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週刊スモールトーク (第131話) ユダの福音書(2)~グノーシス~

カテゴリ : 思想

2009.09.06

ユダの福音書(2)~グノーシス~

■キリスト教グノーシス派

今から2000年前、キリスト教正統派はこう説いた。
「世界は唯一絶対神が創造し、イエスキリストは人間の罪を背負うため降臨した」

一方、キリスト教グノーシス派はそのすべてを否定した。危機感をつのらせた正統派は、強硬手段にでる。グノーシス派を異端として糾弾し、その書をことごとく焼き捨てたのである。

キリスト教の教義は大きく2つある。天地創造の物語と、イエスの言行録だ。天地創造は、正統派の書が「旧約聖書」、グノーシス派の書が「旧約外典」である。一方、イエスの言行録は、正統派が「新約聖書」で、グノーシス派が「新約外典」。これを整理すると、

【両派の聖書】
正統派
グノーシス派
天地創造の物語
旧約聖書
旧約外典
イエスの言行録
新約聖書
新約外典

つまり、正統派は「○○聖書」、グノーシス派は「○○外典」。

■正統派対グノーシス派

つぎに、正統派とグノーシス派の主張の違いをみていこう。

【神について】

正統派によれば、

・この世界を創造したのは、唯一絶対にして全知全能の神である。

・神は、天と地、見ゆるもの、見えざるもの、すべてを創造した。

一方、グノーシス派によれば、

・この世界を創造した神(旧約聖書の神ヤハウェ)は、唯一絶対神ではない。

・全能にはほど遠い、無知で傲慢な劣位の神である。(全能の神が、こんな災いだらけの不完全な世界をつくるわけがない)

【救済について】

正統派によれば、

・人間はアダムとイブの原罪を継承している。

・原罪は重く深く、それゆえ、「神のゆるし」がない限り消えることはない。

・時は満ち、神の国は近づいた。

・悔い改めて、福音を信じれば、救済される。(福音:神のメッセージ)

一方、グノーシス派によれば、

・この物質世界は、我々を肉体に閉じこめておく邪悪な世界である。

・我々にとって救済とは、この物質世界から逃れ、天の家に還ることである。

・そのためには、何をすればいいのか?

・悔い改めても、善行を積んでも、意味はない。

・唯一、真理を「知る」ことによってのみ、救済される

グノーシス派はさらに補足する。

・ただし、すべての人間が救済されるわけではない

・救済されるのは、内に輝く神性を宿す人間だけである。

・その他の人間は、動物と同じくこの世界の創造神の産物で、死んだら「おわり」。

「その他の人間」にとっては身もふたもない。こんな紋切り型の「弱者切り捨て」では、世界宗教はムリだろう。神性があろうがなかろうが、ウソだろうがなんだろうが、
「必ずあなたは救われます」
と言い切らなくては、正統派のように。

【イエスについて】

正統派によれば、

・イエスは、この世界を創造した神の子である。

・イエスは、人間の罪を背負うために降臨した。

一方、グノーシス派によれば、

・イエスは、この世界を創造した神の上位にある

・イエスは、秘密の知識を授けるために降臨した。

ということで、両派の主張はかなり違う。正統派がグノーシス派を執拗に敵対視したも無理はない。グノーシス派はことあるごとに、「知識」をひけらかし、したり顔で正統派を愚弄したからだ。イエスの死後、正統派は教会の権威を高め、精神世界の覇者たらんとした。世俗の王が、物質世界を支配したように。旧約聖書と新約聖書はそのための神聖なマニュアルだった。ところが、グノーシス派はそれを否定し、唯一絶対神をもあざ笑ったのである。

■神秘主義

このような危険な?グノーシス派がよりどころとしたのが、グノーシス主義(グノーシス思想)である。じつは長い間、
「キリスト教グノーシス派=グノーシス派」
と考えられてきた。ところが、1945年に発見された「ナグハマディ文書」の中には、ユダヤ教、キリスト教とは無関係のグノーシス文書も含まれていた。おそらく、初めに「グノーシスの種」があって、それがキリスト教にのりうつり、キリスト教グノーシス派として実体化したのだろう。

