絶歌とマグロの解体ショーとおもてなし
■お・も・て・な・し
日本人はいつから、こんな鈍感で無神経になったのだろう。
日本人の十八番は「おもてなし」だったはずなのに。2020年東京オリンピックの誘致で、日本の「お・も・て・な・し」が脚光をあびた。誘致大使の滝川クリステルが、IOCの総会で、こんなプレゼンテーションをしたのだ。「おもてなし」は見返りを求めないホスピタリティの精神、それは、先祖代々受け継がれながら、現代の日本の文化にも深く根付いている・・・いい話ではないか。「おもてなし=表が無い」なら「裏がある」みたいな、ひねくれた考えはよそう。素直に受けいれようではないか、美人の滝川クリステルが言ったからではなく。
そもそも、滝川クリステルの文言はただのセールストークではない。江戸時代末期に日本に訪れた欧米人が、同じことを言っているのだ。たとえば・・・1863年に来日したスイスの遣日使節団長アンベールは、横浜を見聞して、こう記している。「みんな善良な人たちで、私に出会うと親愛の情をこめたあいさつをし、子供たちは真珠色の貝を持ってきてくれ、女たちは、籠の中に山のように入れてある海の不気味な小さい怪物を、どう料理したらよいかを説明するのに一生懸命になる。根が親切と真心は、日本の社会の下層階級全体の特徴である」(※)
さらに、「農村を歩き回っていると、人々は農家に招き入れて、庭の一番美しい花を切り取ってもたせてくれ、しかも、絶対に代金を受けとろうとしない。善意に対する代価を受けとらぬのは、当時の庶民の倫理らしい」(※)
見返りを求めないホスピタリティ精神、まさに、滝川クリステルが言う「おもてなし」ではないか。ただし・・・それが先祖代々受け継がれ、日本文化に根付いているかというと・・・ちょっとあやしい。というのも、最近、そんな美談を台無しにするような事件が起こったのだ。それも、2件つづけて。
■絶歌
まずは、「絶歌」出版事件。
「絶歌」は、「神戸連続児童殺傷事件」の実行犯、自称「酒鬼薔薇聖斗」が自ら著した手記である。2015年6月11日、太田出版からこの書が刊行されると、すぐに、被害者の遺族から抗議の声があがった。著者がすでに32歳に達しているのに、著者名が「元少年A」であること、もう一つはその内容である。ただし、内容はコメントできない。まだ読んでいないし、これからも読むつもりはないから。
そもそも、この出版事件の本質は手記の内容にあるのではない。では、事件の本質とは?
まずは、「神戸連続児童殺傷事件」の特異性(昨今の事件と比べると特異とは言えないが)。この事件は、1997年、神戸市須磨区で発生した。当時14歳だった中学生が2名を殺害し、3名に重軽傷を負わせたのである。特異なのは、被害者の頭部を切断し、犯行声明文とともに中学校の正門前に置いたこと。自ら「酒鬼薔薇聖斗」と名乗り、猟奇殺人事件を彷彿させたこと。そして、犯人が中学生だったことである。
酒鬼薔薇聖斗は、当時14歳であったため「少年法」が適用され、少年院に送られ、極刑を免れた。さらに、自らの犯罪をもとに「絶歌」を著し、多額の印税を得ようとしている。そのため、被害者家族の反感を買ったのである。遺族の心痛は察するに余りあるが、元々、日本は犯罪に甘い国なのである。というか、甘い、辛い以前に、筋が通っていない。
とはいえ、日本がずーっと犯罪に甘い国だったわけではない。辛い時代もあったのだ。それも、大昔の話ではない。じつは、母の叔母が、金沢で「公開死刑」を目撃している・・・母の叔母の時代に、日本で公開死刑?叔母が母に語った話によると、子供の頃、親といっしょに死刑を見物したというのだ。処刑場は見物人でごった返し、食べ物を持参する者もいたという。屋台も出ていたのでは、と疑いたくなるほどの盛り上がりようだ。早い話が、死刑が見世物だったのである。
