ユダの福音書(3)~12使徒~
■イエス教
イエス・キリストは実在したのだろうか?
それを示す確たる証拠はない。キリスト教徒以外による1次史料(※1)は見つかっておらず、言い伝え、聞いた話など、2次史料がわずかに残るだけだ。しかも、改ざんの疑いさえある。結局のところ、イエスを論じるには、新約聖書に頼らざるをえない。ところが、その新約聖書もあやしい。イエスの弟子の名が付された福音書でさえ、本人が書いたかどうか分からない。
ひょっとすると、イエスの目撃者が書いた史料など、存在しないのかもしれない。仮に、新約聖書のすべてを信じたとしても、イエスが伝道した地域は、狭いガリラヤ地方に限られ、期間も1~3年、信者はせいぜい数千人?この程度の宗教運動なら、歴史上枚挙にいとまがない。「イエス教」は、他の多くの宗教と同じく、歴史の中で消え去る運命にあったはず。ところが、現実はそうはならなかった。
確かなことは、2000年前のガリラヤに、救世主がいたにせよ、いなかったにせよ、それを起源とするキリスト教が出現し、地球の歴史を根底から揺さぶり、地球史上、最大の宗教までのし上がったことである。これは決定的であり、一切の証拠を必要としないだろう。では、無から有が生じた?宇宙がビッグバンで誕生したように・・・キリスト教ビッグバン?もし、それが起こったとすれば、イエスが磔刑に処せられた紀元30年前後だ。時間を巻き戻そう。
■キリスト教ビッグバン
イエス・キリストの死後、彼の意志はペトロを筆頭とする12使徒に引き継がれた。しかし、この時点では、キリスト教はユダヤ教の1セクトに過ぎず、偏屈者の集団と見なされていた。たとえば、多神教を信仰するローマ人たちは一神教が理解できず、キリスト教徒を忌み嫌った。
また、ユダヤ教徒たちは、イエスを神の子と言い張るキリスト教徒に我慢がならなかった。この時代を見るかぎり、キリスト教が生き残る望みなどなかった。この頃、敬虔なユダヤ教徒だったパウロ(サウロ)は、キリスト教徒の迫害に余念がなかった。
ところが、紀元34年、パウロは突如キリスト教に改宗する。パウロは、生前のイエスに一度も会ったことがないのに、なぜか?パウロが、ダマスカスへ向かう途中、復活したイエスが現れ、
「パウロよ、なぜ、わたしを迫害するのか?」
と責めたから。これが「パウロの回心」とよばれるもので、その後、パウロは「イエス教」拡大に人生を捧げた。ローマ人とユダヤ人は、キリスト教を嫌っていたので、パウロは異邦人に目をつけた。この頃の地中海世界は、ライバルの一神教はユダヤ教だけで、あとは多神教だった。
ところが、1つ問題があった。ユダヤ社会特有の割礼と厳格な戒律である。イエスの教えがどんなに心に響こうが、なじめない風習を持ち出せば、すべて水の泡。そこで、パウロはエルサレムに引きこもる12使徒に訴えた。キリスト教に改宗するときは、割礼と厳格な戒律を免除するように。
以後、パウロは、ローマからエルサレムにいたる広大な地域を伝道した。期間にして10年、距離にして地球半周。パウロは、間違いなく、キリスト教のトップセールスマンだった。
紀元65年、パウロはローマ皇帝ネロによって磔(はりつけ)にされたが、彼がまいた種は、大きく実を結んだ。キリスト教が、エジプトをはじめ地中海世界で急拡大したのである。それと同時に、多数の聖書も生まれた(異端も含めて)。おそらく、キリスト教ビッグバンが起こったのはこの頃である。
紀元313年、ミラノ勅令で、ローマ帝国内でのキリスト教の信仰が認められた。迫害が終われば、宗教は世俗化する。先ず起こるのが権力闘争だ。実際、そのわずか12年後、ニカイア公会議で、アタナシウス派とアリウス派が争った。アタナシウス派が勝利し、敗れたアリウス派は異端として抹殺された。
紀元380年、キリスト教にとって決定的事件が起こる。キリスト教がローマ帝国の国教になったのである。国教ともなれば、権威は王に匹敵する。ただし、それは神の権威ではなく、世俗の権威だ。結果、世俗化はさらに進み、宗教があるべき姿まで失われていく。イエスが、村人たちとともに婚礼を祝い、罪人を赦し、絶対愛を説く素朴な布教が、一転して、精神世界の支配者となったのである。
ここで、不思議な事実に気づく。現在、世界最多の信者を擁する「キリスト教」は、創始者イエスとあまり関係がないことだ。キリスト教というより「パウロ教」に近い。イエスとキリスト教との確実な接点は、「キリスト教のシンボル=イエス・キリスト」だけ?
