明の太祖・朱元璋(24)~父と子の戦い~
■全能の神
洪武帝がルールを厳守し、家臣を厳しく罰したのは理由がある。
生来の厳格さもあるが、一番の理由は皇統の存続・・・皇帝の座を子々孫々伝えるため。
では、何が皇統を妨げるというのか?
重臣の謀反。
ありがちな話だが、現実は想像以上に深刻だ。
とくに「丞相」。
丞相は国政のトップだが、統帥権(軍の最高指揮権)を握ると事実上「全能の神」になる。皇帝を意のままに操る、あるいは、排除することも可能だ。
中国3000年の歴史がそれを証明している。たとえば、元朝末期の宮廷大乱。
元朝は、モンゴル人が築いた中国王朝である。創始者はチンギス・ハーンの孫のクビライ。だから、戦さはめっぽう強い(海戦はのぞく)。ところが、ちまたの歴史書によれば・・・元朝は紅巾の乱であっさり滅びましたとさ。
怪しい・・・
史実を確認してみよう。
紅巾の乱がはじまったのが1351年。朱元璋が明朝を開くのが1368年。その後、元朝はモンゴル高原に逃れ「北元」を開いた(北元は後世の呼称)。北元でクビライの皇統が絶えるのが1388年。北元そのものが滅亡するのは1696年である。
つまり・・・紅巾の乱から元朝が滅ぶまで「350年」、元朝の開闢から数えると「425年」。徳川将軍家の「264年」の凌駕する。
宮廷大乱で「350年」なら、ふつうにしていたら何百年!?
「元朝→明朝→清朝」ではなく「元朝→清朝」になっていたかもしれない。この場合、明朝も朱元璋も歴史から消える。
というわけで、元朝を短命?にしたのは「宮廷大乱」だが、それを加速したのが丞相パワーだった。
「皇帝Vs皇太子」で、大臣や丞相や将軍がくんずほぐれつなら、内輪もめですむ。ところが、統帥権をもつ丞相が出現し、事態は一変する。「皇帝Vs皇太子Vs丞相」で三つどもえの大バトルが始まったのである。
その凄まじさは韓国ドラマ「奇皇后〜ふたつの愛涙の誓い〜」に詳しい。ストーリーは元朝末期の宮廷大乱だが、統帥権をもつ丞相の計り知れぬパワー、宮廷内乱の凄まじさが伝わってくる。史実と違う部分もあるが心配無用。実史の方がドラマより凄まじいから。
つまりこういうこと。
洪武帝(朱元璋)は、前王朝の失敗から学んだのである。実力者はすべて排除すべし・・・
じつは、王朝成立後の大粛清は明朝に限ったことではない。歴代の中国王朝はすべてコレ。
というのも・・・
中国は、王朝が変わるたびに血統が変わる。日本の天皇のように万世一系(永久に一つの系統が続く)ではないのだ。ちなみに、今でも日本の国家元首は天皇である。
というわけで、王朝が交代すれば前の血統は根絶やし。
そこで、王朝を開いたら、いの一番で、「危険分子」と「危険分子かも」と「そうでないかも」を抹殺すること(全員じゃん)。だから、粛清は必然なのである。
そもそも、洪武帝は人一倍猜疑心が強かった(心を許したのは馬皇后だけ)。
しかも、それに拍車をかける事件がおきる。「邵栄(しょうえい)と謝再興(しゃさいこう)の裏切り」である。
邵栄と謝再興は洪武帝(朱元璋)の腹心の部下だった。ところが、邵栄は洪武帝の暗殺をくわだてて失敗、謝再興は敵前逃亡した。
この2件の裏切りで、洪武帝は学んだ・・・家臣は油断ならない。二度あることは三度ある。あやしいのは、若芽のうちに摘んでおこう。備えあれば憂いなしというし。
洪武帝の「若芽摘み」は巧妙だった。家臣の嫉妬や対立を利用したのである。
明朝には2つの対立があった。
第1に「皇帝Vs丞相」。
第2に「淮人Vs非淮人」。
洪武帝は、第1に備え、第2を利用したのである。
淮人とは淮河流域出身の者をいう。彼らは淮西派閥を形成し、非淮人を排斥した。明朝の要職を独占し、職位が同じでも禄(給料)は「淮人>>非淮人」。非淮人が恨むのはあたりまえ。
洪武帝はこの対立を利用した。
淮人を出世させて、調子づいた淮人を、非淮人に監視させたのである。
非淮人は、淮人をねたんでいるから、淮人が失脚するのは「蜜の味」。だから、監視と告発に労を惜しまなかった。うまい仕掛けではないか。
ところが、弊害もあった。
家臣は疑心暗鬼にかられ、仕事どころではなくなった。さらに、大量処刑の結果、武勇の者も賢臣もいなくなった。
嘆かわしい事態だが、相手は明朝の大皇帝。どうしようもない。
ところが、その全能の神に意見する者が現れた。皇太子の朱標である。
■皇太子・朱標
朱標は洪武帝の嫡男だが、母親(馬皇后)に似て、心が優しく、温厚な人物だった。孔子が創始した儒教を学び、人の道をとくのである。洪武帝はそれが気に入らなかった。
彼はこう考えた・・・
論語(儒教の書)で国が治まれば苦労はない。そもそも、孔子は失敗したではないか。国の治安と秩序をもたらすのは法と罰則しかない。家臣を甘やかしたら、寝首をかかれる。
そこで、洪武帝は家臣の謀殺に精を出したのである。
洪武帝は働き者だった。
夜が明けきらないうちに起床して、政務に就く。地方政治を統括する中書省を廃止したので、そのぶん、皇帝の負担が増えていた。くわえて、家臣の謀殺仕事もあるし・・・
ところが、そんな激務が災いした。心臓を病んだのである。
洪武帝はすでに50歳になっていた。あと、何年生きられる?
