日露戦争とポーツマス条約~反日の始まり~
■日本は戦争に勝って外交で負けた!?
アメリカ合衆国が、日露戦争の講和を仲介したのには理由がある。
日露戦争が泥沼化しているので、これ以上、日本とロシアの国民が苦しむのを見ていられない、と思ったわけではない。狙いは「満州の権益」にあった。
1905年8月10日、アメリカのポーツマスで、日本とロシアの講和会議がはじまった。会議を仲介したのはアメリカ合衆国のセオドア・ルーズベルト大統領、日本代表は小村寿太郎、ロシア代表はセルゲイ・ウィッテである。
交渉は初めから大荒れだった。勝者「日本」の要求を、敗者「ロシア」が拒否したから。理由は、ロシアは会戦で負けたが、ロシア本土は一片も取られていない、だから・・・
ロシアは「戦争で負けた」わけではない。
でも、
日本は戦争に勝ってますよね。こっちはどうなるの?
半沢直樹なら、こうブチかますだろう。
「調子のいいこと言ってんじゃねぇぞ。やられたらやり返す、倍返しだ(戦争再開)!」
ところが、小村寿太郎はそれが言えなかった。日本は勝つには勝ったが、ヒト・モノ・カネを使い切って、逆さに振っても鼻血もでなかったから。
つまり、こういうこと。
ロシアも日本も戦争は続けたくない、というか、もうムリ。だから、双方とも、できるだけ有利な条件で手仕舞いしたい・・・あとは、外交官の腕次第というわけだ。
で、外交はどっちが勝ったの?
1905年9月5日、日本とロシアの講和は成立し、ポーツマス条約が締結された。どっちが勝ったかは、条約内容をみれば一目瞭然・・・
①ロシアは朝鮮から手を引く(日本の政治的・軍事的優越権を認める)。
それまでロシアは朝鮮を保護下においていた。
②ロシア軍は満州から完全撤退する。
それまでロシア軍は満州全土を占領していた。
③ロシアが清朝から租借していた関東州(遼東半島南部)を日本に譲る。
④ロシアが経営する東清鉄道の「旅順~長春」間の南満洲支線とその付属地の租借権を日本に譲る。
⑤北緯50度以南の樺太(サハリン)の領有権を日本に譲る。
日本が貰いっ放しじゃないか。やっぱり、外交も日本が勝っていた?
でも、待てよ、肝心の賠償金がみあたらない。
しかも・・・
日本に譲渡される①(朝鮮)、②(満州)、③(関東州)、④(東清鉄道)は、いずれもロシアの本領ではない。他の国から力づくで奪い取ったもの。そんなものをとられても、痛くもかゆくもないだろう。とくに、③は日清戦争で日本が清国から譲り受けた地域、それをロシアが三国干渉で横取りしたのである。
さらに、ロシアの国土面積は世界一、だから、⑤はゴミみたいなもの。
ということで、ロシアは戦争で負けたが、失ったものは意外に少ない。
一方、日本は・・・
19億円の戦費と、9万人の戦死者を出して、ギリチョンで戦争に勝ったのに、外交で負けて、賠償金を取りっぱぐれた?
ジョーダンじゃねーぞ!
と、日本国民は怒ったのである。しかも、怒度ゲージは完全に振り切れていた。民衆は暴徒と化し、官邸や交番に火をつけて回ったのである。これが有名な「日比谷焼き討ち事件」。「日比谷・・・」とはローカルなネーミングだが、実際は、戒厳令が敷かれるほどの大騒動だった。
というわけで・・・
歴史的評価は「ロシアのセルゲイ・ウィッテ>日本の小村寿太郎」
つまり、日本は戦争で勝って、外交で負けた?
