大航海時代(10)~マゼランの世界周航~
■球体の氷
「あなたの一番好きな形は?」
長いこと、この質問を待っているのに、誰も聞いてくれない。答えは「球体」。夜の街にくりだすと、たいてい、スコッチかバーボンをロックで飲むのだが、氷は「球体」と決めている。もっとも、金沢で「球体の氷」を出してくれる店はほとんどない。ロックで飲む客が減ったからだろう。
ところで、なぜ、「球体」なのか?
「体積が同じなら表面積が最小だから」
つまり、溶けにくい。スコッチは氷を入れた瞬間が最高で、すぐに、”水増し”が始まる。スコッチを長く楽しむには、球体の氷が一番なのだ。見た目もいいし。
そして、我々が住む地球も球体。宇宙のどこを探しても、四角い惑星などないだろうから、球体は自然法則と相性がいいのだろう。それにしても、球は不思議な形だ。まず、半径だけで形状を定義できる。パラメータ1つで、造れる立体なんて、他に思いつかない。しかも、点対称かつ線対称かつ面対称。完全無欠の「形」といっていいだろう。
また、生物にとっても、球体は相性がいい。もし、惑星が立方体なら、重心に向かって重力が働くので、ほとんどの平面が滑り台と化す。滑らないのは、点と重心とを結ぶ直線が、垂線と平行な点のみ。一方、球体なら、球面のすべての位置が、垂線と重力線が一致するので、滑らなくてすむ。我々が地表を転げ落ちずにすんでいるのは、球体のおかげなのだ(ドーデモいい話だが)。
ところで、地球が球体なら、地球上の2点を結ぶ直行ルートは2つある。右回りと左方回り。これを大航海時代にあてはめると、ヨーロッパからアジアに行くルートは2つ。東回りと西回り。歴史年表によると、前者はヴァスコ・ダ・ガマが発見し、後者はクリストファー・コロンブスが発見するはずだった。
■スパイスアイランドへ
コロンブスは時空を超えて有名だが、晩年は惨めなものだった。自分が創設した植民地経営に失敗し、スペイン王フェルナンド5世に冷たくあしらわれたからである。一方、フェルナンド5世はコロンブスの「西回りでアジアに到る」アイデアをしっかりパクっている。1505年、黒ブドウの名産地トロで秘密の会議を開き、航海者たちに、
「西回りでスパイスアイランド(香料諸島)に到達せよ」
とはっぱをかけているから。
ところで、スペイン王室はなぜ、
「西回りでスパイスアイランドへ」
に執着したのか?ライバルのポルトガルを出し抜いて、香料貿易を独占するため。この頃すでに、ポルトガルは、アフリカの喜望峰を経由する東回りのインド航路を開発していた。であれば、スペインもその航路を利用すればいいのでは?ポルトガル専用のレールが敷かれているわけじゃあるまいし。
ところが、この時代、木造帆船で長駆航海するには、船の修理と補給のための基地が欠かせなかった。ポルトガルのインド航路の価値は道筋にあったわけではない。本国とインドを結ぶ長大な補給基地ネットワークにあったのである。これらの基地を一つ一つ占領していくのは大変だ。そんな手間を掛けるくらいなら、手つかずの西回り航路を開発したほうがいい、というわけだ。
一方、スペイン王室のこの計画はポルトガル王室の知るところとなった。スペインが西回り航路を確立すれば、香料貿易のうまみは半減する。へたをすると、丸取りされるかもしれない。一刻もはやく、東回りの香料ルートを盤石なものにする・・・こんな強迫観念が、ポルトガル王マヌエル1世をかきたてた。1506年、フランシスコ・デ・アルメイダに代わり、マヌエル1世お気に入りのアフォンソデアルブケルケが新しいインド総督に任命された。アルメイダと一悶着あったものの、1508年、アルブケルケは正式にインド総督に就任した。
マヌエル1世がアルブケルケに与えた命令は、単純明快だった。スペインを廃し、香料貿易を独占すること。1510年、アルブケルケはインドのゴアを征服し、アジア植民地の統括拠点にすえた。つづく、1511年、香料の中継貿易で栄えたマラッカ王国を占領。翌年には、スパイスアイランドに達した。アルブケルケは軍神と言われるほど優れた指揮官だったが、戦略家としても優れていた。そのアルブケルケが描いたグランドデザインとは、
