明の太祖・朱元璋(20)~中国統一~
■「南征北伐」始動
1367年10月、朱元璋軍は「南征北伐」を開始した。
「南征」とは・・・南方の元朝残党を討つこと。
「北伐」とは・・・北方の元朝主力を討つこと。
つまり、元朝を南北で同時攻撃するわけだ。
南方を攻めるのは「南征軍」、総大将は胡廷瑞(こていずい)である。一方の北方は「北伐軍」で、総大将は徐達(じょたつ)。
迎え撃つ敵兵力は「北方の主力>>南方の残党」。
というのも・・・
南方の残党は飛び地なので、各個撃破しやすい。一方、北方の主力は100万を超える大兵力を擁する。しかも、大都(元朝の都)を中心に広く展開し、地の利がある。どちらが優勢か言うまでもない。
そのため、北方組は最強のメンバーで編成された。兵力は精鋭25万、総大将は「呉」第一の将軍、徐達である(この頃、朱元璋の領国は「呉」とよばれていた)。
徐達は、体が大きく、勇猛果敢だが、慎重で思慮深い。しかも、朱元璋の「おともだち特典」も持っていた。子供の頃、いっしょに牛泥棒をした悪ガキ仲間なのだ。そんなこんなで、徐達は朱元璋から絶大な信頼をえていた。
ところが・・・
後に、朱元璋から贈られたガチョウを食べて死ぬ。後の大粛清事件の犠牲になったのである。
話を「南征北伐」にもどそう。
まずは南征。
胡廷瑞(こていずい)率いる南征軍は、江西省から福建省に侵攻した。この地は、漢人の陳友定が治めていた。
陳友定は貧民の出だったが、豪農の家に婿にはいり、人生が開けた。ところが、それで満足すればいいものを、調子に乗って商売に手を出した。結果、すべて失敗。馬の世話係に身を落としていた。
ところが、1352年、再び人生が開ける。紅巾軍(反乱軍)が福建省に侵攻したのである。
福建省は戦場と化した。馬の世話をしている場合ではない。
紅巾軍につくか、それとも、元朝か?
結局、陳友定は義軍に身を投じた。義軍は元朝側の民兵、つまり、元朝側についたのである。
陳友定は商才はなかったが、軍人の資質はあったようだ。義軍でメキメキ頭角を現したのである。やがて、福建省の8つの城を任され、土地の支配者にのしあがった。
しかし、今回は欲をかかなかった。元朝ベッタリで、大都にセッセと糧食を送ったのである。商売の失敗で学んだに違いない。
ところが、人生は複雑だ。何が幸いし何が災いするかわからない。
1368年1月、胡廷瑞の南征軍が、福建省に侵攻したのである。今度の敵は、これまでの紅巾軍とは違った。同じ農民軍だが、朱元璋に鍛えあげられた精鋭なのだ。もちろん、陳友定は敗北した。
しかし・・・
陳友定の本拠地「延平」が陥落し、福建省が平定されるまでに半年かかった。一方の北伐軍は、山東省を3ヶ月で平定している。単純計算で、陳友定は2倍も持ちこたえたわけだ。
陳友定のことは詳しくわからない。だが、商売はさておき、軍才は認めざるをえない。
一方、南征軍・総大将の胡廷瑞に問題があったのかもしれない。
胡廷瑞は、勇猛果敢がウリだが、「突破力」は城攻めでは有効ではない。ヘタに城に突撃を繰り返せば、大損害をこうむるから。
ところで、負けた陳友定だが、その後、呉の都・応天に送られ、殺された。
この時期、朱元璋にとって重要なことがあった。