でも、本当にそうなのだろうか・・・
セルゲイ・ウィッテが優れた政治家だったことは間違いない。ウィッテは保守派の重鎮だったが、皇帝ニコライ2世のような偏屈な専制主義者ではなかった。冷徹なリアリストで、帝政ロシア末期の数々の難問を解決している。
たとえば、ウィッテは、日露戦争と第一次世界大戦に反対していた。実際、この2つの戦争はロシア革命を発火させ、ロマノフ王家を滅亡させる原因になった。もし、皇帝ニコライ2世が、ウィッテの具申に耳を傾けていたら、あんな凄惨な最期にはならなかっただろう(皇帝一族皆殺し)。
さらに、1905年1月22日、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクで血の日曜日事件が起こった。あやうく革命になりかけたが、首相のウィッテの采配でなんとか乗りきっている。
その後、ウィッテは、革命の気配を嗅ぎ取り、専制主義を緩和しようとしたが、それが原因で皇帝ニコライ2世に嫌われるようになる。最終的に、首相辞任に追い込まれ、政治生命まで断たれたのである。
ウィッテの後任のイワン・ゴレムイキンは皇帝の腰巾着だった。ニコライ2世の言うまま専制主義を断行、結果、皇帝と国会は対立し、ロシアは混乱するばかりだった。こうして、民意は皇帝から乖離し、1917年のロシア革命へと突き進むのである。
もし、セルゲイ・ウィッテが首相にとどまっていたら、1917年のロシア革命は成功しなかったかもしれない。仮に成功していたとしても、もっと穏健な結末になっていただろう。少なくとも、皇帝一族が皆殺しにされることはない。皇帝が生きていれば、反革命派(帝政ロシア)は皇帝を担いで勢いづき、革命派(ソ連)に善戦していたかもしれない。その場合、ロシアが二つに分裂する可能性もある。
つまり、ウィッテはロシアの未来を左右する人物だったのである。
そんな出来物相手に小村寿太郎がかなうわけがない、だから、賠償金をチャラにされてもしかたがない。やっぱり、日本は戦争で勝って、外交で負けたのだ・・・
ところがである。
日本が得たものは意外に大きかった、賠償金を補って余りあるほどに。
■本当は得した日本
ポーツマス条約を日本視点でみてみよう。ポイントは3つある。
第一に、ロシアが満州と朝鮮から完全撤退したこと。
それがどうした?なのだが、そもそも、これが日本が日露戦争を始めた理由だった。つまり、戦争本来の目的を達成したわけだ。
第二に、関東州の租借。
関東州は、旅順と大連を含む遼東半島南部の地域で、日本にとっては、大陸進出の橋頭堡になる。だから、賠償金よりよっぽど価値がある。ちなみに、「租借」とは他国の領土を一定期間借りることだが、行政権、警察権、司法権付きなので、自国領とかわらない。
それに・・・
関東州は、元々日本の租借地だった。それをロシアが難癖つけて、横取りしたのである(三国干渉)。だから、日本は恨み骨髄で、日露戦争の目的の一つが「三国干渉の復讐」だったほど。つまり、第二の目的も達成したわけだ。
第三に、南満州支線の譲渡。
日本がロシアから譲渡されたのは東清鉄道の「旅順~長春(南満州支線)」だったが、徐々に拡張され、のちに「南満州鉄道(満州鉄道)」とよばれるようになる(下図)。
さらに、鉄道を管理運営する「南満州鉄道株式会社」も創設された。この会社は半官半民の国策会社で、鉄道、鉱山、製鉄、電力、ホテルとあらゆる事業を包含する巨大コングロマリットに成長する。
そして、これが冒頭の「アメリカが日露講和の仲介をした理由」に深く関わっている。
ズバリ、「満鉄の利権をよこせ!」
である。
アメリカ側の実行部隊は、鉄道王エドワード・ヘンリー・ハリマンだった。ただし、ハリマンは、愛国心に燃えて、満鉄の利権に食いついたわけではない。彼には壮大な夢があった。
「アメリカ→満州→ロシア→ヨーロッパ→アメリカ」
の「世界一周鉄道」である(但し、太平洋と大西洋は船)。もし、南満州鉄道の利権を獲得できれば、上のパズルの「満州」ピースは埋まる。
1905年9月5日、ポーツマス条約が締結されて1ヶ月も経たないうちに、ハリマンは来日した。「資金援助」のニンジンをぶら下げて、南満州鉄道の共同経営を申し込んだのである。日本政府にしてみれば、鉄道技術と経営のノウハウを持つハリマンの申し出は渡りに船だった。しかも、資金まで提供してくれるというのだから。話はとんとん拍子にすすみ、1ヶ月後には、桂・ハリマン協定が締結された(桂は当時の首相)。
ところが、ポーツマスから帰国した外相の小村寿太郎は激怒した。9万人の戦死者と、19億円の戦費で勝ち取った「満鉄の利権」を、アメリカと分け合うとは、一体何を考えているのだと。こうして、桂・ハリマン協定はチャラにされた。
