邪馬台国と大和朝廷
■空白の4世紀
邪馬台国の卑弥呼が死んだのは西暦240~249年。そして、日本の歴史が明らかになるのは592年以降(飛鳥時代)。では、249年~592年の間、日本で何が起こっていたのか?
じつはこの間、確かなことは何もわかっていない。266年~413年、中国の文献から倭の記述が消えてしまうからだ。そのため、「空白の4世紀」と言われている。ただ、中国・二十四史を丹念に読めば、少なからず倭の記述がある。そして、その中に、この時代を明らかにする鍵が含まれているのだ。
邪馬台国の場所は九州北部に間違いないだろう。さらに、卑弥呼が死んだ後も、邪馬台国または邪馬台国を継承した九州政権が存続し、中国に朝貢したことも確かである。また、同じ頃(西暦300年)、奈良盆地に大規模な前方後円墳が出現する。前方後円墳は大和朝廷の象徴なので、この頃、奈良に大和朝廷(ヤマト王権)が興ったことは間違いない。そして、この王権が飛鳥時代に継承され、今の王室につながっている。
ということで、日本の政権が、遅くとも7世紀までに、邪馬台国を継承する九州政権から、大和朝廷(ヤマト王権)に移ったことは確かだが、それがいつ、どのような形で起こったか分からない。それどころか、邪馬台国と大和朝廷(ヤマト王権)の関係もはっきりしない。そこで、邪馬台国から大和朝廷(ヤマト王権)までの空白の4世紀を追う。時代は、290年~650年。
ここで、
1.「奴国→邪馬台国」を継承する九州政権を「邪馬台国王統」
2.奈良で興った大和朝廷(ヤマト王権)を「大和朝廷」
と呼ぶことにする。
■邪馬台国王統
中国・二十四史「北史」によれば・・・
西暦239年、卑弥呼は初めて朝貢し、魏王から仮の金印を授かった。西暦240~249年、卑弥呼が死んで、男王が立った。ところが、国中が服従せず、互いに殺し合った。そこで、卑弥呼の宗女「臺與(とよ)」を王に立てると、混乱はおさまった。その後、再び男王が立って、中国から爵位を拝命した。その後も、中国への朝貢は続いた。西暦600年、倭王「阿毎」が遣使を王宮にもうでさせた。
阿蘇山があり、そこにある石は天に火柱を昇らせる。如意宝珠があり、色は青く、鶏卵の大きさで、光り、魚の眼の精霊だという。新羅や百済は、倭は大国で、珍しい物が多いので、これを敬い、常に使者が往来している。
以上を整理すると、卑弥呼が死んだ後も中国への朝貢が続き、西暦600年には倭王「阿毎」が立った。さらにその後、阿蘇山の話が出てくるので、倭王「阿毎」の国は九州とみていいだろう。ということで、西暦600年頃、中国からみた倭は、まだ邪馬台国王統だった可能性が高い。
つぎに、中国・二十四史「旧唐書」をみてみよう・・・
倭国とは古の倭の奴国である。四方の小さな島々と五十余国が、この奴国に属している。その王姓を「阿毎」といい、諸国はみな畏怖している。西暦631年、遣使が方物を献じた。西暦648年、また新羅(朝鮮王朝)に倭の使者が来た。
この部分は重要だ。「倭国」は昔の「奴国」のことで、王姓を「阿毎」といい、西暦631年と648年に遣使した、とはっきり書いてある。先の「北史」と読み合わせれば、
「西暦648年までは、中国から見た倭は奴国を継承する邪馬台国王統」
は間違いない。そして、西暦600年の王は「阿毎氏」だった。また、倭王「阿毎」の名は中国・二十四史の「隋書」にも登場する。
さらに、中国・二十四史「梁書」、「南史」、「宋書」には、「倭の五王」の記述がある。内容をかいつまむと、
「西暦396年~482年、倭に、讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)の五王が立った」
この「倭の五王」と誰をさすのか?「日本書紀」に出てくる大和朝廷の大王(おおきみ)の系譜から、
・讃→履中天皇
・珍→反正天皇
・済→允恭天皇
・興→安康天皇
・武→雄略天皇
とする説がある。
この説に従えば、396年には、倭の政権が邪馬台国王統から大和朝廷に移っていたことになる。ところが、前述した中国・二十四史によれば、648年、中国から見た倭はまだ邪馬台国王統である。しかも、倭の五王の名「讃、珍、済、興、武」は見るからに中国風。大和朝廷とは考えにくい。この時代、邪馬台国王統は中国の遣使に熱心だったので、中国に敬意を表し、中国名に変えたのかもしれない。というわけで、倭の五王は邪馬台国王統と考えるのが自然だ。じつは、それを裏付ける決定的な証拠がある。
「旧唐書」はさらに続けて・・・
