を再占領する。そのため、V2ロケットの発射位置もジリジリ後退し、ロンドンも射程距離外となった。そこで、再占領されたフランスとベルギーがV2の新たな目標となった。これが「ペンギン作戦」である。

V2ロケットの最初の実戦発射は、1944年9月6日に行われた。第444砲兵中隊が、ベルギー東部からパリにむけて、V2ロケットを発射したのである。ただし、結果は失敗だった。翌9月8日、場所をかえ、再びパリにむけ発射されたが、パリのシャラントンに落下し、6名の死者がでた。爆撃機による空爆にくらべ、被害は微々たるものだった。それでも、1944年11月25日、ロンドンのウールワース大量販売店に落下したV2ロケットは、死者168名を出した。

その後、1945年2月から3月にかけ、ロンドンへのV2攻撃はピークに達したが、その数は週に60基ほどだった。また、V2ロケットは、ロンドンに向け1359基も発射されたが、町に命中したのは517基。犠牲者は、死者2754名、負傷者6523名であった。一方、ベルギーのアントワープには、1610基が発射された。町中に落下したのは598基で、主目標とされた港湾地区には152基が着弾した。

最大の被害を出したのは、1944年12月16日、映画館に落下したV2で、死者は561名に達した。一般に、V2ロケット攻撃と言えばロンドンだが、撃ち込まれた数はベルギーの方が多い。1945年、第二次世界大戦は最終局面に入る。ドイツの戦況は悪化の一途をたどり、勝利への希望は失われた。

そして、1945年4月7日、V2発射部隊は解体された。V2ロケットも捕獲されないよう、すべて破壊された。一方、V2ロケット開発の主役ドルンベルガー大佐とフォン・ブラウンは、戦後の身の振り方を考えていた。つまり、第2の人生。フォン・ブラウンにとって、ドイツの復興より、ロケット開発のほうが大切だった。のその後の人生は、「技術者の生き様」という新たな問題を提起することになる。

《つづく》

参考文献:手島尚訳スティーヴン・ザロガ著「V-2弾道ミサイル1942-1952」大日本絵画

by R.B

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