頭にきたのがアメリカである。とくに、日露講和会議を仲介したセオドア・ルーズベルト大統領は面目丸つぶれだった。日本の外債を買ったうえ、講和の面倒までみてやったのに・・・今に見てろよ。
その後、満州をあきらめたアメリカは、機会均等をかかげて、中国進出をもくろんだが、これも失敗した。先に、中国(清国)に進出していた日本、イギリス、ロシアが連携して、アメリカを締め出したのである。イギリス・ロシアはムカツクけど、日本は超ムカツク・・・今に見てろよ。
そんなこんなで、セオドア・ルーズベルト大統領はすっかり「反日」になってしまった。その後、反日感情は増幅され、フランクリン・ルーズベルトに受け継がれ、ピークアウト、日本は日米戦争に引きずり込まれるのである。
■日本の勝利は世界中が喜んだ
話を日露戦争にもどそう。
日露戦争が世界に与えた影響は意外に大きかった。もちろん、日本が勝利したという意味で。中でも、日本海海戦のインパクトは超弩級だった。
ロシアのバルチック艦隊は、最新鋭艦4隻を含む戦艦11隻を擁し、世界最大、最強とうたわれたのに、一夜にして、海の藻屑(もくず)となったのだから。
じつは、これに喜んだのは、日本人だけはなかった。
トルコ人、エジプト人、インド人など有色人種、さらに、ロシアの圧力に苦しんでいた白人国家のフィンランド人やポーランド人も歓喜した。フィンランドには、それを祝した「トーゴービール」があるというのは有名な話だ。「トーゴー」とは、バルチック艦隊を壊滅させたイケメン連合艦隊司令官「東郷平八郎」のことである。
一方、日本の勝利に危機感を覚え、「反日」になったのが、アメリカ合衆国だった。日本はロシアに勝てないまでも、一矢報いてくれれば十分と思っていたのに、日本が勝ってしまったのだから。じつは、反日の理由は他にもあった。
有色人種だから。
確かに。でも、それだけではない。
地政学上、日本はアメリカの天敵だったのである。
19世紀、アメリカで西部開拓が始まった。イギリスからの移民が、アメリカ東部から西部に向けて、インディアン絶滅作戦を推進したのである。そして、19世紀末には、太平洋岸に達した。眼前に広がるのは太平洋。そこで、つぎに、アメリカは太平洋沿岸地域、つまり、環太平洋地域を支配しようとしたのである。
ところが、それに立ちはだかったのが日本だった。日露戦争後、日本は「大東亜共栄圏」構想をかかげ、東アジアの盟主たらんとしていたから。つまり、アメリカの一番の天敵は日本だったのである。
これに、「セオドア・ルーズベルト大統領→フランクリン・ルーズベルト大統領」の個人的恨みが加わり、アメリカは徹底した反日国家になっていく。
一方、日露戦争によって、東アジアは安定した。
日露戦争前、ロシアは満州と朝鮮を支配しようとして、日本と鋭く対立した。その結果、日露戦争が勃発したのである。ところが、戦後、帝政ロシアは一転して、日本との共存共栄を計った。朝鮮と満州は日本、その以北とモンゴルはロシアという棲み分けが成立したのである。
では、帝政ロシアは、なぜ、日本と手を組んだのか?
1.東アジア最強の日本と手を組んだ方が、ロシアの利権は安定する。
2.満州と中国の権益を狙うアメリカ合衆国に対抗するため。
そして、この作戦はうまくいった。アメリカは、満州の権益にありつけず、中国の進出も、日本、イギリス、ロシアに阻止されたのである。
あのイギリスがアメリカ合衆国と敵対?
当たらずとも遠からず。じつは、この時期、アメリカの盟友イギリスはアメリカを警戒していた。アメリカ合衆国は、元はといえばイギリスの植民地。それが、親のイギリスをしのぐなんて許せん!そこで、イギリスは日本と組んで、アメリカの中国の進出を妨害したのである。
■明石大佐のIF
では、最後に歴史のIF・・・日本史上最も有名なスパイ「明石元二郎」について。
1905年1月9日、ロシア軍がデモ隊に銃を乱射して、1000人以上が殺された。有名な「血の日曜日事件」である。この後、穏健な請願デモは、暴動と略奪に変わり、ロシアは大混乱におちいった。民衆の怒りに火がついたのである。その火に油を注いだのが日本人スパイ明石大佐だった。彼の工作により、帝政ロシアは日露戦争の続行を断念せざるをえなくなったのである。
その後、明石大佐は共産主義革命をめざすレーニンに接近し、資金援助を行い、1917年のロシア革命を成功させた。だから、明石大佐一人で、一個師団(兵数1万~2万人)に匹敵すると言われている。
本当のところは?