一刻も早く脅威(重臣)を取り除かねば・・・洪武帝は気が焦り、感情の起伏も激しくなっていた。
そんなある日のこと、父と子が衝突した。
皇太子の朱標が、洪武帝に「人の道」を説いたのである。
「陛下はあまりにも人を殺しすぎます。これでは和をそこないかねません」
洪武帝はその場は我慢したが、腹の虫がおさまらない。翌日、洪武帝は皇太子をよびつけ、トゲだらけの杖を地面におき、拾えと命じた。
皇太子が躊躇すると、洪武帝はこう言った。
「そちはトゲがあるから拾おうとしない。だから、わしがトゲを抜いているのだ。わしが殺した者はみな天下の悪者だ。内部がすべて片付いたら、そちも主人役ができよう」(※)
理はあるが、優しい皇太子には通じない。朱標はこう反論した。
「上に尭舜の君あれば、下には尭舜の民もございます」
「尭舜(ぎょうしゅん)」とは、中国の伝説の帝王、尭と舜をさす。徳をもって国を治めた名君とされる。つまり、上が立派なら下も立派、上がダメなら下もダメ、と言いたいわけだ。
洪武帝は完全にキレた。
怒りにまかせ、皇太子に椅子を投げつけたのである。皇太子はそそくさと退散した。
子に理解してもらえない父・・・
それでも、洪武帝はあきらめなかった。トゲを抜いて、皇太子にわたせば皇統がつづく、息子もいつかは、分かってくれるだろう。
ところが、その日は永遠に来なかった。
朱標が早逝したのである。
■建文帝から永楽帝へ
洪武帝は65歳になっていた。信頼する馬皇后と皇太子・朱標を失い、髪もひげも真っ白に。
だが、嘆いているヒマはない。皇統が絶えたら、これまでの苦労が水の泡なのだ。そこで、洪武帝は、朱標の子、允ぶん(いんぶん)を皇太孫(世継ぎ)に立てた。
しかし、この時一悶着あった。
洪武帝は4男の「朱棣(しゅてい)」を世継ぎにしたかったのである。
栴檀(せんだん)は双葉より芳し・・・朱棣はまさにこれだった。
栴檀は白檀(びゃくだん)ともいう。香木の1つで、双葉のときから、爽やかな甘い芳香を放つ。つまり、優れた人物は幼少時代から才能を現すという意味。
朱棣は幼少期から利発だった。一度読んだものは忘れず、一を聞いたら十を知るのである。
ではなぜ、洪武帝は朱棣を皇太子にしなかったのか?
徳川家と同じ。長男が後を継ぐ、どんなバカであっても・・・
允ぶんはバカではなかったが、まだ16歳だった。しかも、父(朱標)に似て、心が優しかった。
そこで、洪武帝は、再びトゲ抜きをはじめた。結果、まともな家臣はみんな殺され・・・そして誰もいなくなった。
洪武帝の心配ごとは他にもあった。息子たちである。
洪武帝は、23人の皇子をすべて地方の諸王に封じていた。その皇子たちに問題があったのだ。
第2皇子の秦王は、失政がつづき、都の応天(南京)に召還された。
第3皇子の晋王は、たびたび法を犯し、陰謀のウワサさえあった。洪武帝は激怒し、死罪を命じたが、皇太子・朱標の嘆願により助命された。
ところが、1392年に朱標が病死し、1395年に秦王が、1398年に晋王が、相次いで死んだ。洪武帝は、わずか6年の間に、3人の皇子を失ったのである。
1398年5月、洪武帝は病に倒れた。1ヶ月臥した後、この世を去った。享年71歳、波乱万丈の人生だった。
その後、允ぶんが、第2代明朝皇帝に即位した。建文帝である。
ところが、建文帝は即位すると、疑り深くなった。
祖父を真似てトゲ抜きを始めたのである。ただし、今回のトゲは重臣ではなく、同族・・・洪武帝の息子たち、つまり、建文帝の叔父である。
彼らは藩王として各地に封じられていた。遠く離れた土地で一国を任されているので、陰謀も謀反も思いのまま。建文帝が疑心暗鬼になるのもムリはない。
そこで、建文帝は藩王の取りつぶしにかかった。当然、藩王は反発する。いつクーデターが起こってもおかしくない状況だった。
そんなおり、洪武帝の第4皇子・燕王が反旗を翻した。
燕王は「朱棣」、先の「栴檀は双葉より芳し」である。燕王は頭が切れたが、戦さもめっぽう強かった。建文帝は圧倒的兵力を有していたが、燕王にあっけなく敗北。1402年、燕王は応天(南京)を占領し、皇帝となった。明の成祖・永楽帝である。洪武帝が死んで、5年後のことだった。
永楽帝は、洪武帝とは真逆の国造りをめざした。
積極的に領土を拡大し、明朝の最大版図を築いたのである。さらに、鄭和に大航海を命じ、明朝の権威を世界に知らしめた。日本の足利義満も、永楽帝の即位に祝賀の使節を送っている。
永楽帝は気宇壮大な皇帝だった。
父・洪武帝の反動から世界帝国を目指したのである。とはいえ、それは「朱元璋(洪武帝)」とは別の物語・・・
《完》
参考文献:
(※)「超巨人朱元璋・運命をも変えた万能の指導者」原作:呉晗、堺屋太一、志村嗣生、志村三喜子、講談社
by R.B