日本国は倭国の別種である。その国は「日の出(いずる)」の場所にあるので、日本と名づけた。また、倭国はその名が雅(みやび)でないを嫌い、日本に改名したともいう。日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。
この記述は決定的だ。西暦648年の倭国の遣使の後、初めて「日本国」の名が出てくる。しかも、
「日本は昔小国だったが、倭国を併合し、日本と改名した」
とある。この「倭国を併合した国」が、大和朝廷と考えて間違いないだろう。つまり、後の大和朝廷(ヤマト王権)は、小国(奈良→畿内)から始まり、倭国(邪馬台国王統)を併合し、日本に改名したのである。
ということで、
「邪馬台国王統から大和朝廷に移行したのは西暦650年頃」
■大和朝廷(ヤマト王権)
中国・二十四史に「日本国(大和朝廷)」が登場するのは、650年以降である。では、どのような経緯で大和朝廷が成立したのだろう。この時代、日本はまだ文字を持っていないので、考古学に頼るしかない。
西暦300年頃、奈良盆地に大規模な前方後円墳が出現する。その後、400年頃、畿内でも造られるようになり、450年以降、全国に拡大する。ところが、600年頃には全く造られなくなる。これらの考古学的事実から、大和朝廷の歴史を推定すると・・・
大和朝廷は西暦300年に興り、400年に畿内を制圧、450年頃から全国に勢力を拡大する。そして、600年以降、前方後円墳が造られなくなるので、この頃に大和朝廷の権威が確立した。これは、「592年に飛鳥時代が始まる」と一致する。
ということで、考古学的見地から、邪馬台国王統から大和朝廷への移行は西暦600年以降と考えられる。これは、先の中国・二十四史の記述と一致する。では、どのような経緯で邪馬台国王統から大和朝廷に移行したのだろう。ところが、前述したように、邪馬台国と大和朝廷の関係すら分かっていない。
ただ、仮説はいくつかある。
1.邪馬台国王統は大和朝廷よって滅ぼされた。
2.邪馬台国王統が東征し、畿内を平定、大和朝廷を確立した。
3.狗奴国が邪馬台国王統を滅ぼし、東征し、大和朝廷を確立した。
ところが、前方後円墳は西暦300年~600年にかけて、奈良を中心に広がっていくので、前方後円墳は邪馬台国王統とは関係がない。だから、大和朝廷は邪馬台国王統とは独立した勢力で、併存していたと考えるべきだろう。しかも、邪馬台国王統は中国の朝貢に熱心で、領土拡大の形跡がない。ということで、
「邪馬台国王統は大和朝廷に征服された」
ただ、「邪馬台国王統が東征し、大和朝廷になった」説には根拠がある。日本書紀や古事記に、神武天皇が九州の日向から近畿へ東征したことが記されているからだ。日本書紀と古事記は、大和朝廷を讃える書なので、その創始者が滅ぼされた畿内出身であるはずがない、というわけだ。
だが、別の考え方もある。奈良発祥の大和朝廷が日本を統一したが、古代に、中国王朝からお墨付きをもらったのは邪馬台国王統である。それに敬意を払って「神武天皇東征記」が生まれたのかもしれない。これは、古代ローマ帝国とエトルリアの関係に似ている。
古代イタリアでは、ローマ帝国に先行してエトルリア文明が栄えた。エトルリア人は高度な文明をもち、隣国のローマ人たちを野蛮人とさげすんだ。それが祟って、エトルリアはローマに征服され、完全に破壊されたのである。ところが、一方で、ローマはエトルリアの文明をしっかり継承している。たとえば、ローマ水道に欠かせない「アーチ」は、エトルリア人の発明である。
さらに、ローマ人はエトルリア人にコンプレックスをもっていた。ローマの貴族たちは、自分の家系にエトルリア人の血が混じっていることを自慢したのである。このような関係は、邪馬台国王統と大和朝廷にも当てはまるかもしれない。
■邪馬台国王統と大和朝廷の比較年表
最後に、邪馬台国王統と大和朝廷を比較した歴史年表を記す。
この歴史年表を俯瞰(ふかん)すれば、
1.古代の日本は、中国から「倭」とよばれた。
2.倭は九州政権で、「奴国→邪馬台国→邪馬台国王統」と続いた。
3.400年頃、奈良に大和朝廷が興り、邪馬台国王統と併存した。
4.その後、大和朝廷は600年頃までに日本全国に権威を広めた。
5.650年頃、大和朝廷は邪馬台国王統を滅ぼし、日本を統一した。
これで、飛鳥時代以前の日本の歴史も明らかになった。もちろん、あくまで仮説だが。それでも、当たらずとも遠からずと思うのですが、いかがでしょう?
