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週刊スモールトーク (第37話) 織田信長(7)~本能寺の変の黒幕~

カテゴリ : 人物歴史

2006.03.04

織田信長(7)~本能寺の変の黒幕~

■信長包囲網

織田信長の人気は、それを想うときに湧く解放感による。疾風怒濤の桶狭間の戦い、史上初の大量破壊兵器戦となった長篠の戦い、青天の霹靂の本能寺の変、信長の歴史にはすべて華がある。それが信長のオーラと、あの抜けるような解放感を形成するのだが、信長包囲網崩壊直後、ピークに達する。

信長包囲網は10年間、織田信長を苦しめたが、武田信玄の死とともに崩壊した。この信玄最後の戦いとなったのが三方原の戦いであった。興味深いことに、三方原の戦いは桶狭間の戦いと奇妙な関係にある。プロセスが酷似しているのに、結果だけ真逆なのだ。

三方原の戦いは、徳川家康が武田信玄にいどんだ戦いである。武田軍は、質、量ともに徳川軍を圧倒したが、家康は籠城をすて、奇襲を決意する。ここまでは、桶狭間の戦いと同じ。ところが、その後が違う。桶狭間の戦いでは、信長は奇襲に成功し、その名声は天下に轟いた。その晴れがましい姿を徳川家康は自分にだぶらせたのかもしれない。だが、家康の奇襲は失敗する

圧倒的劣勢の軍が、奇襲により大軍を打ち負かすのは、古今東西、戦さの醍醐味である。歴史として語りつがれ、人々の記憶に残るのも奇襲だ。だが、歴史の方程式はあまくない。戦いの9割が兵力で決まるのである。つまり、奇襲が成功する確率はかなり低い。まして、武田信玄のような名将相手ではなおさらだ。へたをすれば、一刀両断、包囲殲滅される。そして、三方原の戦いの家康もそうなった。我々は、桶狭間の戦いで奇襲の快感にひたり、三方原の戦いで奇襲の現実を思い知らされる。

ところが、1573年4月12日、武田信玄はあっけなく死ぬ。信長最大の難敵は戦う前に消えてくれたのである。その直後、信長の反撃が始まった。信玄の脅威から解放された信長は、圧倒的な兵力を集中投下し、各個撃破していく。息も切らさず敵を殲滅していく姿は、天が解き放った阿修羅だ。信長包囲網の実力者たちは、なすすべもなく、討ち取られていった。

■朝倉・浅井の滅亡

1573年7月3日、第15第将軍、足利義昭は、武田信玄の侵攻に合わせ、槇島城で兵を挙げた。武田信玄と本願寺と連携し、信長を討とうというのである。ところが、このとき、頼みの信玄は既にこの世にいない。武田軍の撤退を確認した信長は、猛反撃に出る。7月18日には槇島城を攻撃、たちまち陥落した。降伏した足利義昭は自分の実子を人質に渡し、助命をえる。こうして室町幕府は滅亡した。

信長は息つく間もなく、8月4日、朝倉討伐に出陣。8月17日には越前に侵入した。先の槇島城陥落から、わずか1ヶ月。この疾風怒濤の進軍に、朝倉義景は仰天し、思考力を失った。あろうことか、居城の一乗谷城をうちすて、山の中の寺に逃げ込んだのである。

この一乗谷城から山寺までのルートは、いまでは観光コースになっている。実際に歩いてみると分かるが、道のりはけっこう険しい。大軍の移動はムリである。もちろん、朝倉義景は少人数で逃げのびたのだ。その3日後、朝倉義景は一族に裏切られ、自刃。名門朝倉家はあっけなく滅んだ。

信長の疾風は、さらにつづく。6日後の8月26日、越前から近江に兵をかえし、8月27日には浅井の居城小谷城を囲んだ。朝倉家滅亡からわずか7日。信じられないスピードだ。猛将で聞こえた浅井長政も、なすすべがなかった。翌日8月28日、信長は総攻撃を開始、小谷城はたった1日で陥落。浅井父子は切腹して果てた。