1368年1月4日、自身の領国「呉」を「大明」に改名したのだ。世にいう「明朝」である。都は、これまでどおり応天(現在の南京)におかれた。
こうして、中国では、2つの王朝がたった。北の「元朝」と南の「明朝」である。
王朝を名乗った以上、体裁を整える必要がある。というのも、朱元璋も一族も生まれも育ちも貧農。このままではしめしがつかない。
そこで、朱元璋は「洪武帝」を名乗り、妃の馬を皇后とし、世継ぎの朱標を皇太子とした。さらに、文官トップの李善長は左丞相、武官トップの徐達は右丞相に任じられた。
ちなみに、中国史上、農民出身の皇帝は、漢の劉邦と明の朱元璋のみ。もっとも、日本も似たようなものだが(明治維新はのぞく)。
■朱元璋のドッペルゲンガー
話を南征にもどそう。
南征軍は、福建省を平定した後、広西・広東に転じた。
1368年7月には、広西・広東全域を平定。その後、中国南部は、四川と雲南を除いてすべて平定された。
そこで、朱元璋は北伐に集中することにした。四川と雲南は兵が弱く、応天から遠い。当面は脅威にならないと考えたのだ(事実そうなった)。
北伐には、2つの作戦があった。
1つは、常逢春の正攻法・・・大軍を動員し、一気に大都をつくのである。元朝は、宮廷大乱で弱体化しており、大軍をもってすればたやすいというわけだ。
もう1つは、朱元璋の慎重法・・・外堀を埋めた後で大都を攻める。いわば、徳川家康の大阪城攻め。
朱元璋は、生来、慎重だった。ムリをせず、石橋を叩いて渡るのである。石橋が崩れ落ちるまで叩くほどではないが。
朱元璋は、元朝は腐っても鯛(たい)と考えていた。元朝の祖は、かのチンギス・ハーンがおこした大モンゴル帝国なのだ。しかも、大都は、100年もの間、元の都城だった。防御が固く、兵力も巨大、たやすく落とせるとは思えない。
力づくで攻め込んでも、手間取れば、元朝の援軍が到着する。そうなれば、援軍と大都のはさみうち。進むことも退くこともできない。兵糧が尽きれば壊滅だ。
朱元璋は、長年積み重ねた成功を、不用意に失いたくなかったのだろう。
というわけで、北伐は、朱元璋の「外堀」作戦と決まった。
ただし、朱元璋の「外堀」は、徳川家康の「外堀」より奥が深い。スケールが桁違いなのだ。
徳川家康の「外堀」は、文字通り、大阪城を囲む「堀」。ところが、朱元璋の「外堀」は、大都を囲む広大な地域・・・東方の「山東省」、南方の「河南省」、西方の「陝西省・山西省」をさす。点と面ほどの違いがあるのだ。
朱元璋の作戦は壮大だった・・・
拠点を1つ1つ占領しながら、外堀を埋めていく。さらに、占領した前線基地と後方を太い補給線でむすぶ。局地戦で敗北しても、迅速な補充を行い、敗北の拡大を防ぐためだ。効率的で、合理的で、スキのない戦略である。
このように、朱元璋は功を焦らない、大きな成功より、大きな失敗を避ける傾向があった。
くわえて、適材適所にも気を配った。
あるとき、南征軍の総大将・常遭春が捕虜を虐殺したことがあった。すると、朱元璋は、徐達を派遣して、二度と虐殺が起こらないよう諸将を統括させた。一方、常遭春にも配慮し、副将軍に任じた。
さらに、この2人には詳細な指示を与えている。
大軍と遭遇したら、常遭春を先鋒として進撃せよ。その際、両翼に兵を分散し、常遭春を守れ。徐達は中央に陣取って、策を巡らし、軽々しく動いてはならない。
