心の病気(5)~脳とコンピュータ~
■ラザロ
イエスは言った。
「ラザロ、出てきなさい」
すると、死んだ者(ラザロ)が、手と足を布で巻かれたまま出てきた。
「ヨハネによる福音書」第11章、イエスが死人を蘇(よみがえ)らせるシーンである。イエスが行った奇跡の中では超弩級。真偽のほどは不明だが、その後、「ラザロ」が”生き返り”の代名詞になったことは事実だ。エンターの世界でも、1990年代のTVドラマ「Xファイル」のエピソードにもなっている。第15話「ラザロ・Lazarus」、テーマは”魂の転移”による蘇生。
「ラザロ徴候(ちょうこう)」もイエスの「ラザロ」にちなんでいる。ラザロ徴候とは、脳死と判定され、人工呼吸器を外したとき、患者がまだ生きているように、身体を動かすこと。ただの反射運動なのか、脳が生きているのか、原因はまだ分かっていない。
人工呼吸器を外すかどうかは、行き着くところ、本人と家族の問題である。人それぞれ、事情はあるだろうし、誕生と死は善悪で語れるものではない。問題は呼吸器を外した後、つまり、臓器移植がからむケース。この場合、”死の判定”を誤れば、明確に殺人になる。
■臓器移植
冷静に考えてほしい。まだ生温かい身体から臓器を切り出し、他人の身体に埋め込む?とても、正気の沙汰とは思えない。ところが、大義名分はちゃんとある。
・人間の臓器は部品にすぎない。
・だから、回復する見込みのない人の臓器は、部品として再利用すべきだ。
・モタモタしていると臓器が腐るので、一刻も早く臓器を取り出そう。
確かに合理性はあるが、危険な飛躍を内包している。たとえば、
・「脳死=人間の死」は真実か?(細胞はまだ生きているのに)
・「脳死の判定基準」は間違いない?(脳のことはほとんど分かっていないのに)
臓器移植のリスクはこれにとどまらない。米国では、脳死と判定されなくても、大脳が回復不能なダメージを受けた場合、ドナー(臓器提供者)として認められる。ただし、人工呼吸器を外した後、心停止を確認し、死を宣告する必要がある。ところが、心停止までに時間がかかると、酸素不足で臓器が損傷し、移植に使えなくなる。当然、フライングする医師もでてくる(米国で現実にあった)。
さらに・・・
臓器を切り取るとき、患者が痛みを感じているとしたら?臓器移植は殺人と拷問になる。脳死だから痛みを感じない?本当にそうだろうか?本人しか分からないのに、どうして分かるのか?そもそも、脳のことはほとんど分かっていないのに。一方、このテーマで議論していると、たいていこんな反論が返ってくる。
「あなたの子供が臓器移植でしか助からないとしたら、同じことが言えますか?」
これは、自分の都合を相手の都合に置き換えて代弁させる最もこそくな手である。真実を見極めようとする態度ではない。人間は必ず死ぬ。臓器を移植しようがしまいが必ず死ぬ。200年後の世界を想像してみよう。今、地球上にいる人間は、1人も生きてはいない(たぶん)。これが地球のルールなのだ。それでも、まだ生きている臓器をドナーから切り取って、1日でも長生きすることが本当に正しいのか?自問自答してみる必要がある。
個人的には、健康診断さえ不要だと思っている。実際、この10年、会社の健康診断を受けていない。理由は簡単だ。毎日、散歩は欠かさないし、暴飲暴食はしないし、アルコール類は週末だけ。これだけ健康に留意して、病気になるなら、それが自分の寿命、そう思っているからだ。だから、自分にとって健康診断は何の意味もない。
人間は原爆を作り、臓器移植を正当化し、生命の設計図「遺伝子」まで書き換えている。科学技術の目覚ましい成功に酔いしれ、人間は何をしても許されると思っている。”できること”と”やるべきこと”は別、ということすら分らないのだ。そんな生物種の未来に何が待っているのだろう?残念だが、混乱と災いしか見えてこない。自然の摂理を超えて、好き放題やれば、自然の報復が待っている。
■ロボトミー
子供の頃、「ロボトミー」という言葉を聞いたとき、不吉な気分になった。そして、説明を聞くと、さらに気分は落ち込んだ。