おそらく、教義も、布教の方法も、「キリスト教」と「イエス教」は一致しない。イエスが、イエス教を高度に組織化し、マスの布教を行った記録はどこにもないのだ。このスキをついたのが異端の書だろう。主張は明快に、「正統派の書≠イエスを教え」その中の一つが「ユダの福音書」だ。最新のテクノロジーと、気の遠くなるような復元作業をへて、2006年に解読に成功した。グノーシス主義を継承する異端の書で、大胆にも、イエスの12使徒、正統派キリスト教会を一刀両断にし、ユダを称賛している。正統派にしてみれば、驚天動地のトンデモ本・・・
■ユダの福音書【ユダと12使徒】
ユダの福音書の最初のテーマは、「イエス12使徒の中で、ユダのみが聖人で、残り11人は地獄に堕ちる」
いきなりこれ?
ココロがもちそうにないが、順を追って見ていこう。
ユダの福音書によれば・・・イエスは地上に現れたとき、正しい道を歩む者と、罪の道を歩む者がいたので、12人の弟子たちが呼び寄せられた。ここまではいいのだが・・・ある日、弟子たち(12使徒)が集まって、信仰深く儀式を行っていた。イエスは弟子たちに近づいて笑った。弟子たちはイエスに言った。
「先生、あなたは、なぜ私たちの感謝の祈りを笑うのですか。私たちが何をしたというのです。これは正しいことではありませんか?」
イエスは答えて言った。
「わたしはあなたがたを笑ったのではない。あなたがたは、自分たちの意志でそうしているのではなく、そうすることで、あなたがたの神が讃美されると信じているから、そうしているだけである」
いきなり、笑われる12使徒。よかれと思ってやっているのに、邪悪な神にやらされているだけ、と看破されている。これでは、弟子たちもおさまりがつかない。それでも、頭を切り換え、イエスを讃える。弟子たちは言った。
「先生、あなたは、われわれの神の子です」
イエスは言った。
「あなたがたに、どうして、わたしがわかるのか。あなたがたの内にある人々のどの世代にも、わたしがわからないだろう」
身も蓋もない。せっかく、讃えたのに、
「お前たちや、お前たちの種族に、このわたしが理解できるはずがない」
と一刀両断。これでは高弟としての立場がない。元はと言えば、12使徒は罪の道を歩む者を更生させるために呼び寄せられたのでは?これを聞いて、弟子たちは腹を立てて怒り出し、心の中でイエスをののしり始めた。弟子たちが理解していないのを見ると、イエスは彼らに言った。
「なぜ、この興奮が怒りに変わったのか。あなたがの神が、あなたがたの内にいて、あなたがたに腹を立てさせたのだ。あなたがたの内にいる勇気ある人を取り出して、わたしの目の前に立たせなさい」
またもや、バカにされ、コケにされる弟子たち。しかも、弟子たちは邪悪な神に憑依され、操り人形になっていると言うのだ!弟子たちは口をそろえて言った。
「私たちにはそれだけの勇気があります」
しかし、イスカリオテのユダをのぞいて、イエスの前に立つ勇気のある者はいなかった。ユダはイエスの前に立つことができたが、イエスの目を見ることができず、顔をそむけた。ユダはイエスに言った。
「あなたが誰か、どこから来たのかを私は知っています。あなたは不死の王国バルベーローからやって来ました。私にはあなたをつかわした方の名前を口に出すだけの価値がありません」
ユダが何か崇高なことについて考えているの知って、イエスはユダに言った。
「ほかの者(他の12使徒)から離れなさい。そうすれば、神の王国の秘密を授けよう」
この一節は強烈である。第1に、12使徒が「バカのダメ押し」されたこと。第2に、正統派が悪魔と断罪するユダが、他の12使徒の上位にあることが示されたこと。さらにイエスは、朱に交わって赤くなる前に、他の弟子から離れよとユダに忠告している。どう考えても、位格においては、「ユダ>>ユダをのぞく12使徒」ここで、「不死の王国バルベーロー」とは、他のグノーシス主義の文書にも登場する「神の国」のことである。日本風に言えば天国。また、ユダが言う「あなたを遣わした方」とは、旧約聖書の唯一神ヤハウェのことではない。さらに上位にある存在をさす。つまり、イエスはその「至高の存在」の子であって、創造神ヤハウェの上位にあることを示唆している。(詳細はユダの福音書の後半で明らかにされる)
■ユダの福音書【聖なる世代】
つづいて、人間には2つの世代があることが示される。ユダの福音書・・・弟子たちはイエスに言った。
「先生、私たちと別れてどこへ行き、何をしておられたのですか」
イエスは彼らに言った。
「わたしはここではない、別の大いなる、聖なる世代のところへ行っていた」
弟子たちはイエスに言った。
「先生、私たちより聖なる大いなる世代とは何ですか」
イエスは、これを聞いて笑って言った。
