明の太祖・朱元璋(22)~胡藍(こらん)の獄~
■胡惟庸(こいよう)の獄
1380年2月、左丞相の胡惟庸が逮捕された。罪状は国家反逆罪。
左丞相といえば、今でいう総理大臣。
国政のナンバーワンがそんなことする?
じつは、胡惟庸の罪状には2説ある。
一つは、胡惟庸が洪武帝の暗殺をくわだてたが、事前に発覚したという説。もう一つは、劉基の毒殺がバレたという説。どちらの罪が重い?は重要ではない。胡惟庸を殺すことが目的だったのだから。
胡惟庸は洪武帝(朱元璋)みずからの取り調べをうけ、4日後に処刑された。
そのとき、中書省も廃止されたが、この事件と深い関係がある。
中書省は地方政治を統括する中央官庁だが、それを胡惟庸が悪用したのである。その後、地方政治は皇帝みずから執り行うようなった。
洪武帝の真の狙いは、胡惟庸の殺害と中書省の廃止にあったに違いない。罪はあと付けで、疑獄事件の臭いがするから。そのため、この事件は「胡惟庸の獄」とよばれている。
この事件で、明朝の政権中枢はパニックにおちいった。最高位の左丞相が処刑されたのだ。
次は誰か?
疑心暗鬼が渦巻く中、皇帝の秘密警察(検校・錦衣衛)が暗躍していた。あることないことでっちあげて、大臣・将軍・官吏を告訴するのである。
こうして、凄まじい粛清がはじまった。
19世紀フランス革命の恐怖政治は、大量虐殺で有名だが、明朝版・恐怖政治の比ではない。4万人が殺されたのだから(フランス革命は1793年で1万7000人)。
開国の功臣も例外ではなかった。たとえば「徐達」。
徐達は、元軍を屈服させた第一の功労者である。軍の最高司令官にして、明朝第2位の右丞相(第1位は左丞相)。軍功は数知れず、彼がいなければ、明朝は歴史年表から消えていただろう。
そんな大功労者が、胡惟庸の「次」だったのである。
徐達は、性格上、謀反・不正はありえない。はめられたのだろう。
徐達は淮人で淮西派閥に属していたが、そこに執着はなかった。淮人でもダメな者はダメ、非淮人でも実力があれば推挙する。さらに、戦場にあっては冷静沈着、戦功は数知れなかった。しかも、第一の功臣となっても奢るところがない。そのため、将兵からの尊敬を一身に集めていた。
洪武帝はそこが気に入らなかった。
皇帝はこう考えた・・・徐達は実力も人望もある。しかも、いまだに、軍への影響力は絶大だ。たとえ徐達に叛意はなくても、誰かが徐達を旗印に挙兵したら、手に負えない。今のうちになんとかしなくては・・・
1385年、徐達は床に伏した。背中に腫れ物ができたのである。すると、洪武帝から「がちょう」が贈られた。それを食べた後、徐達は死んだ。
次は・・・「李善長」。
徐達が国軍のトップなら、李善長は国政のトップである。しかも、明朝第1位の左丞相にして、淮西派閥の領袖。皇帝をのぞけば明朝の絶対王者だ。
ところが、その李善長が徐達の「次」だったのである。
1380年に失脚した胡惟庸は、李善長と姻戚関係にあった。そのため、胡惟庸の獄に連座して失脚したのである。しかし、馬皇后(洪武帝の妻)のとりなしで命だけはとりとめた。
ところが、1382年に馬皇后が死去、李善長に再び災いがふりかかる。1390年、10年前の胡惟庸の件を蒸し返され、一族郎党皆殺しにされたのである。
このときの犠牲者は70名余。主犯の李善長は長年の功績を考慮され「自害」?となった。
とはいえ、罪状が「謀反人との婚姻関係」では説得力がない。相手は開国の第一の功臣なのだ。そこで、洪武帝はわけのわからない理由をでっちあげた・・・星座が変わったので大臣を殺して災いをのぞく。
?!?
李善長、享年77歳。これを「李善長の獄」とよんでいる。
冷静で人を殺すことが嫌いだった朱元璋はどこへ行ったのだ?
アナキン・スカイウォーカーがダース・ベイダーに変異したように、朱元璋も洪武帝へと変異し、ダークサイド(暗黒面)に堕ちたのだろか?
