日馬富士暴力事件(2)~貴乃花Vs白鵬~
■原理原則の罠
10世紀のローマ教皇、ヨハネス12世はこう言っている・・・
「現実と妥協することなく、原理原則だけを追い求めていると、歳とともに感覚が鈍っていく。そんな人がたくさんいるのを私は見てはいられない」
カトリックの聖職者とは思えない発言だが、自身の経験で言っているのだろう。
ヨハネス12世は、生まれ育ちがよく、若くしてローマ教皇にのぼりつめた。早い話が、苦労知らず。結果、非現実的な理念を抱くようになる、「教皇領の拡大」である。ところが、イタリア王に敗北、自領地まで危なくなった。
そこで、もう一人の世俗の王、フランク王国王オットー1世に軍事援助を求める。見返りに「ローマ皇帝」の帝冠をプレゼントして。これが、歴史上有名な「神聖ローマ帝国の成立」である。原理原則を追求したら失敗、妥協したら歴史的大イベントに・・・皮肉な話だが、これがヨハネス12世の唯一の歴史的功績なのである。
つまりこういうこと。
原理原則にこだわらず、現実に合わせる方が、うまくいく。歴史もそれを証明している。たとえば、超リアリストのスターリンはイデオロギーに囚われたヒトラーに勝利した。
じつは、これが日本式なのである。堅いこと言わずに、融通利かして、八方丸くおさめる。ところが、昨今は違う、法律で一刀両断、欧米並に「訴えてやる!」の世界だ。
根本にあるのは、「原理原則」で貫く、例外は一切許さない・・・カッコイイ、反論の余地のない正義の王道だ。
とはいえ、度を越すとみんな不幸になる。喜ぶのはルールだけ(ルールに感情があればの話だが)。ルールは、本来、人の幸福のためにあるのに、皮肉な話だ。
日馬富士暴行事件もしかり。身を削る稽古をしていた格闘家が、酒の席のトラブルですべてを失った。
批評家や有識者の意見が通ったわけだ。
つまり、
「ビール瓶か、リモコンか、素手かはドーデモいい、暴力を振るうこと自体が悪い。それだけで厳重処分にすべきだ」
彼らは、原理原則を呪文のように唱える。そうしていれば、責められないし、損もしないから。つまり、あるべき姿を言っているのではなく、自分の立場、損得でモノを言っているのだ。
日馬富士は、モンゴルから異国の地「日本」に来て、稽古稽古で、横綱まで上りつめた。しかも、人一倍熱心に社会貢献にとりくんだ。その頑張りも偉業も善行も関係なし。酔った席でカッとなっての行動だったことも、一顧だにされない。つまり、生身の「現実」より、原理原則という「言葉」が大事なのだ。
人間の行為で、許されないのは「悪意」と「計画性」である。日本の司法でも、悪意がない、計画性がない、カッとなって、は罪が軽い。ところが、今回、それが一切なかった。最悪のペナルティ「引退」に追い込まれたのだから。
不思議なことに、今回の結末は、誰も得をしていない。被害者の貴ノ岩でさえ。これほど、後味の悪い結末はないだろう。
そして、事件から1ヶ月経過した今も、騒動がおさまる終わる気配がない。世間は、新たなスケープゴートを求めているのだ。
■相撲協会
まずは、相撲協会。
何があっても、相撲協会が悪い、が常態化している。今回は、事件の隠蔽疑惑だ。日馬富士の暴力を表沙汰にせず、内部で処理しようとしたというのだ。
でも、それって、本当に悪い?
「隠蔽」といえば聞こえば悪いが、「示談」なら?
相撲界にかぎらず、どんな世界でもトラブルは起きる。人間は不完全で、あやまちを犯す生き物だから。もし、「あやまちを犯したことがない」と言い張る人がいたとしたら、難しい問題を解決する立場になかったか、問題を避けていたからだろう。
もちろん、あやまちを見逃せと言っているわけではない。
悪質なものは、断罪するべきだ。しかし、悪意がない、言葉のあや、もののはずみで起こったトラブルなら、双方が納得すれば、「示談」は良い方法だ。わざわざ、利害のからまない者にまで公開して、さらし者にする必要はないから。
どんな世界でも不祥事はある。地味なサラリーマン社会もしかり。忘年会で大喧嘩になった、手を出した、セクハラ、パワハラ、横領・・・枚挙にいとまがない。
中でも業務上横領は深刻だ。「お金を盗む」のだから。
たとえば、経理なら、会社のお金を着服する、現金を抱えて逃亡する(知人の会社で本当にあった)。営業なら、利益をでっちあげる、納入業者から個人的にリベートをとる。
いずれも、紛れもない「犯罪」・・・だから、訴えてやる!
