明の太祖・朱元璋(8)~5人の元帥~
■5人の元帥
1352年の春、朱元璋は濠州の紅巾軍にいた。
紅巾軍には「東系」と「西系」があり、濠州にいたのは「東系」紅巾軍である。
ただし、本隊ではなく、末端組織。食いっぱぐれた農民、密売人、山賊、海賊の寄り合い所帯で、軍とよべるかどうかも怪しい。ところが、体裁だけは一人前だった。「元帥」閣下が5人もいたのだから。
もちろん、「元帥」といっても、しょせんは反乱軍。オーソライズされているわけではない。つまり、「自称」元帥。
この5人の元帥の一人が郭子興(かくしこう)だった。朱元璋はこの郭子興に仕えていたが、わずか1年で親衛隊の九夫長(9人の兵卒の長)に出世していた。このとき、朱元璋、まだ25歳。極貧の生まれで天涯孤独のハンディを考慮すれば、大出世といっていいだろう。
もっとも、その30年後には、明朝の皇帝(創始者)までのぼりつめるのだから、秀吉と並ぶ歴史上の一番出世!?
さて、くだんの元帥「5人組」だが・・・ひどく仲が悪かった。
朱元璋が仕える郭子興と、残り4人が鋭く対立していたのである。そして、このドタバタが、朱元璋をひどく悩ませることになる。
原因は5人の素性にあった。
まず、郭子興だが生まれ育ちが良かった(他の4人にくらべて)。父親はしがない占い師だったが、地主の娘と結婚して成り上がった。一方、息子の郭子興は、商売で成功して自力で豪族にのしあがったので、かなりの出来物と言っていいだろう。
一方、残りの4人の元帥は、すべて農民出身だった。
野良仕事におわれ、勉強しているヒマはなく、学も信念もない。あるのは、地主や官吏に虐げられた記憶だけ。そのため、支配階級や知識階級をひどく憎んでいた。このギャップが「郭子興Vs.4人の元帥」の対立を生んだのである。
それは、政策の違いにもあらわれた。
4人の農民元帥は、兵糧の分担は地主に多くするべきだと主張した。もちろん、ひがみ、ねたみ、そねみなのだが、地主の方が食糧をたくさん持っているから、というとってつけたような理由も忘れなかった。
一方、郭子興はこれに反対した。
地主に多く分担させると、逃亡する恐れがある。もし、広大な土地を所有する地主がゾロゾロ逃亡したら、兵糧は激減する。それに、貧農は一人あたりの量は少ないが、人数を掛けると膨大な量になる。だから、地主だけ負担を重くする必要はないと。
つまり・・・
「郭子興Vs.4人の元帥」は出自とインテリジェンスに起因している。
ちなみに、4人組の親玉は孫徳崖(そんとくがい)という偏屈な男だった。彼は4人組を束ね、郭子興をやりこめるのだった。多勢に無勢、郭子興はいつも言い負かされ、不満をつのらせていた。
郭子興の不満はこうである。
孫徳崖ら4人組は、粗野で、言うことなすこと、筋が通っていない(アタマが悪い)。ところが、多数決では1対4で勝ち目ナシ・・・ムカつく。そんなわけで、郭子興と4人組の溝は深まるばかりだった。
この頃、濠州は、元朝の大軍に包囲されていた。ところが、緊迫感まったくナシ。紅巾軍は内輪もめで忙しく、元軍は命を危険にさらしてまで戦うつもりはなかった。
まさに後ろ向きのウィンウィンだが、これに危機感を覚えたのが郭子興である。
このままではジリ貧。いずれ、元朝か他の反乱勢力に呑み込まれる。そこで、郭子興は朱元璋に打開策を相談した。
朱元璋の答えは明快だった。
「5人(元帥)がバラバラだから、物事が進まないのです。4人の元帥とよく話し合って力を合わせれば、必ず、道は開けます」
そこで、郭子興は4人と話し合いの場をもったが、すぐに決裂した。朱元璋は、頭に血がのぼった郭子興をなだめすかし、裏にまわって孫徳崖にわびを入れた。まるで、子供のケンカの仲裁である。
この頃の朱元璋は、事を荒立てない、穏便にすます、落としどころをさがす、に徹していた。「朱元璋+郭子興」の玉座はダモクレスの剣・・・それを承知していたのである。
もっとも、朱元璋は生涯を通じて、何ごとにも慎重だった。準備万端、万全を期して事に望む、決して冒険はしないのである。一見、派手に見えるが本当は慎重な織田信長と酷似している。
ということで・・・
慎重、準備万端、ムリをしない・・・は成功の方程式かもしれませんね。
■徐州陥落
1352年9月、元軍の大攻勢がはじまった。元朝が、一転、反乱軍の鎮圧に本腰を入れたのである。
元朝の丞相、脱脱(とくとく)は自ら大軍を率いて徐州を包囲した。
脱脱は、元朝では皇帝につぐ権力者。明確なビジョンをもち、戦略が描ける数少ない人材だった。後に宮廷内で起こる信じられない(馬鹿げた)ドタバタで失脚しなければ、紅巾軍は早々に壊滅していただろう。
その場合・・・歴史は大きく変わる。
朱元璋の出る幕はなく、明朝も歴史年表から消える。結果、不安定な元朝支配がダラダラ続く。つまり、脱脱はこの時代のキーマンだったのである。
この頃の中国の勢力図をみてみよう。
まず、元軍が包囲した徐州だが、芝麻李、彭大、趙均用が率いる東系紅巾軍が支配していた。その西方の亳州には、東系紅巾軍の大頭目・小明王がいた。さらに、南方の濠州は郭子興ら5人組。
ところで、徐州の攻防戦はどうなったのか?