■藍玉(らんぎょく)の獄
粛清はさらにつづく。
次は、大将軍の「藍玉」。
明朝創設期、2人の大将軍がいた。徐達と常遭春である。徐達は知将、常遭春は猛将で知られていた。その常遭春の妻の弟が藍玉である。藍玉は、常遭春に付き従って、数々の戦功をたてた。
たとえば、1388年、藍玉は15万の大軍を率いて北元軍に勝利した。このとき、北元(元朝)の皇帝トクスティムールを敗走させている。この目覚ましい功績で、藍玉は涼国公に封じられた。その後、徐達の後を継いで、明軍の統帥(最高司令官)にのぼりつめる。
しかし、そこが人生の頂点だった。それからずっと下り坂・・・ならよかったのだが、地獄へつるべ落とし。
なぜか?
藍玉は天狗になったのだ。
軍中ではやりたい放題。将校の任免も思うまま、好き嫌い人事を断行した。あげく、洪武帝の言うことを聞かなくなった・・・
冷静に考えてみよう。
徐達と李善長は、あれだけの功績をのこしながら、身をつつしんだのだ。それでも殺されたのである。
それなのに、皇帝の言うことを聞かないって?
一体何を考えているのだ?
皇帝の思うツボではないか。
1393年、洪武帝のもとに、錦衣衛(秘密警察)から報告が入った。
「藍玉に謀反の疑いあり」
これが明朝最大の疑獄事件「藍玉の獄」に発展する。
最終的に、1万5000人が連座し処刑された。これで、明軍で武勇の者はいなくなった。洪武帝が懸念した軍の脅威はなくなったわけだ。メデタシ、メデタシ??
この「藍玉の獄」と先の「胡惟庸の獄」とあわせて「胡藍(こらん)の獄」とよんでいる。
「胡藍の獄」では、最終的に4万人が殺された。
数が多すぎるけど、なぜ?
一族単位で殺されたから。1人が有罪になれば、一族まとめて死刑。死人が増えてあたりまえ。
■粛清をまぬがれた者たち
ところが、驚くべきことに・・・
粛清をまぬがれた者がいた。
確率は1000人に1人どころではないので、並外れた「処世術」だ。現代でも役に立ちそうなので、紹介しよう。
まずは、湯和。
洪武帝の同郷で幼なじみ。いっしょに牛飼いをして牛泥棒したこともある(焼いて食べた)。紅巾軍では、朱元璋の先輩だが、その後、立場は逆転する。それでも、朱元璋を深く尊敬し付き従った。
もちろん、それだけで、粛清をまぬがれたわけではない。
生涯一度も疑われず、天寿を全うしたのだ。「秘密の呪文」があったに違いない。
秘密の呪文・・・
大将軍「徐達」が死んだとき、湯和は兵権を返上したのだ。しかも、隠居まで申し出ている。洪武帝はたいそう喜んで、立派な住居を与え、厚く遇したという。
明朝が成立し、元軍の脅威がなくなれば将軍も大軍も不要、というか、脅威にしかならない。だから、洪武帝は諸将から兵権をとりあげたかったのだ。とはいえ、天下がとれたのは彼らのおかげ。なんか言い出しにくいな~
そんなおり、湯和が兵権を返上したのである。
これに優る家臣へのメッセージはないだろう。
竹馬の友の湯和でさえ、兵権を返上したのだぞ。おまえら、恥ずかしくないのか?
と言ったかどうか知るよしもないが、このタイミングで、この行動!
洪武帝の心を読み切っていたとしか思えない。
日本の戦国時代の蜂須賀小六(蜂須賀正勝)もしかり。
彼は、秀吉の家臣だったが、生前に隠退している。四国征伐では阿波一国を与えるから軍を率いよ、との沙汰があったが断っている。無欲で私心がないから、警戒する必要がないわけだ。
晩年、秀吉は蜂須賀小六が訪ねてくると、大そうご機嫌で、昔話に花を咲かせたという。彼もまた、上司の心をつかんでいたのだ。
「胡藍の獄」に話をもどそう。
じつは、有罪が確定したのに死をまぬがれた者がいた。「告発→有罪→死刑」は一連の流れなので、不可分。その法則をやぶったのだから、「秘密の呪文」どころではない。
「死者を蘇らせる呪文」
そんな悪魔の呪文を使ったのは「袁凱」、明朝の官吏である。
では、どうやって蘇生した?
