映画「渚にて」(1)~人類最後の日~
■原子力戦争
街道にそって路面電車が走り、歩道には人があふれている。のどかな街の風景だ。
ところが目をこらすと・・・スーツ姿のビジネスマンが馬で出勤している。しかも、行き交う自転車が異常に多い。
ここはどこ?
1964年、オーストラリアのメルボルン・・・
岬の灯台の近くを、潜水艦が通り過ぎようとしている。それを見守る監視員。ラジオから不吉なニュースが・・・
「放射能がいつ来るかわかりませんが、原子力戦争の後、人類が生存しているのはここだけです」
放射能、原子力戦争、人類が生存しているのはここだけ?
「渚にて」はこんな謎めいたシーンからはじまる。
この映画は1959年に公開された。監督はスタンリー・クレイマー、主役は往年の大スター、グレゴリー・ペックである。原作はさらに古く、1957年、イギリスの小説家ネヴィル・シュートによって書かれた。
テーマは・・・ズバリ「人類最後の日」。
ただし、時間軸を限界まで圧縮して、胸ぐらつかんで引きずり回すような・・・今どきのハラハラドキドキではない。
「渚にて」はすべてがマッタリしている。
放射線量が急速に増加しているが、なすスベがない、座して死を待つ。そんなやり場のない日常が、たんたんと描かれている。最後は、それぞれの人生観・人生哲学で人生を全うする・・・SFというより社会派映画だろう。
しかも、時代は古く1950年代・・・だから、「核戦争(nuclear war)」ではなく「原子力戦争(atomic war)」なのである。
一般論だが、1950年~1960年代のSF映画はこの傾向が強い。
火星人が襲来しようが、核戦争がおころうが、パーティは欠かせない・・・比喩ではなくホントの話。事実、「渚にて(1959年)」も「宇宙戦争(1953年版)」もパーティを愉しむシーンがある・・・この世の終わりなのに。
つまり、この時代のSFは、「日常」と「カタストロフィー」が継ぎ目なくつながっている。しかも、秒速だの瞬殺だの(関係ないか)、早送りでストーリーの退屈さを隠すコソクさもない。現代の映画やドラマとは異質の作りだ。
■コバルト爆弾
「渚にて」は、原子力戦争(全面核戦争)後の世界を描いている。
「コバルト爆弾」が使用され、北半球は壊滅、南半球も放射線量が急増している。
コバルト爆弾?
あまり知られていないが、原爆や水爆と同じ核兵器。ただし、大きな違いがある。原爆や水爆は、爆風と高熱で物理的破壊を行うが、コバルト爆弾は放射能汚染がメイン。そのため「汚い爆弾」とよばれている。
「汚い爆弾」の代表が「中性子爆弾」だろう。ピカッと光っても、見た目には何も起こらないが、有害な中性子線が放出され、ヒト(生物)だけを殺傷する。
コバルト爆弾は、原爆または水爆の周囲をコバルトでおおう構造になっている。爆発のプロセスはちょっと複雑だ・・・
1.原爆・水爆が爆発すると核反応がおこり、中性子が放出される。
2.中性子がコバルトに吸収され、コバルト60に変化する。
3.コバルト60が、原爆・水爆の爆発で加速され放出される。
つまり、原爆・水爆は物理破壊が目的ではなく、コバルト60を巻き散らかすためにある。
コバルト60は有害な放射性物質だ。「ガンマー線」を放出し人間や生物を殺傷する。コバルト爆弾は生物限定の放射線兵器なのである。
しかも、コバルト60の半減期は5年、5年経っても放射能汚染は半分にしかならない。つまり、使用した側も占領できないわけだ。
一体、どんな得が?