常遭春は勇猛で突破力があるので、野戦では威力を発揮する。一方、敗北したら全滅するおそれがある。それを、布陣と徐達の思慮深さでカバーしたのである。
徐達は、朱元璋のドッペルゲンガー的存在だった。考え方も行動も瓜二つなのだ。そのため、朱元璋から絶大な信頼を得ていた。事実、徐達は征虜大将軍二位任じられ、全軍を統率していた。
■大都入城
朱元璋の気配りは、民にもむけられた。
北伐にさいし、兵士に次のような訓令を発している。
1.むやみに人を殺さないこと
2.掠奪しないこと
3.破壊しないこと
4.女を陵辱しないこと
5.孤児を保護すること
住民、女性、子供、すべてに気を配っている。
これには理由があった。
「北伐」とは、元朝の支配地を征服すること。ところが、住民のほとんどが同族の漢族なのだ。それに、民の信頼をえずして、統治は成り立たない。
一方、占領地に住むのは貧しい農民だけではない。元朝の手先となり、地方を支配してきた漢族の地主や知識人もいる。彼らは、朱元璋を警戒していた。紅巾軍(反乱軍)は地主や知識人の天敵、朱元璋はその頭目なのだから。とはいえ、彼らの力を借りなければ、地方の秩序と治安は保てない。
そこで、朱元璋は万人受けする大義名分をかかげた。
1.漢族の中華(中国)をとりもどす(モンゴル族を駆逐する)
2.儒教を復活させる(封建主義的な秩序・文化・思想)
この訓令と大義名分で、農民も地主も安堵した。
このような細心の準備のもと、「南征北伐」が開始されたのである。
この時点の状況を、地図で確認しよう。ピンクは元朝、黄色は明朝である(中国南部の元朝勢力は飛び地なので省略)。
徐達率いる北伐軍は、外堀を1つ1つ埋めながら、面を拡大していった。
1368年1月に山東省を平定し、河南省に転じ、全域を平定した。
これに仰天したのが、西安の李思斉と張良弼だ。山東省、河南省が制圧されたら、次は・・・陝西省(西安)。
恐れをなした李思斉と張良弼は、一戦もせず身を隠した。
こうして、大都の外堀は、東(山東省)と南(河南省)が埋められた。残るは西のみ。
ところが・・・
それでも、元朝は内紛をやめなかった。この頃の元朝内紛は、
「順帝Vs.大将軍グユクティムール」
に集約されていた。
順帝は大都、グユクティムールは山西省の太原に拠点を構え、熾烈な戦いを続けていた。
1368年7月、北伐軍は北上を開始した。一路、大都をめざしたのである。
ところが、元朝は内紛に忙しく、北伐軍にかまっているヒマ(?)はない。そのため、北伐軍は無人の野をゆくがごとく、進軍した。
反乱軍、大都に迫る!
帝都は騒然となった。
ここにいたり、ようやく順帝はグユクティムールと和解した。ところが、時すでに遅し。
なんと愚かな・・・なのだが、歴史とはそういうもの。当事者しかわからないことがあるのだ。このときもそうだったのだろう(たぶん)。
1368年7月28日、夜陰にまぎれて、順帝は大都を脱出した。奇皇后、皇太子アユルシリダラを連れて。
5日後の8月2日、北伐軍は大都に入城した。
こうして、元朝は滅んだ・・・
のではない。それから20年もしぶとく存続したのである(正確には300年)。
中国を追い出されて、一体どうやって?