「グノーシスの種」は紀元前4世紀ギリシャの「プラトン哲学」にまでさかのぼる。その名のとおり、哲学者プラトンが生みだし、アリストテレスがもんで、西洋哲学の起源となった。この思想をベースに、地中海世界で「グノーシス主義」、エジプトでは「ヘルメス学」、ヘブライでは「カバラ」が生まれた。そして、相乗的に神秘主義を育んでいったのである。どれがニワトリか卵かはわからないが。

「ヘルメス学」は、西洋神秘主義の代名詞となったが、教義のすべてが怪しいわけではない。たとえば、ヘルメス学には次の一節がある。
上なるものは下なるものの相似である

平たく言えば、この世界はマクロで見てもミクロで見ても、同じ形をしている。好意的にとらえれば、かつて一世を風靡した「複雑系」を彷彿させる。「複雑系」とは、多数の要因がからみあって全体を構成する系である。従来の数学的アプローチでは解けないので、コンピュータが得意とする逐次的、近似的な手法で問題を解く。

たとえば、入り組んだ海岸線のギザギザは、遠目で見ても、近くで見ても、同じような形をしている。このように、縮小しても拡大しても同じ図形が現れる形を「フラクタル図形」とよんでいる。同じ形が、大から小にシームレスに転写されていく、いわば自己相似形だ。このようなフラクタル図形は、自然界にも多く存在するという。たとえば、海岸線のギザギザや、雪山の凹凸。

フラクタル図形は、単純なルールの繰り返しで描けるので、コンピュータお得意の分野だ。代数方程式や微分方程式のような敷居の高い数学は不要。それに、この方法で描かれた海岸線や雪山は、とてもリアルに見える。一方、「水も漏らさぬ論理でたたみ込んでいく」数学らしい厳密さは感じられず、いかにも工学的だ。

ということで、先のヘルメス学の金言は、科学と言えないこともない。さらに、ヘルメス学は錬金術まで言及している。錬金術は「鉛を金に変える」を意味し、限りなく怪しい。原則、量子力学がベースの元素変換技術がないとムリ。とはいえ、かの天才ニュートンも、晩年、はまった分野だ。中味はさておき、実験風景だけ見れば、「化学」と言えないこともない。

ということで、

「ヘルメス学=科学×神秘主義=フリンジ(疑似科学)

また、「カバラ」はユダヤ教に準じた神秘主義思想である。じつは、カバラには、死んだ人間を蘇生させる秘術がある。秘密の呪文を唱え、死人を土で再生するのである。ところが、肉体はあっても魂がない。つまり、幽霊の逆。幽霊よりこっちのほうがよっぽどコワイ。

最後に、神秘主義の原点となった「プラトン哲学」について。プラトンは、物質界(物質世界)の上に、イデア界(イデア世界)があると考えた。イデアとは、永遠不滅の真実であり、究極まで抽象化され、実体をもたない。そのため、劣化することも朽ち果てることもない。一方、我々が住む物質界は、邪神「デミウルゴス」が、イデア界をひな形に模造したものだという。

つまり、イデア界はテンプレートで、物質界はその実体

もしプログラマーなら、これを読んでソワソワするかもしれない。

「イデア界はクラスで、物質界はインスタンス?」

ビンゴ!プログラミング手法「オブジェクト指向」の説明で、これに優るものはないだろう。プログラマーは無意識のうちに、プラトン哲学を実践しているのだ。プログラミングは「自然科学+人文科学」というとても珍しい科学なのである。

ところで、大哲学者プラトンが、こんな怪しい説を唱えていた?しかり!プラトンの著書「ティマイオス」の中には、次の一節がある。
世界の霊が、世界の体に磔(はりつけ)にされた
人間の霊が物質世界に固定され、身動きがとれなくなったと言っているのだ。神秘主義は物質より霊に重きをおくが、プラトン哲学はその原点なのである。

