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週刊スモールトーク (第361話) 究極のチャットボット(2)~ドイツ人の雑談~

カテゴリ : 娯楽科学

2017.05.28

究極のチャットボット(2)~ドイツ人の雑談~

■ゲーテの生家

ドイツのフランクフルトに行ったときのこと・・・

ゲーテの生家を観光した。

家だけ見てもしかたがないので、ドイツ人にアテンドを頼んだ。当時、大学でドイツ語をとっていたので、友人に、

「ドイツ語でまくしたてるから、見ていてくれ」

と、ホラを吹くと、

「ほー、そりゃあ凄い、お手並み拝見・・・」

とニヤリと笑った。

ところが・・・

このドイツ人ガイドは、日本語でまくしたててきた。30歳ぐらいの女性だったが、日本語がメチャクチャうまい。彼女が、

「大学はどこですか?」

と聞くので、

「大阪大学」

と答えると、今度は関西弁でまくしたててきた。しかも、完璧な関西弁。どこで覚えたか奇妙な関西弁を話すが外タレがいるが、それとは違う。

大阪ネイティブの友人いわく、

「俺たちより、関西弁うまい」

しかも、話の内容が濃い。ドイツの歴史を、日本の歴史と比較しながら、核心をあぶり出すのだ。あまりの博識、論理力に仰天した。

ドイツの片田舎で、こんな知の巨人に出会うとは思わなかった。さすがはドイツ!友人一同、いたく感動したものだ。

彼女は、最後に愉快なエピソードをつけくわえた。

ゲーテは大変な読書家だったというのだ。

ゲーテはその著作から、IQが210と推定されている(※1)。正真正銘の天才だが、本をたくさん読んだから天才になったわけではない。天才だから、たくさん本が読めたのである。

話はそこではなくて、「愉快なエピソード」・・・

ゲーテの父親は大変な教育パパで、ゲーテが帰るのを待ちわびていたという。それが高じて、壁に穴を開けたというのだ。少しでも早くゲーテを見つけるために・・・合理的というか、大胆というか、これがドイツ式?

その小さな窓をのぞきながら、270年前、ゲーテ少年が帰ってくる姿を想像しながら、愉快な気分にひたった。

ドイツ人の合理性はよく知られている。それはゲーテの生家にも表れている。

ゲーテの父はそれなりに出世したらしいが、家はこじんまりして、驚くほど質素。家の建付けも、家具も合理的でムダがない。「遊び」と「華美」が微塵もないのだ。

と、持ち上げておいて・・・

じつは、ゲーテの作品はあまり好きではない。それはそうだろう。IQが70も違うのだから、理解できるわけがない。ただし、ゲーテの文言で1つお気に入りがある。

気持ちよい生活をつくろうと思ったら・・・

1.スんだことをクヨクヨしない。

2.めったに腹を立てない。

3.いつも現在を楽しむ。

4.とりわけ人を憎まない。

5.未来を神にまかせる。

身にしみる・・・

AI(人工知能)で怪物化するIT、それに翻弄されるデジタルコンテンツ業界、一寸先は闇・・・こんな疾風怒濤を生き抜くには、哲学武装が欠かせない。そういえば、ゲーテは疾風怒濤(古典派)の代表作家だったか。

ゲーテは歴史に残る大文豪だが、法律家、政治家でもあった。浮世と俗世の両極を生きたわけだ。だから、こんな名言が生まれたのだろう。というわけで、ドイツ人は、教訓も合理的で実用的。哲学武装には最適だ。

本題に入ろう。

究極のチャットボット・・・「未知の知的存在」を作りたい。

晩年は、自分が作った「知的存在」と世間話をして過ごすのだ・・・孤独死を望みながら、話し相手を渇望する、究極の矛盾ですね。

「未知の知的存在」

人間とは別の世界で生まれ育ち、異質の概念を獲得した知性体。「異星人」が良い例だが、データが不足している。信憑性が高く、情報量が多い「ロズウェル事件」も「異星人との雑談」の情報はない。

そこで、「異星人」はあきらめて・・・

「未知の知的存在」には、どんな能力が必要か?