ロボトミーとは、精神疾患の治療の一つで、脳の前頭前野と他の部位を切断する外科手術である。前頭前野とは、「知」を担当する脳の部位。そこを切断すれば、余計なことを考えない、というわけだ。子供の頃、医者や病院が嫌いになったのはそのせいかもしれない。
ロボトミーは、70年前に行われた動物実験にさかのぼる。チンパンジーの前頭葉を切ったところ、性格が穏やかになった。そこで、人間にも試してみた・・・タチの悪い冗談に聞こえるが、まぎれもない事実だ。この荒療法は、1940年代には、かなり行われたらしい。一部成功例もあったが、手術中に死亡したり、手術後に人格が変ることもあったという。どこか、「サイバーパンク」の臭いがする。
「サイバーパンク」はSFジャンルの一つで、人体にチップや機械を埋め込んで、知能や肉体を強化する。有名どころでは、「新スタートレック」や「スタートレック・ヴォイジャー」の機械生命体ボーグ(Borg)。日本の「銀河鉄道999」も入るかもしれない。どこがどう面白いのか分からないが、一部に根強い人気がある。アタマにチップを埋め込んで、何が嬉しいのだろう。
ラザロ、ロボトミー、サイバーパンク・・・なんともブルーな響きだ。きっと、根っこに脳があるからだ。たしかに、事が脳にからむと、心は緊張する。しかも、心地の悪い緊張だ。たとえば、心の病気(精神疾患)・・・聞いた瞬間、身体の病気ではありえない重い緊張感が走る。そもそも、心の病気は症状・原因すらはっきりしない。宇宙の秘密を知る人間も、自分のことは何も分からないのだ。
■驚異の脳
人間の脳が生みだす価値は奇跡にみえる。絵画、音楽、演劇、文学、科学、さらに、喜怒哀楽、不安、嫉妬、感動、まさに多種多様。脳は日々、こんな複雑で難解な価値を生みだしているのだ。ところが、頭蓋を切り取り、脳を凝視しても、ゴッホの絵も、モーツアルトの楽曲も、ニュートンの方程式も見えてこない。一体、どういう仕組みになっているのだろう?
脳を成分でみると、脂質60%、タンパク質40%。中国が出し渋って有名になったレアアースよりずっと安価だ。そこで、
「こんなチープな脳が、なぜ、これほどの価値があるのか?」
という問題提起もあるが、機械式腕時計は鉄なのに、なんでこんな高いんだ、と言うのと同じ。
鉄の塊は重しにしかならないが、鉄で作られた機械式腕時計は、複雑な仕組みで時を刻む。だから、ブレゲの機械式時計は同じ重さの鉄塊にくらべ、1億倍もの値がつくのだ。つまり、モノの価値は”材料”ではなく”構造”、それが生み出す”価値”にある。
では、脳が生みだす価値は、”構造”で説明できる?イエスでもあり、ノーでもある。確かに、脳の構造は複雑だ。部品の数からして、半端ではない。
脳細胞の数=1500億個=150,000,000,000=150×10の9乗
1、2、3・・・で数えられる世界ではない。その大数の10%を占めるのが「神経細胞」、残り90%が「グリア細胞」である。
「神経細胞」は「ニューロン」ともよばれ、思考の中枢をになうエンジン。一方の「グリア細胞」は、ニューロンを支えるサポーターだ。たとえば、ニューロンの位置を固定したり、ニューロンに栄養を与えたり、シグナル(信号)の伝達速度を高めたり。脳の活動に欠かせない。とはいえ、脳のキモはやはり、ニューロンにある。
■ニューロン
ニューロンは、大きく3つの部品からなる。
1.シグナルの処理部(細胞体とよぶ)
2.シグナルの入力部(樹状突起とよぶ)
3.シグナルの出力部(軸索とよぶ)
ニューロンの出力部は途中で何本にも枝分かれして、それぞれ、受け手のニューロンの入力部とつながっている。これにより、ニューロンから発せられたシグナル(信号)が、同時に複数のニューロンに伝わるわけだ。
ただ、ニューロンの出力部と、受け手のニューロンの入力部は完全にくっついているわけではない。ほんのわずか、すき間があるのだ。では、そのすき間をシグナルはどうやって伝わるのか?