古代ギリシャ・ローマの時代、科学と宗教は共存共栄していた。ところが、キリスト教が浸透すると状況は一変する。科学と宗教は鋭く対立し、科学は「疑う」ことで進化をとげ、宗教は「信じる」ことで停滞した。ともに、究極の目的は「真理の追求」にあるのに。

真理を極めるという点で、宗教のアプローチ「信じることから始めよう」は賭けにみえる。発生時点の教義を真理と決め打ちし、「カイゼン」を放棄しているからだ。その教義が正解ならハッピーだが、そうでない場合、真理には永遠に到達しない。だから、伸るか反るかの大バクチ。一方、科学はこんなリスクをヘッジするため、「疑い」と「カイゼン」をスローガンにしている。

■グノーシス主義

ここで、話をグノーシス主義にもどそう。グノーシス主義はプラトン哲学を起源とすると書いたが、その根拠はプラトンの次の一節にある。
「人間は感覚でイデアを認知できないが、『理性』を通してなら可能である」

「イデア」とは世界の設計図、神の領域にあり、その産物に過ぎない人間に理解できるわけがない。しかし、「理性」を介してならそれが可能、というわけだ。プラトンがいかに理性を重要視したかがわかる。このような哲理は、グノーシス主義の核心に一致している。

実際、グノーシス主義によれば、

・偽りの地上界(物質界)と真実の神の国(イデア界)→二元論

・神の国に還るには、秘密の知識を得るしかない→「知る」ことの重要性

プラトンの哲理そのままである。

そもそも、「グノーシス【Gnosis】」は、古代ギリシア語で「知識、知ること」を意味する。さらに、「グノーシス派=知る人々」。グノーシス主義にとって、「知る」ことがいかに重要か。つまり、グノーシス主義はプラトン哲学の正統な継承者なのである。一方、グノーシス主義は「五感で認知できない真理」を知識として体系化した点で、「オカルティズム」に酷似している。ただし、ここでいう「オカルティズム」は、本来の「隠されたもの」の知識体系をさし、世間を騒がすカルト集団とは関係ない(直接的に)。

グノーシス主義は、キリスト教のみならず、他の宗教にも大きな影響を与えた。例えばマニ教。じつは、マニ宗教は、大胆にも、グノーシス主義を正統派として受け入れている。マニ教は、3世紀頃、サーサーン朝ペルシャのマニによって開かれた。教義は、
「ゾロアスター教+ユダヤ教+キリスト教+仏教+グノーシス主義」
と絢爛豪華だが、ハイブリッド(混合)で”融合”には到っていない(と思う)。

マニがサーサーン朝のシャープール1世に重用されると、マニ教は急拡大した。ところが、ゾロアスター教がサーサーン朝の国教になると、一転、迫害の対象となった。マニ自身も磔刑に処せられたという。その後、マニ教は世界宗教にまでのし上がるが、現在はほぼ消滅。地域にあわせ、日和見的にアレンジしたことが「カリスマ」を消失させたのかもしれない。テクノロジーにしろ、宗教にしろ、ハイブリッドは常に短命である。

■ユダの福音書

そして、「ユダの福音書」も正真正銘のグノーシス主義。その中には、これまで発見されたグノーシス書にはない記述もある。表題に冠せられた「ユダ」に関して。驚くべきことに、ユダはイエスに最も愛された弟子で、イエスを救済したというのである。

グノーシス派の主張には、あるパターンがある。正統派が「悪」とするものを讃え、それをテコに反論するのである。例えば、アダムの子アベルを殺したカインを崇拝する一派、神に滅ぼされた悪徳の町ソドムとゴモラを肯定する一派など。とすれば、「ユダの福音書」の狙いも明白ではないか。正統派が悪魔とののしるユダを持ち上げ、返す大刀「ユダ」で正統派を一刀両断?

《つづく》

参考文献:
「原典ユダの福音書」ロドルフ・カッセル、マービン・マイヤー、グレゴール・ウルスト、バート・D・アーマン編集/日経ナショナルジオグラフィック社

by R.B

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