難攻不落の小谷城も、名将、浅井長政も、名門、朝倉家も、たったの10日で滅んだのである。長い歴史と伝統をもつ名家がこんな短期間に消え失せるのも、また歴史の条理なのだ。この戦いは、信長公記に詳細に記されているが、戦さの悲惨さも忘れ、信長の大胆不敵な大攻勢に心を奪われる。さらに、その年の12月には、三好三人衆も滅亡。わずか半年の間に、4つの大名家が、信長によって滅ぼされたのである。

■本願寺の降伏

織田信長の次の標的は、本願寺一向宗にすえられた。1574年7月13日、信長は、伊勢長島一向宗を包囲する。伊勢長島は、複数の河が流れる天然の要害で、今は遊園地ナガシマスパーランドとなっている。一向宗はそこに、やぐらや砦などを立て、大量の兵糧を持ち込んでいた。この伊勢長島一向宗は、かつて、尾張本国の小木江城を攻め落とし、信長の弟、織田信興を切腹させた勢力である。よって、信長にとって恨み骨髄であった。

伊勢長島一向宗は農民軍だが、出陣した織田軍はそうそうたるメンバーだった。信長公記によれば、織田家の主だった武将ほとんどが出陣している。織田信長帝国の総力をあげての戦いで、一向宗がいかに強大だったかがわかる。織田軍は、1000艘もの大船で海上を封鎖し、大鉄砲で砦を撃ちまくった。一向宗はたまらず、降伏を申し出るが、信長は許さない。結果、3ヶ月も籠城したあげく、一向宗の大半が餓死した。

窮地に追い込まれた一向宗は、9月29日にわび状をよこし、長島を退去する。ところが、信長は退去する一向宗を鉄砲で狙い撃ちし、生き残った者は残らず切り捨てさせた。さらに、中江城、屋長島城を四方から火をつけ、籠城した2万人の男女を焼き殺したのである。すさまじい殺戮、すさまじい宗教弾圧。一方、信長の宗教弾圧は、結果として宗教と政治を分離することになった。現代の日本で、血みどろの宗教紛争がないのは、そのおかげである。

こうして、本願寺一向宗が衰えた1575年、武田勝頼と織田信長が長篠で対決する。有名な長篠の戦いである。鉄砲3000挺の三段撃ちの真偽はともかく、武田軍は70%が戦死、重臣の多くが落命した。武田家の足腰は完全に砕かれたのである。さらに5年後の1580年、一向宗総本山の本願寺も降伏、法主、顕如は石山本願寺から退去した。全国に根をはる一向宗までが、信長の軍門に下ったのである。天下布武、織田信長帝国の実現は目と鼻の先であった。

■武田の滅亡

1582年に入ると、織田軍はもはや敵無しだった。一方、織田信長の油断が始まった。織田信長は武田にとどめをさすべく、甲斐に侵攻するが、嫡男織田信忠を先発させ、自らは物見遊山で進軍する。武田軍は先の長篠の戦いで、足腰が砕け、織田軍に抵抗する力はなかった。1582年3月11日、武田勝頼をはじめ、一族全員が自害する。こうして、名門武田は滅んだ。織田信長は日本の半分を征服し、天下布武は目前であった。

最強のハードパンチャー織田信長は、意気揚々と自分のコーナーに引きあげる。つぎのラウンドで完膚無きまでにたたきのめし、チャンピオンベルトを手に入れるのだ。ところが、一息ついた瞬間、背後からセコンドに襲われた。世にいう本能寺の変である。

■明智光秀

「彼は、裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった・・・また、友人たちの間にあっては、彼は人を欺くために72の方法を深く体得し、かつ学習したと吹聴していた・・・」(※2)

ルイス・フロイスが記した明智光秀像である。昨今の大河ドラマの「善良な明智光秀」とかなりのへだたりがある。この一文は、せっかく名誉を回復した明智光秀を、かつての「主人殺し」へと引き戻す。ところで、明智光秀は、どういう経緯で本能寺の変を思い立ったのだろう。

■本能寺の変の動機

太田牛一の信長公記は、信長ものでは最も信憑性が高いとされる。ところが、本能寺の変はいかにもあっけない。明智光秀謀反の動機も、
「信長を倒して、自分が天下の主となろうと、はかりごとをくわだてた」
の一行ですまされている。これでは身も蓋もない。