ここで、シグナルが伝わる様子を順にみていこう。
1.ニューロンの入力部に、シグナル(電気信号)が入力される。
2.シグナルの電圧が一定値を超えると、ニューロンは新たなシグナルを発生する。
3.シグナルはニューロンの出力部の末端にあるシナプスに達する。
4.ここで、シグナルは電気信号から化学物質に変換される。
5.化学物質は、受け手のニューロンの入力部に向け発射される。
6.入力部に達した化学物質は、再びシグナル(電気信号)に変換される。
この1~6を繰り返すことで、シグナルはニューロンからニューロンへと伝わっていくのである。
■ニューラルネット
もし、ニューロンの数が千や万のオーダーなら、大したことは起こらない。ところが、脳内のニューロンは150億個もある。しかも、それらは複雑にからみあい、広大なネットワークを形成している。ニューロンをパソコンに見立てれば、脳内ネットワークはインターネットだ。実際、脳内ネットワークは「ニューラルネット(神経回路網)」と呼ばれ、全長は100万kmもある。じつに、地球25周分の長さだ。
こんな広大なネットワークに、無数のシグナルが飛び交っている。だから、人間は素晴らしい価値を生み出せる?いや、この説明では不十分だろう。インターネットが自発的にシェークピアの戯曲を書くなら別だが。では、脳には、他にどんな仕掛けがあるのだろう?
じつは、脳内ネットワーク(ニューラルネット)は、ニューロンが適当に配置されているわけではない。ニューロンには複数の種類があり、形も働きも違う。そして、種類別に6つの層を形成している。さらに、論理的な処理は左脳、イメージ処理は右脳、記憶は側頭葉、という風に、アバウトな棲み分けもされている。つまり、脳内ネットワークは体系化されたシステムなのだ。
ところが、人間の脳は詩から原子爆弾までカバーする。こんな複雑な装置を、”数”や”構造”だけで説明するのはムリ。やはり、脳の異形の仕組みに踏み込む必要がある。
■脳とコンピュータ
脳は、心臓や肺と同じく、人体の部品の一つだ。ところが、脳には他の臓器にない特徴がある。「ソフトウェア」の存在だ。この点で、脳はコンピュータに似ている。たとえば、コンピュータは同じハードウェアでも、ソフトウェアを変えるだけで、ワープロにも、ゲーム機にも、メーラーにもなる。
この仕組みを人体におきかえると・・・
たとえば、心臓や肺の機能は固定的だ。Aさんの心臓は血液を循環させるが、Bさんの心臓は呼吸をする、ということはない。また、Aさんの心臓が途中で肺に変わることもない。つまり、いつでもどこでも、心臓は心臓、肺は肺。
ところが、脳は違う。ハードウェア(材料、構造)は同じなのに、人によって”働き”が違う。たとえば、技術者は設計し、詩人は詩を書く。また、同じ人間でも、転職すれば、脳の働きも、脳が生む価値も変わってくる。つまり、ソフトウェア次第。
ということで、脳とコンピュータには類似点がある。それを整理すると、
脳
|
コンピュータ
|
|
ハードウェア | ニューロン | 半導体チップ |
ソフトウェア | 心と知能 | プログラム&データ |
ここで注目すべきは、「脳のソフトウェア=心と知能」という点。
ここで、心と知能の動作に着目すれば、
1.手順
2.記憶
に帰着する。ここで、”手順”とは、考えるプロセス、方法のことである。
つまり、
1.手順=プログラム
2.記憶=データ
と置き換えられる。そして、このアナロジーが意味するのは、
「脳=コンピュータ」
ところが、脳にはコンピュータにないスペックがある。意識と無意識の2面性だ。これをコンピュータに実装するのは難しい。「意識」と「無意識」の仕組みも、その相互作用も、ほとんど分かっていないからだ。
無意識とは、覚醒時に認知できない”心に潜む”意識のことである。そのため、「潜在意識」ともよばれる。ところが、その潜在意識を認知する方法がある。毎日見ている「夢」。心理学者のフロイトやユングは、潜在意識は夢に現れるから、夢を調べれば、潜在意識が読み取れると考えた。それを体系化したのが「ユングの夢分析」である。
一方、意識と潜在意識は同じ心の産物なのに、敵対することがある。たとえば、トラウマ。トラウマは、意識世界で生まれた心の傷だが、意識的に治すのはムリ。それどころか、潜在意識を支配し、時には、心の病気を引き起こすこともある(心的外傷後ストレス障害・PTSD)。
脳と他の臓器の違いはまだある。心臓は、最新のCTでスキャンすれば、血液を循環させるポンプであることがわかる。つまり、力学的に説明可能。また、肝臓は機械的な動きはないが、働きを化学的に説明できる。ところが、脳の場合、心や知能の働きを見るスキャナーも、それを説明する科学もない(心理学は厳密には科学とはいえない)。