「言葉」だけで、未知の概念を理解し、説明する能力。

強固な論理力と合理性が欠かせない。

そこで、理屈っぽいの代表、ドイツ人の雑談に注目しよう。「概念」を読み解く秘密の呪文が隠されているに違いない。

■ハイゼンベルクの雑談

1920年の春、ドイツのシュターンベルガー湖の丘陵地帯で、3人の男がトレッキングしていた。

3人の男の名は、ハイゼンベルク、クルト、ロバート。

ハイゼンベルクとロバートが雑談を始めると、ロバートが反論する。

「君たち自然科学の信奉者どもは、いつでもすぐに経験事実ということをひっぱり出して、それで真理を確実に手に入れたと信じてしまう・・・君たちが言っていることは要するに君たちの考えにもとづいており、直接に君たちが知っていることはその考えだけなのだ。しかし、考えというものは物体の中にはない。われわれは物体を直接に知覚することはできない。だからまず、それを表象に変化させてそれから最後に物体についての概念を作らなければならない」(※2)

※表象:心に投影されたイメージ(言葉では言い表せない)。

要約すると・・・

科学を信じる者は、「経験」で「真理」が得られると信じている。しかし、「経験」は人間の「考え」にすぎない。ゆえに、人間は「経験」から「真理」を得ることはできない。そもそも、「考え」は物の中にはないし、人間は物を直接知覚することもできない。だから、一旦、人間がイメージできる「表象」に置き換えてから認知する。

ハイゼンベルクが反論する。

「それでも、君が非常にきびしく知覚の客体から分離しようとする表象というものは、結局のところ、やっぱり経験から来るのではないか?・・・たとえば、感覚的な印象の似たようなグループがたび重なって繰り返すとか、いろいろな感覚を証拠だてるものの間の関連だとかを通し、間接的生まれてくるのではないのか」(※2)

要約すると・・・

「表象」も「経験」から来るのではないか。感覚的な印象(経験)の繰り返しやグループ化、さらに、証拠の関連性から、間接的に、表象が生まれるのではないか(だから経験から真理は得られる)。

ロバートが再び反論する。

「それは僕には全然真実とは思えないし、とうてい納得できない。僕は最近、哲学者マルブランシュの著作を勉強したことがある・・・マルブランシュは表象の形成について本質的に3つの可能性を類別した。一つはちょうど君がいま述べたもの、つまり対象が感覚的な印象を通して直接的に人間の魂の中に表象を生ぜしめるというものだ。マルブランシュは、感覚的な印象は物体とも、またそれに対応させられた表象とも本質的にちがった性格のものであるからという理由で、この見解を拒否した。第二は、人間の魂ははじめから表象というものを持っている、あるいは少なくともこのような表象を自分自身で作り出す能力を所有しているとするものだ。この場合には。人の魂は感覚的な印象によって、すでにもっていた表象を思い出すか、あるいは感覚的印象によって表象を自分で形成するように刺激されるものだと説明する。そこでマルブランシュ自身が指示した第三のものは、人間の魂は神の摂理に参画するものだとする。人の魂は神と結びついているので雑多な感覚的印象を秩序づけ、概念的に整理し得るような表象能力や、描像や理念をも神によって与えられているのだと考える」(※2)