狂人をよそおったのである。
とはいえ、洪武帝は人一倍疑り深いから、カンタンにはだませない。
事実、洪武帝は狂人なら痛みは感じないはずだと、ワケのわからないこと言って、袁凱の皮膚をキリで突かせた。袁凱は必死でこらえたが、ついに悲鳴をあげた。
ところが、それであきらめる袁凱ではなかった。
家に帰り、首に鎖をまき、犬のクソを食らったのである。それを盗み見た皇帝の偵察は「袁凱は狂人にまちがいありません」と報告した。こうして、袁凱は死をまぬがれたのである。
じつは、これにはカラクリがあった。
袁凱は、皇帝の偵察が来ることを予測していた。そこで、ソバ粉と水アメを混ぜて、ニセの犬のクソを作ったのである。はためにはまずそうだが、本当は甘くて美味しい犬のクソ・・・
頭がいいというか、芸が細かいというか、でも、それくらいやらないと、生き残れませんよね、袁凱さん!
■サラリーマンは宮仕え
昔々、機械メーカーでゲーム事業「GE・TEN」を立ち上げたことがあった。
業種が違うので、本業と分離して、独立採算制でやることになった。当然、経理業務も独立する。そこで、経理担当役員とよく打ち合わせをしたが、そのときの彼の口癖が、
「サラリーマンはしょせん宮仕え・・・」
この役員は気骨のある人物で、オーナーに歯に衣着せぬ物言いで知られていた。だから、意外だったのである。
オーナー企業にあっては、社長は絶対王者。どんな理不尽な要求、どんな恐ろしい罰が待っているかわからない。そんな弾丸が飛び交う世界を、生き抜くのは骨の折れる仕事だ(実際、骨を折った人をたくさん見てきた)。
戦国時代も現代も、どんな業界であろうが、組織は同じ。ヒエラルキー、カーストの本質はかわらない。違いがあるとすれば、失うものが、生物学的生命か、社会的生命か?
「粛清をのがれる方法」に話をもどそう。
引退する、狂人のふりをする、以外にも方法があるのだ。
しかも、死ぬまで、リッチで、愉しく、万人から尊敬されて・・・一体どこの誰?
呉越戦争の「范蠡(はんれい)」である。
范蠡は、「実績・能力」と「知名度」のギャップが中国史上最大。事実、これまでに「范蠡」を知っている人にお目にかかったことはない(諸葛孔明はみんな知っているのに)。
知っているとしたら歴史の先生か、歴史オタク?
まぁ、ニッチな話だ。
范蠡が生きたのは中国の春秋時代、呉と越が戦った「呉越戦争」である。この戦いも知名度は低いが、ここから生まれた故事は超有名だ。「呉越同舟(ごえつどうしゅう)」、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」、「屍(しかばね)にむち打つ」・・・知らない人はないだろう。
呉越戦争の主役は、呉王・夫差と越王・勾践だが、歴史を創ったのは范蠡である。
范蠡は巧みな外交と戦争で、越を勝利に導いた。おかげで越王・勾践は「春秋の覇者」になることができた。この頃、中国に統一王朝はなく、「春秋の覇者」が最高位。だから、この時代、一番の勝ち組である。
ところが、その直後、范蠡は越を去る。海をわたり、斉の国に移り住んだのである。
そこで、交易で数千万の富を築き、第二の人生を成功させた。ところが、何を思ったのか、全財産を村人に分け与え、斉を去る。
つぎに、范蠡が移り住んだのは陶の国だった。
ここで、范蠡は、商品取引で巨万の富を築く。このとき、范蠡は「陶朱公」と名乗ったので、「陶朱公」は大商人の代名詞となった。これが、中国の故事「陶朱の富」である。
頭の良い者が成功するとは限らない。しかし、本当に頭が良い者はただでは終わらない。それが范蠡だったのである。
じつは、この故事にはオチがある。
越には范蠡の同僚がいた。大臣の文種である(ふつうに頭の良い人)。范蠡は文種にこんな書状を送っている。
「越王は、苦はともにできるが、楽をともにすることはできない。あなたは、なぜ越王のもとを去らないのか」
文種は心当たりがあったので、病と称して家にひきこもった。ところが、まもなく、越王から死を賜った。
犬のフンを食えばよかったのに・・・哀しい話だ。
時代と場所は変わっても、適者生存のルールは変わらない。
状況を「事実」にもとづいて分析し、「現実的」な解決をする。「勝ち」に執着する必要はない。致命傷にならなければ負けてもいい。生きている限りチャンスは来るから。
そして・・・
「親分の心を読む」を忘れないこと。
参考文献:
「超巨人朱元璋・運命をも変えた万能の指導者」原作:呉晗、堺屋太一、志村嗣生、志村三喜子、講談社
by R.B