「リスボンとスパイスアイランド一本道で結び、香料貿易を独占する」
大航海時代、最も重要な交易品の1つが香辛料(調味料の1つ)だった。その中で、特に価値があったのがチョウジ(丁子)とニクズクである。この2つはスパイスとよばれたが、スパイスアイランド(香料諸島)でしか産しなかった。スパイスアイランドは、ニューギニアの西方にあり、マルク諸島とバンダ諸島を含む、東西に600km、南北に300kmの狭い地域である。ポルトガルは、まず、チョウジ(丁子)を産するテルナテ島と、ニクズクを産するバンダ諸島に進出した。
もし、ポルトガルが、
「ポルトガル→喜望峰→インドのゴア→マラッカ→スパイスアイランド」
の大航路を確立すれば、スペインの劣勢はまぬがれない。香料貿易は国家の盛衰にかかわる重大事である。スペインは西回り航路の発見を急いだ。
■西回り航路を求めて
ところが、西回り航路には大きな問題があった。西進をはばむ未知の大陸(南北アメリカ)である。スペインは、この大陸を抜ける海峡の発見に血眼になったが、すべて失敗に終わった。今は衆知だが、南北大陸を直接抜ける海峡は存在しない。パナマ運河が開通するのは、400年後のことである。
バスコ・ヌニェス・デ・バルボアは、スペインの探検家だった。バルボアは、1500年、先の海峡探しに加わり、その後、イスパニョーラ島に入植した。ところが、農場経営に失敗、その後、心機一転、パナマ東部のダリエンに入植した。そこで、総督の地位を奪った後、黄金を求めて、西に向かった。パナマ地峡を抜け、南アメリカ大陸を横断したのである。すると、眼前に未知の大海(太平洋)が広がっていた。
バルボアは、初めてみるこの海を「マル・デル・スール(南の海)」と命名した。さらに、この海の先にあるすべての土地をスペイン領と宣言したのである。どんな文明があって、誰が住んでいるかもわからないのに、「自分のもの」と言い切るおおらかさ(厚かましさ)は、やっぱり、ラテン系?
ところが、スペイン王室はこの発見に興味を示さなかった。なぜか?スペインからカリブ海沿岸まで船で行き、そこで船を解体し、陸路、太平洋側まで運び、再び船を組み立てて、出航・・・というわけにいかないから。大量輸送は、海上は船、陸上は鉄道しかないが、この時代、鉄道はまだ発明されていない。だから、陸路は嫌われたのである。
1514年、フワン・デ・ソリスは、スペイン王フェルナンド2世から、南アメリカを回ってスパイスアイランドに行くよう命じられた。もし、成功していたら、ソリスはガマと並んで、歴史的名声を得ていただろう。1515年10月、ソリスの船団は、スペインを出帆、ブラジル沿岸に達し、そのまま南下した。やがて、海峡らしきものを発見、そのまま太平洋に抜けるかと思われたが、ただの河川(ラ・プラタ川)だった。ソリスは意気消沈したが、このとき、土地の先住民チャルア族と遭遇している。
4年後の1520年、ソリスは再びこの地を訪れたが、今度は最悪だった。チャルア族に殺され、食べられたのである。ただ、チャルア族を野蛮な人食い人種と決めつけるのは早計かもしれない。ソリスが高飛車な態度にでたからである。しかも、チャルア族は誇り高い民族であった。その後、スペイン人はこの地に進出したが、チャルア族の激しい抵抗にあい、植民地化は困難をきわめた。
さらに、この地をめぐって、スペインとポルトガルが争い、ついで、フランスとイギリスが戦い、さらに隣国のアルゼンチンまで参戦するという混乱ぶりであった。この地が、ウルグアイ東方共和国として独立するのは、1828年のことである。ところが、このとき、先のチャルア族の姿はなかった。16世紀末に絶滅したのである。大航海時代、ヨーロッパ人がアジア、オーストラリア、南北アメリカに押しかけ、どれだけの民族が絶滅したことか。ただし、これはヨーロッパ人に限った話ではない。人類の歴史とはこういうものなのである。
■フッガー家の暗躍