要約すると・・・

哲学者マルブランシュは、表象(心に投影されるイメージ)を形成する3つの方法を提示した。

1.対象が、感覚的な印象(経験)を通して、人間の魂の中に表象を形成する。しかし、感覚的な印象は、物とも表象とも異質なので、この仮説は却下。

2.人間の魂は、初めから表象をもっているか、自分で作り出す能力がある。だから、人間は感覚的な印象(経験)から表象を形成することができる。

3.人間の魂は神の摂理にリンクしている。そのため、人間は、神の表象能力を使って、感覚的な印象(経験)から表象を形成することができる。

クルトが反論する。

「君たち哲学者はいつでもすぐに神学と手を取りたがる。そしてむずかしくなってくると、すべての困難を労せずして解決してしまうような偉大な未知のものを引っ張り出してくる・・・もし君が、表象は単純に経験だけから生ずるということを認めたくないなら、どうやって初めからそれが人の魂に付与されているのかということを君は説明しなくてはならない。表象、あるいは少なくとも表象を作り得る能力ーそれを用いて子供さえも世界を経験するわけだがーは生まれながらに具わっているものなのだろうか?もし君がそう主張したいのなら、表象は前の世代の経験に基いていると信じなければならない。それならば、われわれの現在の経験の問題であろうと、あるいは過去の世代の経験の問題であろうと、どちらにしても僕には経験にもとづくという点では大して違いはなさそうに思えるのだが」(※2)

要約すると・・・

哲学の信奉者は、すぐに「神」に頼りたがる。つまり、すべての困難を一撃で解決する偉大な未知の存在。しかし、人間の魂がどうやって表象を得るのか?もし、表象が経験から生じないと言うなら、どうやってはじめから人間の魂に備わっているかを説明するべきだ。もし、表象が生まれながらに備わっているものなら、表象は前世の経験にもとづいていることになる。もしそうなら、現在の経験だろうと、前世の経験だろうと大差はない。経験ににもとづくという点で同じだから。

ロバートが反論する・・・雑談は延々と続く。

これがドイツ式の雑談、と普遍的ルールにもちこむつもりはないが、論理的というか、哲学的というか、理屈っぽい。

ところが・・・

この3人は、学者でも哲学者でもない、高校生なのだ!?

ただし、ハイゼンベルクはただの高校生ではない。後にドイツを代表する物理学者になるから。ナチス・ドイツの原子爆弾開発の中心人物で、連合国側に命を狙われたほど。スイスのチューリッヒで、アメリカのOSS(現在のCIA)に暗殺されかけたのだ(未遂)。

ハイゼンベルクは「行列力学」を導き、初めて、量子力学を体系化した。その後、オーストリアのシュレーディンガーが「波動力学」で、量子力学を体系化した。

つまり、量子力学には2つの体系がある・・・

行列力学Vs.波動力学

ノーベル賞を受賞した湯川秀樹の自伝「旅人(※4)」には、この話が出てくる。当時、物理学者が好んだのはシュレーディンガーの「波動力学」。ハイゼンベルクの「行列力学」は、わかりづらいので毛嫌いされたという。

行列力学は、文字どおり「行列」を使う。一方、波動力学は「微分方程式」を使う。行列も微分方程式も行き着く所は同じだが、行列は本当にわかりにくい。m行✕n列の要素がまんま露出して、ウンザリする。一方、微分方程式はスッキリしているので、分かった気分になる。

それはさておき、ハイゼンベルクは、量子力学への多大な功績で、31歳でノーベル物理学賞を受賞した。ところが、ロバートとクルトは歴史には出てこない。

ということは・・・

ドイツ人は、十把一からげで、論理的で頭がいい?

冒頭の女性ガイドしかり、テクノロジーしかり。日本が「ゼロ戦」で得意になっていた頃、大気圏を突き抜け、成層圏を飛翔する「V2ロケット」を作っていたのだから。

だから、「未知の知的存在(究極のチャットボット)」にはドイツ人の雑談が欠かせない!?

■主婦の雑談

とはいえ、「ハイゼンベルクの雑談」は本当にコンピュータにできるのだろうか?

できると思う。

難解に見える「ハイゼンベルクの雑談」も、大したこと言っていないから。

まずはテーマ・・・

五感で知覚するのが経験。その経験から直接、真理が得られるか?それとも、表象を介さないとムリ?

次に論旨・・・

経験は主観で、真理は客観で、根本が異なる。それゆえ、経験(主観)から真理(客観)を得ることはできない。しかし、「表象」を介すれば可能。「表象」とは人間が直接認知できないもの(真理)が心に投影されたイメージ。ゆえに、そのイメージ(表象)から、間接的に真理を認知することができる。これが、ロバートの説。

一方、「表象」も経験の産物だから、経験のお仲間。だから、経験(主観)から真理(客観)が得られる。これがハイゼンベルクとクルトの説。

というわけで、カンタンなことを難しく言うのがドイツ式?