《完》
時期
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邪馬台国王統(倭国)
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大和朝廷(日本)
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紀元前107年 | ・倭は100余国からなる。 ・中国王朝に定期的に朝貢。 |
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57年 | ・倭の奴国は中国の後漢に朝貢し、皇帝から金印を授かる。 ※奴国は現在の福岡市近辺。 |
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107年 | ・倭王・帥升が中国の後漢に朝貢。 ※57年に後漢に朝貢した奴国のこと。 |
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107~180年頃 | ・帥升の流れをくむ奴国で男の王が70~80年間、倭を支配する。 | |
178~184年 | ・帥升の流れをくむ奴国の支配が終わり、内乱がはじまる。 ※倭国大乱 |
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~189年 | ・倭の内乱をおさめるため、女王・卑弥呼が立つ。 | |
238年 | ・遼東の公孫淵が謀反を起こし、帯方郡と楽浪郡を占領し、燕王を称する。 ※倭と中国を結ぶルートが遮断され、倭が朝貢が中断。 |
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238年6月 | ・倭の女王・卑弥呼が帯方郡に使者を送り、魏の皇帝に謁見することを願い出る。 | |
238年8月 | ・魏の将軍・司馬懿が帯方郡と楽浪郡を奪還し、公孫淵一族を滅ぼす。 ※倭と中国を結ぶルートが回復。 |
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238年12月 | ・魏の皇帝が、倭の女王・卑弥呼を「親魏倭王」と認める。 | |
247年 | ・帯方郡の太守が魏の王都(洛陽)におもむき、倭の女王・卑弥呼と狗奴国の男王・卑弥弓呼(ひみここ)が攻防している様を説明する。 ※狗奴国は邪馬台国の南方にあった宿敵。 |
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240年~ 249年 |
・卑弥呼が死ぬ。 ・その後、男の王が立つが、国中が服従せず、内乱状態に陥り、1000人余りが殺される。 ・卑弥呼の宗女「壹與(とよ)」が13歳で女王になり、国の混乱は収まる。 |
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300年 | ・奈良盆地に大規模な前方後円墳が出現する。 | |
351年 | ・邪馬台国を継承した邪馬台国王統が中国に朝貢する。 | |
396年 | ・倭の五王の初代、讃(さん)が朝貢する。 | |
400年 | ・畿内で前方後円墳がさかんに造られる。 | |
443年 | ・倭の五王の3代、済(せい)が朝貢する。 | |
450年 | ・日本各地で前方後円墳が造られる。 | |
462年 | ・倭の五王の4代、興(こう)済が朝貢する。 | |
479年~ 482年 |
・倭の五王の5代、武(ぶ)が中国の梁の武帝から、征東大将軍に叙せられる。 | |
592年 | ・飛鳥時代が始まる(崇峻天皇)。 ・日本で前方後円墳が造られなくなる(大和朝廷が日本の大半を支配?)。 ・国号が「日本」に変わる。 |
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600年 | ・倭王・阿毎が朝貢する。 | |
631年 | ・倭国が唐の太宗に朝貢する。 ※倭国は昔の奴国と記述あり。 |
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648年 | ・倭国が新羅(朝鮮王朝)に遣使。 | |
650年頃 | 邪馬台国王とが大和朝廷に征服される。 | ・中国の書に「日本国」がはじめて登場。「日本は昔、小国だったが倭国を併合し、日本と改名した」とある。 |
650年以降 | 大和朝廷が日本の統一王権を確立する。 |
by R.B