「一の槍突け!二の槍突け!」の号令で、竹槍で、磔にされた罪人の脇腹を突き刺す。それを子供連れの家族が見物する。犯罪に辛い、どころの話ではない。ちなみに、この時、処刑されたのは加賀藩の豪商「銭屋五兵衛」の一族と使用人(本人は処刑されていない)。罪状は、銭屋五兵衛が干拓事業を行っていた「河北潟」に毒を流し込んだこと。ところが、すべて状況証拠で、動機もあいまいなので、現在は、冤罪(えんざい)説が有力だ。つまり、銭屋五兵衛の河北潟事件の真相は今も謎なのである。
話を現代の日本もどそう。日本は犯罪に甘いが、それにくわえ、重い罪ほど刑罰が軽い。たとえば・・・コンビニで、少年Aが、150円のジュースを万引きして捕まったとする。そのとき、店主は済んだ事だからオマケして「100円」返せばいい、なんて言うだろうか?150円盗んだら、150円返すのがあたりまえ。ところが、日本は重罪になるほど、刑罰が軽くなる。とくに、殺人の刑罰は軽く、場合によっては、詐欺罪より軽い。そもそも、一人殺したくらいでは、死刑にはならないのだ。しかも、法務大臣のハンコがないと死刑を執行することもできない。裁判所が死刑を確定したのに、一大臣の思惑で死刑が執行できない?
弁護士・検事・裁判官より、ロクに法律もわからない腰掛け法務大臣の判断が優先されるわけだ。こんな分かりやすい矛盾に、どうして気づかないのだろう。それなら、病気の診断も厚生労働大臣にやってもらったらどうだ。患者はいい迷惑だけど。というわけで、司法は、時代とともに「退化」しているのかもしれない。もっとも、犯罪者にとっては「進化」だろうが。4000年前のバビロニアのハンムラビ法典で、「目には目を、歯には歯を」で「同害報復」が明文化された。
その合理性は、先のコンビニの万引きの例を出すまでもない。子供でもわかる話だ。話を「神戸連続児童殺傷事件」にもどそう。被害者の家族は、極刑を望んでいるだろうが、日本の司法では叶わない。そこへ、「絶歌」を出版して金儲けなのだから、被害者家族の心中は推して知るべし。できることといえば、出版の自粛を求めることぐらい。
ところが、太田出版は、「批判やおしかりは承知の上であり、元少年の心の中や犯行の経緯・元少年の現状を世の中に伝えるためにあえて出版に踏み切った」とコメントしている。もし、本当に「世の中に伝えるため」なら、ネットで無料公開する方がよいのでは?わざわざ紙媒体にして、おカネをとるより、はるかに多くの人が読むだろうから。もちろん、これは皮肉、「目的は金儲け」は明々白々なので。事実、太田出版は今後も出版を継続し、増刷する予定だという。あれだけ世間を騒がした大事件の実行犯が、自ら執筆すれば、ベストセラーは間違いなし。大金が転がり込むことも間違いなし。もちろん、出版は慈善事業ではなく、営利が目的。売れる本を出して何が悪い。それに、「言論の自由」という伝家の宝刀もあるし・・・
では、「言論の自由」にうるさいアメリカはどうなのだろう?アメリカ・ニューヨーク州には、「サムの息子法」と呼ばれる法律がある。犯罪者が、自分の犯罪をネタに出版、販売して利益を得ることを禁じているのだ。「言論の自由」にうるさいアメリカが?これにはビックリだ。一方、日本にはこのような法律がないので、「絶歌」の出版を止めることはできない。結局、こういうことなのだ。普通の出版社なら・・・売れるのは分かっているけど、犯罪をネタに出版するのは気が引ける。法に触れなければいい、というものでもないし・・・で思いとどまるのだが、この出版社は金儲けを優先した、それだけのことなのだ。
つまり、「おもてなし」の精神とは真逆、冒頭の「鈍感・無神経」に直結するわけだ。資本主義なんてそんなもの、と言ってしまえばそれまでだが。一方、著者は、遺族への高額な慰謝料があるので、出版は渡りに船だろう。背に腹は代えられないわけだ。