わからない。
そもそも、明石大佐はスパイである。スパイのミッションは極秘なのに、具体的な作戦や功績が丸わかりというのもヘンな話だ。
それに・・・
ウワサが真実だとしても、明石大佐の功績には疑問が残る。
血の日曜日事件のドサクサに、反政府運動をあおって、ロシアの戦争続行を不可能にしたのは悪くない。これで、日本が勝利したのだから。
ただし・・・
その後、レーニン(ボリシェヴィキ)を援助したことは問題だ。
ロシア革命が成功し、ソビエト連邦が成立し、回り回って、日本は破滅の淵に追い込まれたのだから。
というのも・・・
明石大佐がボリシェヴィキの活動を妨害していたら、ロシア革命はどうなっていたかわからない。
実史では、1917年、ロシア革命が勃発した後も、赤軍(革命派)と白軍(反革命派)の戦いが続いていた。最終的に、赤軍が白軍を駆逐して、ソビエト連邦が成立したが、明石大佐の妨害が功を奏すれば、赤軍と白軍の戦いはダラダラ続いていたかもしれない。その場合、ロシアは国が二分した可能性がある。
たとえば、ウラル山脈を境に、西方はロシア革命政権(ボリシェヴィキ)、東方は帝政ロシア(ロマノフ王朝)という具合に。
この世界は、現実の世界とは大きく違う。
東方の帝政ロシアと日本の蜜月時代は続き、東アジアは安定する。さらに、日本の満州の特殊権益が安定するので、実史のように日本が中国に攻め込むこともない。すると、アメリカのルーズベルト大統領は日本に銃を抜かせる(真珠湾攻撃)口実がなくなり、太平洋戦争は起こらない。もちろん、広島・長崎の原爆投下も歴史から消える。
しかし、実史では、ロシア革命が成功し、世界の歴史は一変してしまった。中でも大きな影響を受けたのが日本と中国である。帝政ロシアの跡を継いだソ連が、日本と縁を切り、中国と組んだから。
レーニンの跡を継いだスターリンは日本が大嫌いだった。というか、極めつけの反日主義者。日露戦争で負けたことを根に持っていたのである。
スターリンがまずやったのは、中国の民衆に反日を植えつけることだった。具体的には、帝政ロシアと日本が結んだ秘密協定を暴露したのである。そこには、帝政ロシアと日本が東アジアの棲み分けが決められていた。朝鮮・満州は日本、その以北とモンゴルはロシアという具合に。それを知れば、中国国民は帝政ロシアと日本に腹を立てるだろう。そして、それは現実になった。
つぎに、スターリンは中国を共産主義化しようとした。資本主義と共産主義は相反する経済イデオロギーである。実際、中国の内戦では、資本主義の蒋介石(中華民国)と共産主義の毛沢東(中華人民共和国)が戦った。結果、毛沢東が勝利し、スターリンのもくろみは成功したのである。
つまり、中国の反日の起源は「スターリンの洗脳」だった・・・
では、第二次世界大戦はどうなっていただろう?
ヒトラーが、史実どおり、20回におよぶ暗殺計画をことごとく回避すれば、ロシア侵攻は確実に起こる。その場合、国が二分されたロシアがドイツに勝つことは難しい。ウラル山脈以西のロシア革命政権(ソ連)はドイツに占領され、共産主義は地上から消滅するだろう。
しかし、東方の帝政ロシアは日本との蜜月なので、ドイツ軍がウラル山脈を越えて東進することはない。
その結果・・・
ヨーロッパとウラル以西はドイツ第三帝国、ウラル以東は帝政ロシア、満州と朝鮮は日本、そして、中国は毛沢東の共産党政権が生まれないので、蒋介石の中華民国が中国を統一する。
さらに、太平洋戦争は起こらず、第二次世界大戦も1941年12月までにロシアが降伏するので、実史より早く終結する。そのため、被害は現実よりずっと少なかっただろう。
つまり・・・
1個師団に匹敵するといわれた国民的英雄「明石大佐」は・・・結果として、日本のみならず、世界に多大な損害をもたらしたのである。
歴史は本当に面白い。
よかれと思ってやったことが、裏目にでて、しかも、歴史を大きく変える。それが一人の人間の仕業なのだから・・・
参考文献:
・真実の満州史、宮脇淳子【監修】岡田英弘、ビジネス社
・2030年世界はこう変わるアメリカ情報機関が分析した「17年後の未来」[単行本(ソフトカバー)]米国国家情報会議(編集),谷町真珠(翻訳)講談社
by R.B