「なぜあなたがたは心の中で、聖なる世代のことを考えているのか。このアイオーンに生まれて、あの世代を見る者はいないだろう・・・死を免れない生まれの人が、あの世代と交際することもない」
これはメガトン級の侮辱である。イエスが、弟子たちをまたバカにしている、という次元の話ではない。この世代の「死を免れない生まれの人(必ず死ぬ者)」は「聖なる世代」を見ることも、認知することも、交わることもできない、と断言しているのだから。「聖なる世代」はグノーシス派の定番で、天上から来た「不滅の世代」である。人間には2つの世代(種族)、「死ぬ者」と「不死の者」が存在するというのだ。これは重要なテーマらしく、ユダの福音書の後半で、繰り返し記されている。
■ユダの福音書【12使徒の正体】
ここまで、12使徒はさんざんバカにされたが、その理由は「真実が見えていない」からである。熱意はあるけど、ちょっとおバカな憎めない弟子たち、という役回り。
ところがここで、12使徒の恐るべき正体が明らかにされる。彼らは、世界を終わりに導く邪悪な指導者だというのだ。ユダの福音書・・・弟子たちはイエスに言った。
「私たちは見ました。大きな家があり、その中に大きな祭壇があり、12人がいて・・・彼らは祭司のようでした・・・名が記されています。そして群衆が祭壇のところで待っていると、祭司たちが献げ物を受け取ります」
イエスは言った。
「祭司たちはどのような人々か」
弟子たちは答えた。
「ある者は自分の子を犠牲としてささげ、他の者は妻をささげ、互いに賞賛し、また謙遜し合い、ある者は男と床をともにし、ある者は食肉の処理にたずさわり、ある者は多くの罪と不法行為を犯しています。そして、祭壇の前に立つ人々はあなたの名を唱え、自分たちの行いは不完全なのに、犠牲は燃えさかっています」
この一節は不吉だ。祭司たちは、子や妻を神に生贄(いけにえ)としてささげ、それを誇り、男色にふけり、罪を犯している。さらに、イエスの名を唱え、やましい行いをしている、と言っているのだ。ユダの福音書・・・そう言うと、彼ら(12使徒)は黙った。心が騒いだからである。イエスは言った。
「なぜ心を騒がせるのか。本当にわたしはあなたがたに言う。その祭壇の前に立つ祭司たちは皆、わたしの名を唱えているのだ・・・彼らはわたしの名によって、恥ずべきやり方で、実がならない木を植えた」
祭壇の前に立つ祭司は皆、イエスの名を唱え、その名を利用して、恥ずべき方法で、不毛の布教を行ったと言っている。そしてついに、イエスは12使徒の正体を暴く。イエスは言った。「あなたがたが見た献げ物を受け取っていた人々、それがあなたがたの正体である。それがあなたがたが仕える神であり、あなたがたが見た12人はあなたがたである。あなたがたが見た牛は、犠牲としてささげられたものであり、あなたがたが迷わせて、その祭壇の前に連れて行った人々である」驚くべき結末。12使徒が見た白日夢・・・偽りの神に仕え、人々をたぶからせ、献げ物を要求する12人は、じつはイエスの弟子(12使徒)だったのだ。
■ユダの福音書【キリスト教会の正体】
ユダの福音書は、12使徒のみならず、その継承者、正統派キリスト教会にも言及している。ユダの福音書・・・イエスは言った。
「この世界の支配者は立ち上がって、わたしの名を用いるだろう。そして、代々の信仰深い人々は、彼に従い続けるだろう。彼の後には、みだらな者たちから別の一人が立ち・・・彼らはすべて終わりに導く星である・・・終わりの日に、彼らは恥に落とされるのだ」
恐ろしい予言である。この世界の支配者は、イエスの名を利用して、信仰深い人々をたぶらかし、彼らを隷属させる。さらに、この支配者を継いで、新しい支配者が立つが、彼らはみな、世界を破滅させる運命を背負っている。そして、終わりの日(審判の日?)に、彼らは地獄に堕ちる・・・
ここで、「世界の支配者」とは、ローマ帝国の皇帝だろう。ローマ皇帝は、キリスト教を帝国支配に利用したからである。これが、「イエスの名を利用して人々を支配する」を意味するのかもしれない。しかし、ユダの福音書の文脈に重きをおけば、「世界の支配者」はイエスの12使徒、パウロ、正統派キリスト教会だろう。キリスト教がローマの国教になった後、正統派キリスト教会は世俗の王に匹敵する権威をもつようになった。それが、「イエスの名を利用して人々を支配する」と解釈できるからだ。
とすれば、審判の日に地獄に堕ちるのは正統派キリスト教会?
まさに、超弩級の異端・・・
参考文献:
(※1)1次史料とは、その時、その場で体験した当事者によって記された書。それ以外は、伝聞、伝承をもとに書かれたもので、2次史料とよばれる。
(※2)「原典ユダの福音書」ロドルフ・カッセル、マービン・マイヤー、グレゴール・ウルスト、バート・D・アーマン編集/日経ナショナルジオグラフィック社
by R.B