1517年、ポルトガル人フェルディナンド・マゼランは、祖国を捨て、スペインにやってきた。ポルトガルを裏切り、スペインに寝返ったのである。理由はポルトガル王に冷たくあしらわれたから・・・詳細は不明だが、よほど腹が立ったらしい。スペイン王カルロス1世に、秘密のアイデアまで教えているのだから。
「大西洋を西航し、スパイスアイランドに行き、そのまま世界を一周する」
この計画は、マゼランの名を不滅のものにしたが、カルロス1世にとっても渡りに船だった。
壮大な計画だが、マゼランのキャリアを考えれば、大ボラというわけではない。マゼランは、ポルトガルの初代インド総督アルメイダと、第2代総督アルブケルクに仕え、インドやスパイスアイランドに精通していた。その後、アルブケルケのもとを去り、モロッコ遠征で負傷し、びっこになったといわれる。そして、ポルトガル王との衝突・・・スペイン王室にとって願ってもない人材が、向こうから転がり込んできたわけだ。それでもまだ問題は残っていた。おカネ・・・
マゼランの船団は、5隻の船と265人の乗員で編成されたが、王たるもの、これっぽちの資金も用立てできない?そう、この頃の国王は貧乏だった。それどころか、借金まみれ。この時代、軍費は国王個人が金融業者や商人から調達していた。中央銀行が設立され、銀行券を独占的に発行し、軍費調達が王個人から分離されるのは、18世紀以降である。マスケット銃の発明で軍費が暴騰し、国王といえども、個人でまかなえなくなったからである。
ということで、スペイン王カルロス1世も借金で首が回らなかった。キリスト教最強国の王だったにもかかわらず。カルロス1世は、カスティリャ王国のイサベル女王とアラゴン王国のフェルナンド王の孫として、スペイン王位を継承していた。しかも、ドイツ王にして、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世を祖父にもつ。まぁ、血筋と金持ちとは必ずしも一致しないのだが。
カルロス1世は、1516年にフェルナンド5世が死去すると、後を継いでスペイン王となった。つづいて、1519年にマクシミリアン1世が死ぬと、カール5世として、神聖ローマ帝国皇帝に即位。このときは、選帝侯を買収するため、ドイツのフッガー家から莫大な借金をしている。ちなみに、選帝侯とは神聖ローマ皇帝やドイツ王の選挙権をもつ有力諸侯のことである。さらに、フッガー家は、マゼランの大航海にも多額の資金を用立てた。フッガー家は、カルロス1世(カール5世)を影で操る大商人なので、スペイン王室の事業に融資するのは当然だが、別の理由もあった。
ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見するまでは、香料は3つのルートをへて、アジアからヨーロッパまで運ばれた。
1.アジア→アレクサンドリア(イスラム商人)
2.アレクサンドリア→イタリア(ヴェネツィア商人、ジェノヴァ商人)
3.イタリア→ヨーロッパ(フッガー家)
ところが、ガマのインド航路発見によって、ポルトガルは、アジアからヨーロッパまでの香料直行ルートを確立した。フッガー家が香料貿易にからむには、ポルトガル王室に食い込むしかない。ところが、ポルトガル王室のバックにはジェノヴァ商人がいる。そこで、消去法でスペインの西回り香料貿易に食いついたのである。フッガー家がマゼランの航海を援助した一番の理由はここにある。
この頃の香料貿易を俯瞰(ふかん)すると、
1.喜望峰経由の東回り航路を推進する「ポルトガル&イタリア商人」
2.太平洋経由の西回り航路を推進する「スペイン&ドイツ商人」
の2大勢力が対立していたことがわかる。
■マゼランの世界周航
1519年9月20日、マゼランの船団は、スペインのサン・ルカールを出帆した。この頃、ポルトガルの船団は大型のキャラック船が採用されていたが、マゼランの船団は小型のキャラベル船だけだった。船の総数は5隻、乗員は265人で、ほとんどがスペイン人。隊長のマゼランはポルトガル人なので、乗員が面白いはずがない。それにくわえ、命懸けの航海である。反乱は日常的にくすぶり、ときには現実となった。