ドイツの映画やドラマのセリフをみると、そんな気がしてくるのだが。

それはさておき、難しい雑談は「表象」がキモになりそうだ。

そこで、「表象」を具体的に考えてみよう。

たとえば、宇宙のどこかにいる未知の「異星人」の表象・・・

映画「宇宙戦争」のタコ型火星人とか、ロズウェル事件のグレイ。

ともに、一種のシンボルだが、記号のように単純なものではない。記号は形状が明確に定義されているが、表象にはそれがない。その代わり、表象は潜在意識にまで食い込んで、心を揺さぶる力がある。

たとえば、ロズウェル事件のグレイ。顔がノッペリして、鼻がなく、アーモンドような目、異様に大きい頭部・・・

「わー、これ人間じゃないよね!絶対、異星人だ・・・」

パンツも履いていないことに誰も気づいていない。異形の顔と頭部に釘づけなのだ。顔の形状が怖いのではない。心に映し出されたイメージに恐怖しているのだ。

「記号Vs.表象」は・・・「形式知(言葉で表せる知識)Vs.暗黙知(言葉で表すのが困難な知識)」と相似。さらに、表象は夢分析のユングの言う「心像」に酷似している。

心理学者のユングは、「人間の心は3層構造になっている」と主張した。心の表層に意識があり、その下に個人的無意識、さらにその下に普遍的無意識がある。これらを結びつけているのが「心像」だという。心像は人間の心に投影されたイメージで、意識と無意識の状態を集約しているというのだ。

というわけで、未知の概念を理解する鍵は「表象(心像)」にありそうだ。

裏を返せば、「表象(心像)」アルゴリズムを発見できれば、「未知の知的存在」も実現できる?

そうかも・・・

ただし、「心理学をシミュレーションする」方法はうまくいかないだろう。「真似る=シミュレーション」式の表象は、「エセ」知性しかうまないから。「表象」というメカニズムを、コンピュータのアーキテクチャーそのままで実現する、そこがキモになる。

と・・・ここまでは、スルスル来たのに、具体的なアルゴリズムが一向に浮かばない。そこで、金沢のひがし茶屋街に向かった。行き詰まったら「金沢散策」と決めているので・・・

【金沢のひがし茶屋街】

金沢東茶屋街金沢の「ひがし茶屋街」は、日本有数の茶屋町だ。
太平洋戦争中、金沢は爆撃にあっていない。そのため、茶屋様式の町屋が、完全な形で保存されている。国の重要伝統的建造物群保存地区にも指定されている。
江戸時代、金沢には2つの茶屋町があった。犀川の西側にある「にし」と、浅野川の東にある「ひがし」である。今でも、「にし」と「ひがし」といえば、この地域をさす。
今は、金沢の人気の観光スポットになっている。

この日も、ひがし茶屋街は観光客でにぎわっていた。ほとんどが外国人で、半分が中国人、2割が白人、他のアジア人が少し、日本人は数えるほどしかいない。

茶屋街をブラブラしながら、「表象アルゴリズム」を考えていたら、突然、日本語が飛び込んできた。おや、珍しい。ふりむくと、おばさん2人連れ・・・

「ねえ、あれどうなった?」

「あれ、ヤバイよ。こっちよりヤバイかも」

「こっちって?」

「きのう話してたあれよ」

「あー、あれね」

あれとこっちが区別がつかない。そもそも、代名詞しか出てこない。主婦の雑談は、「ドイツ人の雑談」より「表象アルゴリズム」より難しいのかもしれない・・・恐るべし!

参考文献:
(※1)「心理学の基礎」真辺春蔵、朝倉書店
(※2)「部分と全体―私の生涯の偉大な出会いと対話」W.K.ハイゼンベルク(著)山崎和夫(翻訳)出版社:みすず書房
(※3)「ユング心理学入門」河合隼雄著、培風館
(※4)「旅人」湯川秀樹自伝、湯川秀樹(著)角川

by R.B

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