かというと、そうでもない。
昔は、魔が差した、少額なら、示談ですませることが多かった。お金を返済し、辞表を出すなら、警察には届けない。そうすれば、本人は破滅しなくてすむし、会社も「信用の失墜」は避けられる。悪くない落とし所だ。
ただし、それが許されない場合がある。第三者に害を及ぼす場合だ。
最近、大手企業で、この手の不祥事が多発している。偽装、隠蔽、改ざん、捏造・・・これらの悪事は、当事者だけではなく、社会全体に害を及ぼす。だから、なかったことにしよう、では済まされないのだ。再発防止のためにも、白日の下にさらすべきだろう。
■貴乃花親方
今回の暴力事件では、貴乃花親方も非難を浴びている。
事件が起きたとき、相撲協会に報告せずに、警察に被害届けを出したから。警察の前に相撲協会では?そもそも、あんた巡業部長でしょ、その責任はどーなってるの?というわけだ。
それだけではない。
その後、貴乃花親化は、相撲協会への協力を拒否している。警察の取り調べが終わるまで、話に応じないというのだ。
この問題では、相撲協会と有識者の意見は一致している。
相撲協会に協力しないって、どーゆうこと?そもそも、あんた相撲協会の理事でしょ、一体何考えてる、というわけだ。
たしかに、グの音も出ない。
でも・・・
貴乃花親方にしてみれば、多勢に無勢、相撲協会に任せれば、うやむやにされる、と考えたのだろう。そこで、警察に被害届けを出した。世間に公表され、隠蔽できなくなるから。自分の正義を立証するには、これしかなかったかもしれない。貴乃花親方の正義が、本当の「正義」かどうかはさておき。
貴乃花親方が突っ張り続けるのは、他にも理由がある。横綱白鳳との確執である。二人は犬猿の仲だというのだ。
確証はないが、たぶん、本当だろう。
普通の確執なら、テレビカメラの前で、握手を交わして、にっこり笑って、「タダのウワサですよ」。
ところが、貴乃花親方と横綱白鳳にはそんな余裕さえ感じられない。ただならぬ確執と考えた方が自然だろう。
そんな「貴乃花親方Vs横綱白鳳」を大人げないという人もいる。でも、ヘンに取り繕うより、よっぽど清々しいのでは?
■貴乃花Vs白鳳
そもそも、二人は水と油なのだから。
貴乃花親方は・・・心技体を整えて、真っ向勝負。
横綱白鳳は・・・相撲は勝ってナンボ、勝たないと1銭にもならない。
一見、排反にみえるが、共通点もある・・・「極める」だ。
正々堂々真っ向勝負か、勝ってナンボか、目標とやり方は違うが、心は同じ、「相撲を極める」こと。
とはいえ、世間の好感度では「貴乃花親方>横綱白鳳」だろう。批評家、有識者を含めて。
でも、本当にそうだろうか?
確かに「何が何でも勝ってやる!」は、あさましい、ガツガツしている・・・悪いイメージがある。でも、一方で、純粋でキラキラのハングリー精神にもみえる。
20世紀後半、伝説のヘビー級ボクサーがいた。モハメド・アリである。ヘビー級史上最も有名なボクサーで、戦績も素晴らしい。そんな彼の原動力は「赤いスポーツカー」だった。チャンピオンになって、大金稼いで、赤いスポーツカーに乗りたい・・・子供がオモチャを欲しがるのと変わらない。
ところが、動機は単純なほど、純粋でパワフルだ。事実、アリは19回のチャンピオン防衛と、2回のチャンピオン奪還を成し遂げている。凄まじい戦績だ。
じつは、モハメド・アリの最初のリングネームは「カシアス・クレイ」だった。そのリングネームを拝借した日本人ボクサーがいる。「カシアス内藤」だ。日米のハーフで天性の資質をそなえ、連勝街道をばく進した。1970年、無敗のまま日本ミドル級チャンピオンに、翌年には東洋ミドル級チャンピオンに上りつめた。ボクシングファンは日本初の「重量級世界チャンピオン」を期待したものだった。
ところが、そうなならなかった。
彼には致命的な弱点があった。気が優しく、ハングリー精神が欠落していたのだ。そのツメの甘さが災いして、世界1位で終わったのである。
高校・大学でボクシングをやっていた従兄弟が、よくこんなことを言っていた・・・
「ボクシングは最後はハングリー精神。大卒のボクサーは他にも選択肢があるから、身体を壊さないように戦う。ところが、高卒のボクサーはボクシングしかないから、後先考えない。だから、最後に勝つのは高卒だ」
ガツガツが悪いとは限らないわけだ。
貴乃花親方と横綱白鳳は、信念もやり方も違う。だが、「相撲を極める」という接点において間然とするところがない。つまり、根本は同じなのだ。だから、自分の信念に従って、ガンガン行けばいいと思う。外野の言うことなど気にする必要はない。彼らは何の責任もないのだから。
■白鳳バンザイ事件
一方、横綱白鳳は別の非難を浴びている。「白鳳バンザイ事件」だ。
九州場所で40回目の優勝を決めた表彰式で・・・
日馬富士を再び土俵に上げたい、相撲界のうみを出す、と発言し、最後に万歳三唱でしめくくったのだ。
すぐに、有識者や相撲協会から非難の声があがった。
日馬富士暴行事件の結論は、相撲協会も出させていない。にもかかわらず、なんであんな発言になるのか?