1519年11月末に、ブラジル沖合に達し、その後、南アメリカ東岸にそって南下した。1520年1月10日、ラ・プラタ川の河口に到着。ラ・プラタ川は、先のソリスがチャルア族に食われた場所である。その後、3月末には、パタゴニアのセント・ジュリアン港に着岸した。そこで越冬。ところが、その間に、再び反乱が起こった。しかも今度の首謀者は、なんと船長。マゼランは裏切り者を陸に置き去りにし、出港した。そして、10月、太平洋に抜ける海峡を発見した。「マゼラン海峡」である。
ところが、この海峡は岩が多く、航海は困難を極めた。1隻が難破し、1隻は本国に逃げ帰ったほどである。1520年11月28日、マゼランの船団はついに太平洋に抜けた。その後、南緯37度まで北上した後、針路を西北にむけ、太平洋に乗り出した。ところが、それからが地獄だった。3ヶ月も、新鮮な食べ物にありつけなかったのである。水は雨でなんとかなったが、食べ物は完全に枯渇した。
同行したピガフェッタの航海記に、そのときの惨状が記録されている。
「ビスケットは粉くずになって、虫がうじゃうじゃとわいており、ネズミの小便の匂いがムッと鼻についた。水は日数がたちすぎて黄色くなって腐敗していた。帆桁に張りつけた牛の皮、オガクズ、ネズミなども食べた。そして、何人かの隊員の歯茎が歯まで腫れてきて、どうしても食物がとれなくなり、19人が死に、30人が重病、健康な者はわずかしかいなかった」(※2)
これが夢の大航海時代の現実である。
1521年3月6日、マゼランの船団はグアム島に着岸した。先住民がいたので、ひさびさに新鮮な食料にありつけた。1521年3月16日、フィリピン諸島に達し、4月7日にはセブ島に上陸した。そこで、マゼランは首長と友好条約をむすぶ。ところが、それが気に入らない隣のマタン島の首長と戦闘になった。4月27日、マゼランは敵が放った大石に直撃され死ぬ。あっけない最期だった。
この後、マゼラン隊にさらなる不幸が襲う。隊長のマゼランが死んだことで、セブ島の首長が変心したのである。5月1日、首長はスペイン人を宴会に招待し、参席した24人全員を殺害する。残されたスペイン人たちは、3隻の船に乗り込み、命からがら出帆した。ところが、1隻が航行不能になったため、廃棄。航行可能な船は、旗艦のトリニダード号とビクトリア号だけになった。
1521年11月6日、マゼラン隊は、ついにマルク諸島に達した。夢にまでみたスパイスアイランドである。11月8日に、ティドール島に上陸し、さっそくスパイスを買いつけた。12月までに取引を終え、1521年12月21日、ビクトリア号はスパイスを満載し、出航した。ビクトリア号に乗船したのは47名で、51名は島にとどまった。トリニダード号の傷みがひどく、出帆できなかったのである。
その後、トリニダード号の修理は終わったものの、本調子にはほど遠かった。西回りで、長躯スペインまで行くのはムリだった。そこで、太平洋を東進し、パナマまで引き返すことにした。その方が近いからである。パナマまで行けば、陸路、カリブ海側の基地まで行き、そこから、船で故国に帰れる。
ところが、出帆したものの、遅々として進まない。太平洋の北半球は、北東の貿易風が吹く。つまり、逆風。結局、途中であきらめ、マルク諸島に引き返さざるをえなかった。あげく、テルナテ島のポルトガル人に拉致されてしまう。
一方、ビクトリア号は、ポルトガル勢力下のインドとアフリカ沿岸をさけ、インド洋をまっすぐ喜望峰に向かった。そして、1522年9月6日、スペインのサン・ルカール港に帰還した。地球一周8万km、3年におよぶ歴史的大航海は終わったのである。5隻の船は1隻に減り、265名の乗員は18名に、隊長のマゼランは途中で戦死。壮絶な大航海であった。
■太平洋横断航路
こうして、マゼラン隊は、歴史上初の世界一周をなしとげたが、商売としてはどうだったのだろう?船の生還率20%、乗員の生存率は7%以下・・・こんなすさまじい損害ではさぞかし大損だったのでは?