一方で、心の病気には化学的に説明できる部分もある。たとえば、ニューロン間の信号伝達は、前述したように化学物質を媒体にしている。これが神経伝達物質で、現在、ノルアドレナリン、ドーパミンなど数十種類が確認されている。じつは、その分泌量が心の病気(精神疾患)に関係していることがわかっている。
たとえば、分泌量が少なければ、シグナルの伝達が鈍くなり、脳の活動が低下する。逆に、分泌量が多すぎると、シグナルの伝達が過剰になり、場合によっては、てんかんを引き起こす。一見深淵に見える脳も、「生物機械」の範疇(はんちゅう)にあることがわかる。
ところで、これほど複雑な装置「脳」は、いかにして生まれたのか?じつは、中枢をになうニューロンは、ありふれた生物細胞から進化したと考えられている。進化論が主張する突然変異と適者生存によって。つまり、「偶然」。
これに対し、こんな複雑なものが、偶然に生まれるはずがない、神の手によるものだ、という創造論(インテリジェント・デザイン)もある。つまり、「必然」。ということで、進化論と創造論の論争はこんな所にもある。
■心の病気の予防
最近、予防医学が脚光をあびている。たとえば、1日1万歩、ガツガツ歩けば、成人病やガンの予防になる。また、のんびり歩けば、うつ病の予防になる。というわけで、「心の病気」の予防医学も存在する。
今の世はストレス社会、誰もが心の病気のリスクを負っている。もちろん、人によって、かかりやすい、かかりにくいはあるだろう。じつは、それを前もって知る方法がある。就活でおなじみの「適性検査」だ。ストレスに強いか弱いか(ストレス耐性)、さらに、どんなストレスに弱いまで教えてくれる。
また、ストレスに強い人のタイプもわかっている。「Sense Of Coherence(一貫性の感覚)」を持つ人だ。この感覚の持ち主は、強いストレスにさらされても、落ち込みにくい、または、一時的に落ち込んでも、回復しやすい。つまり、心の病気にかかりにくいわけだ。まるで「銀の弾丸」だが、その3つの感覚を紹介しよう。
【人生肯定・感覚】
「人生は生きるに値する」感覚。過酷な状況におちいっても、自分が成長するための試練と考え、肯定的に受け止めることができる。そして、困難を乗り切るため、あらゆる手をつくそうとする。何があっても、人生は生きるに値すると信じられるからである。3つの感覚の中では最強の因子。
【未来予測・感覚】
「自分の未来をある程度予測できる」感覚。たいていのことは想定内なので、問題は起こるべくして起こっていると感じる。逆に、この感覚のない人は、問題が唐突に、しかも無秩序に起こって見えるので、自分には”ツキ”がないと思い込む。そして、社会や人生が自分に不公平だと考えるようになる。
【何とかなる・感覚】
「困難な問題に遭遇してもなんとか切り抜けられる」感覚。この感覚の持ち主は、困難な問題に立ち向かうことができるし、たとえ問題が発生しても、「なんとかなるだろう」感覚で、問題解決に集中できる。
この3つの感覚を持つ人は、ストレス耐性が強く、心の病気にもなりにくいと考えられている。
だから?
たしかに、心の病気には無縁だろうけど、持って生まれたものだし、努力でどうこうなるものでもない。普通の人には、何のタシにもならないのでは!たしかに。では、この3つの感覚を、もう少しかみ砕いてみよう。
【人生肯定・感覚】
良いことも悪いことも、同じ人生。だったら、楽しくいかなきゃ、ソン。ただし、これは”理屈”が1割、”感覚”が9割なので、ムリに意識付けしても効果は薄い。
【未来予測・感覚】
自分の周囲のからみを分析し、将来を予測する。さらに、予測に基づき備える。これを習慣づければ、予測能力は向上し、多くの問題が想定内となる。これが諺にもある「備えあれば憂いなし」。3つの感覚の中で、唯一努力の成果が期待できる。
【何とかなる・感覚】
米国の人気ドラマ「24・Twenty four」の主人公ジャック・バウアーは、どんな困難なミッションでも、「何とかなる」で強引にクリアする。そんなジャックを、天敵ローガン元大統領はこう評した(ファイナル・シーズン)。
「ジャック・バウアーは、どんな困難な問題でも、必ず方法を見つけ出す。どこに閉じこめようが、地の底からでもはい上がってくる。だから、方法は一つしかない(ジャックを殺せ)」
さて、この程度の習慣づけなら難しくはないだろう。もちろん、1日意識したくらいではダメ。心のDNAを書き換えようというのだから。だが、やってみる価値はある。うまくいけば、「心のファイアーウォール(防火壁)」を築けるのだから。
《完》
by R.B