■マグロの解体ショー
そして、日本人の「鈍感・無神経」を証明する第二の事件。俳優の松方弘樹といえば、仁科亜季子の元ダンナ、ではなく、マグロの一本釣り。彼は巨大なマグロを釣ることで知られ、市場で、ん百万の値がつくことも珍しくない。
2015年5月27日、松方は、石垣島沖で「361キロ」の巨大マグロを釣り上げた。そのマグロと彼のツーショットを見ると、そのデカいこと、ハンパではない。それにしても、72歳で、よくあんなものが釣れるものだと感心する。もちろん、一人で釣り上げているわけではないが。さらに、感心するのが「松方マグロ」がカネ目的ではないこと。今回の「松方マグロ」は、東京・築地の中央卸売市場で、184万8000円の値が付いたが、これまでにかかった経費は、それを凌駕するという。それに、必ず大マグロが釣れるわけではないから、トータルでは赤字。
ところが、もっと凄いエピソードがある。松方弘樹は、自分の取り分を、仲間といっしょに、一晩で使い切るのだという。あっぱれ!(食べるときだけお仲間になりたい)ちなみに、この「松方まぐろ」を落札したのは、すしチェーン「すしざんまい」を展開する「喜代村」。喜代村によると、にぎり換算で1万2000貫程度になるという。1万個もどうやって握るのだろう、どうやって並べるのだろう、そのスケールのデカさには驚くばかりだ。
でも、ここからが問題。すしざんまい本店で「マグロの解体ショー」が披露されたのだ。TVの番組でも紹介されたが、みんな、凄い、凄いの大合唱だった。でもこれ、おかしくない?地球の生態系のルールは弱肉強食だから、食物連鎖の頂点に立つ人間がマグロを食べても問題はない。
しかし、問題は「解体ショー」。冒頭の「鈍感・無神経」に直結するから。だって、そうではないか?生き物の身体を切り刻むのを、みんなで見て楽しむ「ショー」って、何?ちょっと想像力を働かせるだけで、その異様さ、異常さがわかる。たとえば・・・宇宙の彼方から、性悪なエイリアンが地球に侵攻し、征服したとする。迷惑な話だが、弱肉強食は宇宙の普遍的ルールなので、まぁ、ここは我慢。我慢ですまんやろ!
なのだが、そこではない。もし、この性悪なエイリアンが、人間狩りをして、人体の解体ショーを催したら、人間はどう思うか?「人体の解体ショー」をイメージして、「マグロの解体ショー」を見たら、どう思うかという話。家族、親戚、友人に、マグロがいなくて本当に良かった・・・と思うだろう。つまり、こういうこと。食べるためには、生き物を解体する必要がある。でも、それを「ショー」にする必要はない。というより、やってはいけない残虐行為なのだ。食べ物を摂るということは、生き物を解体して、命を奪うこと。だからこそ、命に感謝するべきなのだ。それを、生き物の解体を見世物にするって?
一体、どんな神経をしているのだ?
さらに・・・マグロをさばく板前は、それが仕事だから、何とも思わない。問題は見物客だ。「生き物の解剖」がショーになっていることに、何の疑問も抱かず、嬉々として写真を撮りまくる・・・なんという、異様な光景。見ていて、気持ちが悪くなった。もちろん、マグロの解体ショーは、絶歌の出版と同じく、法に触れるわけではない。一部の人間が喜ぶのも理解できる(人間の嗜好は千差万別なので)。では、何が問題?みんなそろって、「解体」を見世物として楽しんでいること。それに尽きる。
つまり、江戸時代末期、欧米人が感動した日本人の美徳は失われつつあるのだ。とはいえ、道徳や善悪の基準は時代とともに変遷する。それが世の常人の常というものなのだ。でも・・・つい、想像してしまう。切り刻まれるあのマグロが・・・もし、人間だったら。
参考文献:
(※)逝きし世の面影、渡辺京二、平凡社
by R.B