ところが、収支を計算すると、
(スパイスの売上高-航海の経費)÷投資額=利益率4%
10億円投資すれば、10億4000万円がゲットできる。悪くない投資だ。ならば、
「スペイン→大西洋→マゼラン海峡→大平洋→スパイスアイランド」
の定期便を運行すれば、香料貿易で大儲けできる。スペイン王カルロス1世は、さっそく、後続船団を送りだした。
1525年、スペインのガルシア・デ・ロアイサは、7隻の船団で出帆した。ところが、航海はトラブル続きで、ティドール島に着いたのはたったの1隻。しかも、目と鼻の先のテルナテ島には、宿敵ポルトガル人が陣取っている。スペイン側の劣勢は明らかで、生きのびるには援軍が必要だった。とはいえ、遠くスペイン本国からは望めない。
その頃、スペインの探検家エルナンド・コルテスは、アステカ文明を征服した功績により、ヌエバエスパーニャの総督に任じられていた。現在のメキシコ全域を統括する責任者である。1523年、コルテスは3隻の援軍を出帆させた。ところが、ティドール島に着いたのは、やはり1隻。最終的に、ティドール島のスペイン人はポルトガル人に捕らえられてしまった。
ここで、太平洋横断の損耗率を計算してみよう。ロアイサの船団は86%、コルテスの援軍は66%、目をおおうような大損失である。おそらく、マゼランは極めて優秀な航海者だったのだろう。しかも、強運(最後をのぞけば)。つまり、マゼラン隊は出来過ぎだったのである。この冷酷な現実は、カルロス1世を十分にへこませた。嫌気がさしたカルロス1世は、1529年、マルク諸島の権利をポルトガルに売り払ってしまった。
大平洋の横断はこれほど危険な航海だった。成功率10~30%。失敗は即、死を意味する。ところが、やがて、この問題は解決される。1565年、アンドレス・デ・ウルダネータが、フィリピン諸島とメキシコのアカプルコを結ぶ新航路を発見したのである。この航路は、
「フィリピン諸島(北緯10度)→北緯40度→アカプルコ(北緯17度)」
という大円を描く。緯度に注目すると、いったん、北緯40度あたりまで北上し、その後、再び南下する。平面地図上で見ると、遠回りだが、球面上ではこれが最短距離となる。
このような、地球の最短距離コース(大圏航路)は、大平洋横断を大きく前進させた。1571年には、ロペス・デ・レガスピは、フィリピン諸島最大のルソン島に、マニラ市を建設した。マニラとアカプルコを結ぶ定期航路が開設されたのである。こうして、16世紀末には、ポルトガルは東回りで、スペインは西回りで、それぞれアジアへの貿易ルートを確立した。大航海時代も、いよいよ、スペインとポルトガルの最終決戦へ・・・ところが、思わぬ伏兵が現れる。
参考文献:
(※1)増田義郎著「大航海時代」世界の歴史13講談社
(※2)長澤和俊著「世界探検史」白水社
by R.B