ところで、信長公記と並ぶルイス・フロイスの「日本史」はどうだろう。ルイス・フロイスは、世に流れた風聞をもとに、次のように書いている・・・

織田信長は、三河の国主徳川家康と甲斐の主将たちのために盛大な饗宴をもよおすことにしたが、その接待役に明智光秀を任じた。この催しについて、信長と光秀は密室において語っていたが、明智光秀が信長になにか反論し、それに逆上した信長は立ち上がり、怒りを込め、一度か二度、明智を足蹴にしたという。

ルイス・フロイスはこの様子は誰もみていない二人だけの事とした上で、このようなことが積もり積もって、明智光秀の天下への野心となったのでは、と推測している。とはいえ、こちらも歴史上の風説そのまま。意外性はない。

一方、本能寺の変には、さまざまな仮説がある。中でも有力なのが、足利義昭主犯説。足利義昭が公家衆とつるんで明智光秀をそそのかし、信長を誅殺したというのだ。TVや書籍にも紹介されたが、それなりの説得力がある。また、秀吉犯人説まであり、アニメ化もされたが、こちらは奇想天外の部類だろう。この頃の秀吉は、この手のリスクは絶対に冒さないから。

とはいえ、誰がそそのかしたにしろ、光秀自身に天下を狙う野心があったことは確かだ。本能寺の変の後、光秀の行動に迷いがあるから、首謀者は光秀以外にいるという説もあるが、これはおかしい。ルイス・フロイスの日本史を読む限り、光秀らしい周到な計画が見てとれ、行動も首尾一貫しているからだ。

■本能寺の変、京の都

ところで、本能寺の変とは、どんな事件だったのだろう。ドラマや映画では、信長の壮絶な最期ばかりが強調され、実態は見えてこない。そもそも、本能寺の変は、王を狙ったテロであり、国家転覆のクーデターである。日本全体が、天地動乱に陥ったはず。そこで、その時の様子を、ルイス・フロイスの日本史で見てみよう。

明智光秀は、中国を攻めている羽柴の後詰めを命じられ、7000~8000の軍を率いて出陣した。ところが、途中で引き返し、京に入る。明智の兵士たちは、その行軍に疑問をもち、さては、信長の命令にもとづき、徳川家康を殺すつもりであろうと考えた。明智光秀は京を完全に包囲した後、3000の兵で信長のいる本能寺を囲んだ。

ルイス・フロイスの日本史にはこのように書かれている。本能寺の変とは関係ないが、織田信長と徳川家康の関係がかなり微妙だったことがうかがえる。歴史上、鉄壁に見えた織田家と徳川家の同盟も、砂上の楼閣だったのかもしれない。もし本能寺の変がなければ、徳川家康は織田信長に誅殺されていた?

イエズス会の教会が本能寺の近くにあったため、本能寺の変はイエズス会士によって克明に記録されている。本能寺の変の当日、数名のキリシタンが教会にやって来て、早朝のミサの準備をしていた司祭に、御殿の前で騒ぎが起こっているので、しばらく待つようにと言ったという。そのような場所で、あえて争うからには、重大な事件かもしれないとも告げた。やがて本能寺に火の手があがるのが見え、次の使者が来て、
「明智が謀反を起こして信長を包囲した」
と言ったという。

世俗にうといはずのキリシタンが、その日のうちに、本能寺の変の事実をつかんでいる。おそらく、日本中の誰よりもはやく。キリスト教は、地球上のいたる場所に教会や修道院を設置し、情報を入手してきた。彼らの情報収集力は、おそらく、国家機関や商社に匹敵する。

こうして、本能寺の変は始まったが、戦いの経緯は信長公記と日本史でほぼ一致する。明智軍の侵入を受け、信長はみずから弓や槍を持ち戦ったが、ヒジに傷を負い、自室に入り、切腹。また、火をかけて焼け死んだという説もある。いずれにせよ、信長が落命したことは確かだ。だが、問題はその後である。

