織田信長(1)~信長公記~
■戦国時代
日本の歴史の中で、最も華やかなのは戦国時代。応仁の乱の混沌の中から、キラ星のごとく英雄が現れ、戦国の大乱をへて、国家が統一されていく。戦略、戦術、陰謀、裏切り、大戦、すべてが極東の島国とは思えないほど壮大だ。インドの大叙事詩マハーバーラタのように長大で、ホメーロスの叙事詩のように面白い。叙事詩のさまつな定義をさておけば、戦国大乱は、日本が生んだ最高の叙事詩かもしれない。
戦国時代、日本の半分を支配した織田信長は、常時10万の大軍を動員できた。16世紀、世界を見渡してのこのような大兵力を常備していた国はほとんどない。戦さがあろうがなかろうが、常に兵を雇っておくのが常備軍である。当然、雇用する側の負担は大きい。その証拠に、現代の日本でさえ、3人に1人が非正規雇用。
さらに、戦国時代では、1000丁を超える鉄砲が戦場で使われた。これほどのハイテク物量戦は世界でも類を見ない。日本が世界史に登場するのは、近代に入ってから。だから、日本史なんてつまらないローカル史、と卑下するのは正しくない。戦国時代は、スケールと内容において間違いなく、世界史に匹敵する。
■応仁の乱
そのような壮大な戦国時代だが、事の始まりは、どこでもあるようなもめ事だった。山城守護の畠山家の家督争い、つまり、内輪もめ。1467年、畠山政長は、畠山義就との家督争いにやぶれ、京都で陣をはった。最終手段に打って出たわけだが、問題はこの二人の後ろ盾。畠山政長には細川勝元が、畠山義就は山名宗全がついたのだが、この2人は幕府を二分する大物だった。結果、ローカルなお家騒動が、天下を二分する大乱にまで発展する。これが有名な「応仁の乱」である。
愚にもつかないことで歴史が大きく動く・・・よくできた話だが、応仁の乱は畠山家の相続争いがなくても起こっただろう。この頃、幕府内部には私欲がからんだ複雑な力学が働いていた。時の権力者、室町幕府8代将軍足利義政は、政治ともめごとが大嫌いだった。彼は強大な王権を趣味にしか使わない人間だった。その結果が、銀閣寺に代表される東山文化である。
足利義政は若い頃から隠居願望が強く、子がないことを理由に、弟を養子にしていた。頃合いを見計らって、弟に将軍職を譲り、余生を楽しむつもりだった。この弟が義視(よしみ)で、その背後で操っていたのが細川勝元である。ライバルの山名宗全が面白いはずがない。
ところが、事態は一変する。足利義政の妻、富子が男子を産んだのである。じつは、この富子が難題であった。富子は夫の義政と違い、政治と権力に執着する、気性の激しい女だった。富子は、自分が腹を痛めた子を将軍にすえようと画策し、山名宗全に助けをもとめた。宗全にしてみれば渡りに船で、これで細川勝元に対抗できる。宗全は喜んで、富子の子、義尚(よしまさ)の後見人になった。
こうして、次期将軍の候補2人に、幕府の二大勢力が張りついたのである。争乱は火を見るより明らかだった。その最中に起こったのが、畠山家の相続争いである。完全武装の軍団が、数メートル離れて向き合ったところで、誰かが発砲するようなものだ。誰が撃ったかは(直接原因)、重要ではない。すぐに、京の都を戦場とする大乱がはじまった。
■歴史はカオス
このてんまつは、歴史がカオスであることを証明している。カオスとは「混沌(こんとん)」を意味し、「カオス理論」なる理論体系まで存在する。決して、あやしいものではないが、従来の古典的理論とは何かが違う。うまく言えないが、とにかくあやしい。まぁ、それはさておき、その特徴というのが、
「最初のささいな違いが、結果として大きな違いを生む」
たしかに、
「家督争い→応仁の乱→戦国時代」
カオスそのもの。