元軍の圧勝。
じつは、このときの元軍は、モンゴル兵からなる主力軍ではなかった。漢人で編成された外様軍である。ではなぜ、これまで負け続けた元軍(外様軍)が勝利できたのか?
脱脱が総大将だったこと、兵数が十万と大軍だったこと、大量の投石機を並べて石弾をぶちかましたこと。
そんなわけで、徐州はすぐに陥落した。芝麻李はあえなく戦死、彭大と趙均用は命からがら濠州に逃げのびた。
亳州ではなく、濠州?
上のマップを見ると、東系紅巾軍の本隊(小明王)がいる亳州(はくしゅう)の方が近い。
ではなぜ、わざわざ、遠くて、末端部隊しかいない濠州に逃げたのか?
たぶん・・・彭大と趙均用は、亳州より濠州の方が御しやすいと考えたのだろう。
というのも、亳州は東系紅巾軍の本拠地で、大頭目の小明王が君臨している。もし、亳州に行けば、小明王の臣下になるのはみえている。小明王は、本名「韓林児」で、紅巾の乱の元祖、韓山童の御曹司なのだ。
一方、濠州にいるのは、東系紅巾軍のとるにたらない末端部隊。しかも、彭大と趙均用が率いる軍は敗残兵とはいえ、兵数で濠州軍にまさる。だから、カンタンに支配できると考えたのだろう。
■濠州包囲される
事実・・・彭大と趙均用は、濠州に入るとすぐに、5人の元帥を子分にしてしまった。
結果、濠州の紅巾軍の人間関係はさらにややこしくなった。
彭大は、理詰めで、知略があり、勇敢で肝っ玉が太かった。そのため、郭子興とウマが合った。一方、孫徳崖ら4人組は趙均用と手を組んだ。趙均用は、元秘密結社の頭領で、見るからに怪しい・・・類は友を呼ぶのである。
というわけで、
「彭大(郭子興・朱元璋)Vs.趙均用(孫徳崖ら4元帥)」
と、対立の厚みはさらに増した。結果、とんでもない事件が起きる。
まず、孫徳崖が趙均用に郭子興の悪口を吹き込んだ。
「郭子興は彭大将軍ベッタリで、趙均用将軍をコケにしています」
子供じみた中傷だが、効果てきめんだった。真に受けた趙均用は、郭子興を拉致して監禁したのである。ところが、あてが外れたのが孫徳崖だった。彼は、趙均用が郭子興を殺してくれると思っていたのだ。
一方、騒動を聞いた朱元璋は仰天した。郭子興が失脚すれば、女婿の自分は何をされるかわからない。そこで、大親分の彭大の助けを借りて、間一髪、郭子興を救出した。
こんな状況では、元軍と戦っているヒマはない。この先、どうなることやら、朱元璋は頭を抱えたが・・・すべて杞憂に終わった。
元の丞相・脱脱(とくとく)が、濠洲に逃げ込んだ彭大と趙均用の追撃を命じたのである。徐州を攻略した元の大軍が濠州に殺到、濠洲側は内輪もめどころではなくなった。
ところが、元軍は7ヶ月間包囲したが、濠州は落ちなかった。
徐州はカンタンに落ちたのに、なぜ濠洲は落ちなかったのか?
濠州城は城壁が高く、兵糧も十分で、守備兵も多かったから。くわえて、総大将が脱脱でなかったことが大きい。
事実、元軍の総大将が死ぬと、元軍はさっさと撤退した。
濠州城の民衆と兵士は大喜びだった。元の大軍をみごと撃退したのだから。
ところが、度を越して喜んだ者がいた。彭大と趙均用である。あろうことか、彭大は魯淮王、趙均用は永義王を名乗ったのである。
狭い濠州城で二人の王・・・やっぱり、紅巾軍は「自称」の世界、言うたもん勝ちですね。
ちなみに、5人の元帥の地位は、そのまま据え置かれた。不満が鬱積したのは言うまでもない。
こうして、濠州では、再び内輪もめが始まった。朱元璋の苦悩、推して知るべし・・・
参考文献:
「超巨人朱元璋・運命をも変えた万能の指導者」原作:呉晗、堺屋太一、志村嗣生、志村三喜子、講談社
by R.B