ルイス・フロイスの日本史によると、その後、明智勢の所業は残虐を極め、京の町は大混乱になったという。明智の兵士たちは、信長の家臣、武士、高貴な殿の首をはねて、手柄にしょうと、街路や家々を捜しまくった。明智の前には、それらの首が山積みされ、死骸は街路に放置され、その異臭は町中に漂ったという。まさにこの世の地獄。

一方、信長公記にも同じような記述がある・・・

6月2日、午前8時、明智は、信長と信忠を討ったあと、落人があるであろうから、家々を捜索せよと命じた。そこで明智勢は、洛中の町屋へ踏み込んで、落人を捜すそのさまは目も当てられない。都の騒動はひととおりではなかった。

このように、信頼すべき二つの書で本能寺の変の内容は一致している。本能寺の変は、予想通り天地動乱だったのだ。

■本能寺の変、安土

一方、信長の居城があった安土も大混乱に陥った。安土の町には、日本人聖職者を養成するセミナリオがあったので、この時の様子は、イエズス会士によって目撃されている。ルイス・フロイスの日本史によると・・・

本能寺の変の後、明智の軍勢は、信長の居城、安土城をめざし、進軍してきた。安土の町は、この日、最後の審判の日のようであった。婦女の声、子供らの泣き声、男達の叫びなど民衆の混乱と狂気で、大混乱に陥った。

また、イエズス会士たちの生死をかけた体験も記されている。混乱の中、イエズス会士とキリシタンたちは、琵琶湖にある島に逃れるため、船着き場に行った。それを見つけた海賊が船着き場に船をつけて、
「外国人がこのような目に合うはしのびないので助けよう」
といって、島に運んでくれた。ところが、イエズス会士たちが危惧(きぐ)したとおり、島に着くやいなや、身ぐるみはがれてしまった。

イエズス会士にとって幸いなことに、キリシタンの中に明智光秀とコネをもつ者がいた。この人物のとりはからいで、イエズス会士とキリシタンは安土に戻ることができた。ところが、帰ってみると、修道院とセミナリオは明智軍によって略奪された後であった。この記録は、後に、インドのゴアにあったイエズス会の極東本部に送られている。そのおかげで、本能寺の変をこれほど詳細に知ることができるのである。

また、安土の混乱は信長公記にも記されている・・・

午前10時、安土には明智が信長父子を討ちとったとのうわさが伝わってきた。はじめは、言葉にだすのもはばかられて、みなおし黙っていた。しかし京の都から、下男衆が逃げ帰り、謀反が本当であることが分かると大混乱が始まった。皆、自分のことで手一杯で、信長父子の自害を嘆き悲しむ者もいないようなありさまだった。そして、財産をうち捨て、妻子だけをひきつれて本国に逃れていった。

ルイス・フロイスの日本史同様、まさに最後の審判の日である。

その後、山崎の合戦で、明智光秀は羽柴秀吉によって討たれた。ところが、その後も大混乱が続く。ルイス・フロイスの日本史には、羽柴秀吉が明智光秀に勝利した後にも、大殺戮があったことが記されている。坂本城にたてこもった明智の残党が殺され、略奪目的で多数殺されたという。イエズス会士の司祭は、淀川に500人もの死体が流れていくのを目撃している。さらに、明智に加担した者は一人残らず殺され、1万人以上が殺されたという。本能寺の変と違わぬ凄まじい殺戮である。

■本能寺の変のメッセージ

本能寺の変は、テロ、クーデターである。一方、本能寺の変は別のメッセージも伝えている。秩序がもつ危うさだ。信長は、秩序に極めて厳格な君主で、信長の領地は現代に匹敵する秩序と安全が保たれていた。ところが、ひとたび支配者が倒れると、一夜にして、地獄と化したのである。

平和に麻痺した我々には、想像しがたい事実だ。とはいえ、現代の地球でも、法と秩序の破綻した国はいくらでもある。もちろん、日本も事情はそう変わらない。わけのわからない犯罪、動機が見えない犯罪。ゆっくりではあるが、日本も確実に「無法世界」に向かっている。われわれは、未来を見るためにも、過去の歴史をひもとく必要があるのだ。

《完》

参考文献:
(※1)太田牛一著榊山潤訳「信長公記」富士出版
(※2)松田毅一・川崎桃太編訳「回想の織田信長」中公新書

by R.B

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