応仁の乱の大混乱で、京の都は焼け野原になり、朝廷も幕府も権威を失った。もちろん、将軍足利義政にしてみれば、どこ吹く風。わが子義尚に家督を譲り、さっさと京都の東山に隠居した。趣味の世界に引きこもったのである。一方、京の文化人は、混乱を避け、地方に散っていた。地方の守護大名はこの都人(みやこびと)を積極的に受け入れ、軍事、経済、文化を大いに発展させた。のちに、守護大名は半独立勢力の戦国大名になり、日本史上希にみる群雄割拠を生む。これが戦国時代である。
■織田信長
戦国時代最大の巨人が織田信長である。織田信長は、「奉行のせがれ」というパッとしない素性からスタートし、阿修羅のごとく戦い、領地を切り取り、日本の半分を征服した。偉大な心理学者、武田信玄。戦場では無敗の軍神、上杉謙信。織田信長を継いで日本を統一した豊臣秀吉。徳川300年の礎を築いた徳川家康。これらの英傑がかすんで見えるほど、織田信長の存在は大きい。信長は、革新性や非情さで知られるが、性格は複雑怪奇、常人の理解を超えている。「二重人格」レベルの話ではない。
織田信長の残虐さを示す第一のエピソード。1574年元旦、信長の本拠地、岐阜城に、京都や隣国の諸将が年賀の挨拶に参上した。この頃、信長の支配地は尾張、近江、越前、畿内に限られたが、すでに日本国王のように振る舞っていた。祝宴が終わり、来客者が退出したあと、信長の直属の馬廻り衆だけで、内輪の祝宴がはじまった。そのとき、「珍奇なお肴(さかな)」が披露された。その肴というのが、浅井父子と朝倉義景の首であった。それもただの首ではない。頭蓋骨を漆(うるし)で塗り固め、金粉までふりかけた、背筋が凍るほど珍品。
信長は、妹のお市を浅井家に嫁がせた後、浅井父子に裏切られ、朝倉家には、何度も辛酸をなめさせられた。首の主たちは、その恨みをかったのである。それにしても、民百姓に首をさらしものにする方がまだ慈悲深い。わざわざ、漆と金粉で美しく飾って笑いものにするというのが怖いのだ。
このエピソードは、太田牛一が記した「信長公記」にも記されている。信長公記は信長の書では、最も信憑性が高いといわれている。作者の太田牛一は、織田信長に仕えた人物だが、この事件をこうコメントしている。
「以上3つの首を、酒の肴として出されて、またご酒宴となったのである。まことにめでたく、世の中は、思いのままであり、信長公はいたくお喜びであった」
とすれば、当時としては想定内の残虐行為だったのかもしれない。なんといっても、時は戦国時代。
■叡山燃ゆ
つぎに、織田信長の残虐さを示す第二のエピソード。有名な比叡山延暦寺の焼き討ちである。血で血を洗う戦国時代の中にあっても、ひときわ血なまぐさい。延暦寺は僧兵をかかえた政治勢力で、浅井・朝倉にくみしていた。それが信長の恨みをかったのである。信長公記はそのときの様子を詳細に伝えている。一読しただけで、胸が悪くなるほどの残虐さ。以下、信長公記の要約。
9月12日、信長公は叡山におしよせ、根本中堂をはじめすべての建物を焼き払われた。老若男女みな、あわてふためき逃げまどった。それを4万の兵が、ときの声をあげながら攻めたてる。僧、童、学僧、上人、すべて捕えてきては首をはね、信長公にお目にかけるのである。これは、叡山でも知られた高僧などと、いちいち報告するのであった。このほかにも、美女、童も数え切れぬほど捕らえて、信長公の前に連れてこられる。
「悪僧は首をはねられてもいたしかたありません。わたしはお許しください」
と口々に嘆願するのも、許さず、ひとりひとり首を打ち落とされた。目もあてられないありさまだった。数千の死体があたりかまわずころがり、まことに哀れななりゆきであった。
まさにこの世の地獄、想像するのも恐ろしい。一方、気になる一節もある。
「美女、童も数え切れぬほど捕らえて、信長公の前に連れて・・・」
比叡山延暦寺は、天台宗の総本山で、源流は奈良時代末期の名僧、最澄までさかのぼる。いわば、歴史的な聖域である。その聖域で、高僧と童と美女が寝食を共にして修業?