というわけで、2017年現在、コバルト爆弾は実用化されていない。つまり、「渚にて」は、完全な仮想核戦争なのだ。
話をもどそう。
物語の舞台はメルボルン、南半球最大級の都市。それが冒頭のラジオ放送・・・
「原子力戦争の後、人類が生存しているのはここだけです」
につながるわけだ。
そして、冒頭の灯台を横切る原子力潜水艦は、アメリカ合衆国海軍の原子力潜水艦スコーピオン号。「渚にて」の準主役といっていい。
原子力戦争が勃発した時、スコーピオン号は潜航中だった。そのため、コバルト爆弾の直撃を避けられたのである。
その後、西太平洋に向かい、硫黄島の北で浮上したが、放射能量が異常に高い。そこで、再び潜行し、マニラに向かったが、放射能汚染がひどく、上陸できなかった。
こうして、スコーピオン号は南下を続け、メルボルンにたどり着いたのである。同盟国オーストラリア海軍の基地があったからだが、じつのところ、他に行く所がなかったのだ。
というわけで、事態はかなり深刻・・・ところが、「渚にて」は1950年代の古き良き時代の映画。物語はたわいもない日常からはじまる。
■サイコ
夫がミルクをつくって、赤ん坊に飲ませる。それから、ベッドに寝ている妻に紅茶をふるまう。そうコーヒーではなく、紅茶なのだ。
かつてオーストラリアはイギリスの植民地だった。だから、紅茶の文化なのである。一方、アメリカ合衆国も元はイギリスの植民地だが、コーヒー文化。
これにはわけがある。
アメリカがまだ植民地だったころ、本国イギリスがアメリカの紅茶に課税した。それに腹を立てたアメリカ人が、船荷の茶を海に投げ捨てたのである。これが有名な「ボストン茶会事件」。その後、アメリカはイギリス本国と戦って(アメリカ独立戦争)、独立を勝ち取った。
だから、アメリカは紅茶ではなく、コーヒー文化なのである。
それで?
話をもどそう。
ミルクと紅茶をいれる夫、どこかで見たことがある。
よく見ると、若き日のアンソニー・パーキンスではないか。彼が演じるのはオーストラリア海軍ピーター・ホームズ大尉。メルボルン郊外で妻のメアリーと赤ちゃんと3人で暮らす絵に描いたような好青年だ。
ところが、その3年後、アンソニー・パーキンスは一気にスターダムにのし上がる。好青年ではなく、映画史上に残る「サイコ」俳優として。
映画のタイトルは「サイコ」。サスペンス映画の神様、ヒッチコック監督の代表作だ。
アンソニー・パーキンスが演じるのは、小さなホテルを1人で切り盛りする陰気な青年。ところが、彼の正体は「陰気」どころではなかった・・・
昨今、度を越した異常者、変質者を、
「サイコ野郎!」
とよぶが、その元祖なのである。
かくして、アンソニー・パーキンスは「サイコ役者」として映画史にその名を刻んだ。
一方、「渚にて」のアンソニー・パーキンスは、最初から最後まで、良き軍人、良き夫。ところが、夫婦仲はビミョーだ。一見、仲むつまじいが、どこかギクシャクしている。妻のメアリーは普段は明るいが、時々、思いつめたような表情をする。それが気に入らない夫のピーター(アンソニー・パーキンス)。
これにはわけがある。
二人とも、5ヶ月後に何が起こるか知っているのだ。
ピーターは、軍人の冷静さで、「5ヶ月後」をうけいれている。ところが、メアリーはそれができない。それにイラつくピーター。そんなギクシャクが、最後の瞬間までつづく。
■5ヶ月後の世界
ある日、ホームズ大尉は、オーストラリア海軍から出頭を命じられた。こんな時期に、家族の元を離れたくない・・・そんな思いにかられながら、メルボルンに向かう。
メルボルンにあるオーストラリア海軍省。
提督が女性士官のオズグッドにぼやく。
「世界の石油の大半は北半球にある。もう輸入できない。今ある備蓄を大切につかうしかない」
そこへ、ホームズ大尉が出頭する。
提督は、ホームズ大尉に新しい任務を命じる。アメリカ合衆国・原子力潜水艦スコーピオン号に連絡士官として同乗せよというのだ。ホームズ大尉は思いつめたように、口を開く。
大尉:「いつ、帰れますか?」
提督:「4ヶ月ぐらいだ」
大尉:「『あれ』が来る時には家にいたいんです。いつ来るでしょう?」
提督:「科学者どもはいろいろ計算しているが、後5ヶ月だ。その前に帰れる」
ここで、初めて、現在と未来が明らかにされる。
5ヶ月後に、『あれ』が来て、時間軸は消滅するのだ。
つまり、人類は絶滅する。
参考文献:
渚にて【新版】人類最後の日(創元SF文庫)ネヴィル・シュート(著),佐藤龍雄(翻訳)出版社:東京創元社
by R.B