そもそも、相撲協会は揺れに揺れている。そんな大変な状況で、万歳?一体、何を考えているのだ、というわけだ。
でも、白鳳の言動は本当に間違っているだろうか?
冷静に考えてみよう。
「横綱」は、相撲界では神に等しい存在だ。そこに到るまでに、どれほど厳しい稽古を積んできたか、われわれは想像もできない。そんな極めた人間にとって、今回の事件はどんな意味をもつのだろう。白鳳の相撲人生の何パーセントを占めるか、だ。
1パーセントにも満たないのではないか。
だから、白鳳はこう考えたのかもしれない・・・・こんなこと、さっさとおしまいにして、相撲をやろう。力士も頑張るから、相撲ファンの皆さんも応援して欲しい、相撲万歳!
相撲やろう!の景気づけにしか思えないのだが。少なくとも、悪意は感じられない。
にもかかわらず、気難しい理屈つけて、重箱をつつくのは、了見が狭い、とは言い過ぎだろうか?
■朝青龍事件
今から、8年前の2010年1月、横綱朝青龍が引退した。
一般人に暴力ふるった責任をとったのだ。
ところが、不思議なことに、このときの被害者がどういう人で、どういう経緯で起きたかは報じられなかった。暴力事件は原因と経緯が重要である。「暴力を振るった方が悪い」と決めつけるのは、真実を見失う可能性があるから。
昔、バーで暴力事件を目撃したことがある。
40歳ぐらいの男性が、20歳ぐらいの男性をグーで殴ったのだ。口が切れて、血が出ていたから、今なら、警察沙汰だろう。他に事件がなければ、ニュースでも報道されたかもしれない。「理由は何であれ、殴った方が悪い」とコメントされて。
だが、あのとき、殴られた方が悪い、と心底思った。
経緯は今でもはっきり覚えている。
40歳男性が若い白人女性と飲んでいた。そこへ、20歳男性が割って入って、白人女性に卑猥な言葉を浴びせかけたのだ。40歳男性は何度も注意したが、20歳男は聞く耳をもたない。そこで、「もうやめろ!」と手が出たのだ。
あのとき、40歳男性は殴らないですます方法が2つあった。無視すること、スゴスゴ店を退散すること。前者は、聖人君子でもムリ。後者も気弱な人間ならアリだが、正義感の強い人間ならムリ。結局、手を挙げるしかなかったのだ。
朝青龍に話をもどそう。
じつは、朝青龍の引退には前触れがあった。
ケガを理由に、夏巡業をさぼり、モンゴルでサッカーに興じたのだ。その映像がTVで公開され、パッシングの嵐だった。
でも、あの映像をみたとき、思わず見とれしまった・・・あんなマッスルな巨体が、飛ぶように、跳ねるように、ボールをコントロールしている。朝青龍はサイボーグか!?!
ところが、世間は、あの驚異の運動能力より、「サボり」に目が行ったのだ。
これは驚きだ。
誰かが空中浮遊したとして、
「あいつ、飛行許可をとってるのか」
と非難しているようなものではないか。
もちろん、仕事をサボってサッカーするのは悪いこと、そんなことは分かっている。力士の鑑となるべき横綱がそれじゃダメ、も分かる。「サボり=悪」を承知で、あの空中浮遊なみの超技が忘れられないのだ。
■モノカルチャー化する世界
世界はモノカルチャーに向かっている。
神と悪魔、善と悪、勝ち組と負け組、西欧式の単純な二元論世界だ。
グローバリゼーションが正義の呪文のように唱えられ、欧米式の拝金主義、ハイテク至上主義がまかり通っている。
やがて、人間はAIとロボットに仕事を奪われ、自然淘汰されるだろう。人類は、食物連鎖の頂点から転落し、代わりにAI&ロボットが頂点に立つのだ。すべてモノカルチャーの所産である。
相撲界も、モノカルチャーに向かっている。すべて、原理原則で一刀両断・・・
日馬富士の引退が決まったら、次は「貴乃花親化Vs横綱白鳳Vs相撲協会」の三つ巴のバトル。それに、眉をひそめる有識者もいるが、とことん闘えばいいだろう。3者の言い分は、一方的に間違っているとは思えないから。
どちらが正しいか、急いで結論付ける必要はない。生贄を捧げる必要もない。多種多様な考え、やり方が、一定のルールの中で闘うことが重要なのだ。それが、進化を励起するから。
多様性こそが自然の摂理なのである。地球上の100万種を超える生物種がそれを証明している。
「さらば朝青龍」に続く「さようなら日馬富士」、やりきれない結末だ。たしかにやったことは間違っている。でも、罰がそれに見合っているかが問題なのだ。
頑張っている人が報われる、成し遂げた人が讃えられる、そんな世界が来ることを心から願っている。
by R.B