織田信長は、この手の矛盾、堕落を極端に嫌うところがあった。それゆえ、延暦寺の時空を丸ごと地上から抹殺しようとしたのかもしれない。この事件の後、信長は自らを「第六天魔王」と呼ぶようになる。第六天とは、仏教の世界観の中の六欲天の一つで、別名「天魔」。
■ドラキュラ伝説
このような悪名を着せられた人物は世界史でも登場する。人間串刺し王「ヴラド・ツェペシュ」だ。ヴラド・ツェペシュは、ワラキア公国の王で、のちにドラキュラ伯爵のモデルとなった。ツェペシュは、歴史上最も残虐な王として知られ、何百何千という人間を大地に串刺しにした。さらに、その光景を眺めながら、食事を楽しんだという。その並外れた残虐さゆえに、ドラキュラ伝説のモデルとなったが、織田信長同様、誤解も多い。
この時代、世界最強の国はオスマントルコ帝国だった。1453年には、東ローマ帝国の帝都コンスタンティノープルを陥落させている。このような大国に敢然と立ち向かったのが、ワラキア公国の王ヴラド・ツェペシュだった。ワラキア公国(ルーマニア)は、カトリック、ギリシャ正教、イスラム教が入り乱れ、戦争と殺戮が絶えなかった。いわば、ルーマニアの戦国時代である。ワラキア王ツェペシュは、残虐な方法で、自分に逆らう者、犯罪者、捕虜、ジプシーを殺害したが、一方で、国内の治安は回復した。収拾不能の大混乱には、恐怖政治しかないのかもしれない。
キリスト教徒のツェペシュは、イスラム教オスマン帝国に果敢に挑み、何度か勝利した。しかし、最後に敗れ、首を打たれる。その後、ツェペシュの首はオスマン帝国のスルタンに送られたが、残された胴体は修道士によって埋葬されたという。ツェペシュは残虐な刑を科す一方で、国内に多くの修道院を建設した。ツェペシュは、異教徒の侵略を防ぎ、国を守った英雄で、民衆もそれを知っていたのである。ツェペシュと信長は、収拾不可能な大混乱をおさめるため、合理的に「残虐」を選択したのかもしれない。
■山中の猿
このように突出した残虐さを示す一方、織田信長は信じられないような慈悲を示した。それが、信長公記のエピソード「山中の猿」である。以下、信長公記の要約。
美濃の国と近江の国の境に、山中というところがあった。その道のかたわらで、不具者が雨にうたれて、こじきをしていた。信長公はこれを京への上り下りのたびに、ご覧になり、あまりにかわいそうに思われた。あるとき、
「だいたいこじきというものは、その住所が定まらず流れて行くものなのに、この者だけはいつも変わらずこの地にいる。どのような事情があるのか」
とご不審のあまり、土地の者に尋ねられた。土地の者は、
「この山中でその昔、常磐御前(源義経の母)を殺した者がおります。その因果によって、子孫に代々不具者が出て、あのようにこじきをしているのです」
とお答え申し上げた。
6月26日、信長公は急に京にお上りになった。諸用に紛れてご多忙であったにもかかわらず、あの山中の猿のことを思い出された。そして、木綿20反を自ら取りだし、お持ちになって、山中の宿に行き、
「この町の者は、男女すべてがここに集まるように。言いたいことがある」
とおふれを出された。人々は、どのようなことをおっしゃられるのかと、緊張しながら御前に出た。すると、信長公は、木綿20反をこじきの猿に与えられ、
「この反物半分でもって、だれかの家の隣に小屋をつくってやり、餓死しないように情けをかけてやってほしい。この近くの者はこのこじきのために、麦の収穫のときには、それを一度、秋には米を一度、一年に二度ずつ、毎年安心できるように少しずつ、このこじきに与えてくれれば、自分は嬉しい」
とおっしゃられた。もったいなさのあまり、こじきの猿はいうまでもなく、この山中の町中の者で、ありがたさに涙を流さぬ者はいなかった。お供の者も、もらい泣きしたのである。
先の「珍奇なお肴」、「比叡山焼き討ち」と同じ人物のエピソードとは思えない。欲得ずくではない弱者に対する慈悲が見てとれる。しかも信長の指示は、具体的でこまやかだ。高見に立って、良きにはからえのたぐいではない。本気で救おうとしているのだ。慈悲と冷酷さは相容れないが、慈悲と残虐さは共存できるのかもしれない。人間の心理は深い謎である。
参考文献:
太田牛一著榊山潤訳「信長公記」富士出版
by R.B