■元朝から「北元」へ
1368年7月、元朝は大都を放棄した。中国から脱出したのである。
ところが、彼らには逃げ場所があった。モンゴル族発祥の地・モンゴル高原である(地図参照)。
順帝は、上都を都とし、王朝を復活させた。しかも、元軍の主力は依然、強大だった。
つまり、元朝は明朝に敗れたが、北方で王朝を維持したのである。そこで、これ以降の「元朝」を「北元」とよんでいる。
1368年8月、徐達と常遭春は、元朝(北元)を壊滅させるべく、山西省に侵攻した。しかし、山西省のグユクティムール軍は強かった。
明朝の西伐軍は大敗することもあったが、1年かけて山西省を制圧した。ところが、グユクティムール軍は壊滅したわけではない。内モンゴルの寧夏(ねいか)に拠点を移し、勢力を維持したのである(地図参照)。
1369年3月、西伐軍は陝西省の西安に入った。このとき、元側の有力な将軍、李思斉が投降している。戦意を喪失したのである。
その後、常遭春と李文忠は、9万を率いて、元の上都に侵攻した。
帝都を突かれた順帝は、北の砂漠に逃れるしかなかった。このとき、常遭春が急死し、李文忠が軍を引き継いでいる。
その後も、西征は続た。
1370年、順帝は死去し、皇太子のアイユシユリダラが後を継いだ。徐達の西伐軍はさらに西進をつづけ、陝西省を平定した。ここに、大都(北京)も、その外堀も完全に埋められたのである。
この頃、元朝最後の大将軍グユクティムールは寧夏を拠点にし、大軍を送り出していた。
戦況は一進一退・・・
1372年、徐達率いる西伐軍は、グユクティムール軍に大敗した。不敗の徐達が破れたのである。このとき明兵40万が戦死したという。驚愕した朱元璋は懐柔策を用いることにした。
グユクティムールに使者を送り、投降をすすめたのである。提示された条件は驚くべきものだった。グユクティムールの妹を、朱元璋の次男の秦王の妃にするというのである。それでも、グユクティムールは投降しなかった。
そこで、朱元璋は最終手段をとった。
切り札の李思斉を派遣したのである。李思斉は、グユクティムールの義父チャハンティムールの友人で、自身の戦友でもあった。その後、グユクティムールと李思斉は仲たがいしていたが、旧友であることにかわりはない。
李思斉が来ると、グユクティムールは礼をもって迎えた。腹の底では「この裏切り者」なのだが、顔には出さない。丁重に投降を断り、李思斉を送り返したのである。
ただし、神対応というわけではなかった。
李思斉が帰るとき、グユクティムールは騎士をつけて国境まで送らせた。
別れるとき、騎士は言った。
「大将軍(グユクティムール)の命令をうけております。何か記念になるものをいただきとうございます」
李思斉は答えた。
「わたしは遠来の使者で、お贈りするものなど持ち合わせていない」
騎士はこう切り返した。
「あなたさまの腕が1本欲しゅうございます」
李思斉は腹をくくり、片腕を切り落とし、騎士に与えた。李思斉は、帰国してまもなく死んだ。そのときの後遺症が原因で。
■元の最期
朱元璋の悩みは、グユクティムールだけではなかった。
順帝の後を継いだアイユシユリダラの消息がわからないのである。
ところが、1375年、朱元璋のもとに朗報が届いた。グユクティムールが死んだという。さらに、1378年には、アイユシユリダラも死んだ。
とはいえ、それで北元が絶えたわけではない。アイユシユリダラの弟、トグス・テムルが帝位を継承したのである。
トグス・テムルも覇気のあるハーンだった。明朝との国境に、つねに大軍を送り込んだのである。彼もまた、チンギス・ハーンの「蒼き狼」のDNAを継承していたわけだ。
10年後の1388年、トグス・テムルはあっけなく死んだ。明軍に大敗し、カラコルムに逃れる途中、同族によって殺されたのである。ここに、元朝の始祖クビライの皇統は断絶した。
しかし・・・
北元という「容れ物」はその後も存続した。別の系統のハーンがたったのである。北元が、完全に滅ぶのは17世紀後半、300年後のことである。
つまりこういこと。
教科書や5分でわかる歴史で紹介される「紅巾の乱がおこっても、元朝は内紛に明け暮れ、あっという間に滅びましたとさ・・・」は大誤解なのだ。
明朝が成立した後も、300年も続いたのだから。しかも、元朝(北元)にとどめをさしたのは、明朝ではない。明朝を滅ぼした清朝なのだ。その清朝だが、異民族(女真族)の王朝。
歴史とは皮肉なものである。
参考文献:
(※)「超巨人朱元璋・運命をも変えた万能の指導者」原作:呉晗、堺屋太一、志村嗣生、志村三喜子、講談社
by R.B