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週刊スモールトーク (第120話) 大航海時代(5)~ポルトガル海上帝国~

カテゴリ : 歴史

2009.02.01

大航海時代(5)~ポルトガル海上帝国~

■ジェノヴァの商人

ポルトガルは、ヨーロッパの西端にある小さな国である。

国土面積は日本の1/4、人口は1000万人ほど。オリーブ油とワイン以外、これといった産業もない。ところが、歴史上燦然と輝く大航海時代は、この小さな王国から始まったのである。ポルトガルが大航海時代を先行した理由は3つある。王室が海洋貿易を主導したこと、ジェノヴァ商人が参加したこと、地理に恵まれたことである。

ポルトガルはイベリア半島の西方にあって、大西洋に面している。しかも、南北に長く伸びて、寄港地が並ぶので、航海者にとって都合が良かった。13世紀、イタリアの商業都市ジェノヴァとヴェネツィアは、地中海貿易の覇権をめぐって激しく争っていた。そのとき、ジェノヴァが目をつけたのがフランドル地方だった。フランドルは英語名フランダース、日本では童話「フランダースの犬」以外あまり知られていない。ところが、ヨーロッパでは経済と文化の中心地として有名である。

中世のフランドルは、現在のベルギーを中心にフランス、オランダの一部を含む地域で、北部は北海に面していた。13世紀以降、毛織物工業を中心に商業が大発展し、大砲の生産でも世界一を誇った。都市部では、裕福なブルジョアが台頭し、独特なフランドル文化も生まれた。中でも有名なのが、フランドル絵画である。15世紀に、ファン・エイク兄弟が油彩技法(油絵)を確立し、16世紀には、ブリューゲルが素朴な農民生活を描いた。17世紀に入ると、巨匠ルーベンスが立体的でダイナミックな画法で革命を起こす。眺めているだけで、無数のシーンを連想させる不思議な力がある。童話「フランダースの犬」の中で、主人公ネロが憧れるのもこのルーベンスだ。

このような「商業の発達→都市の繁栄→ブルジョアの台頭→文化の発展」の歴史の方程式は、北イタリア都市とルネッサンスにもあてはまる。豊富なヒト・モノ・カネにくわえ、高い文化を誇るフランドル地方に、ジェノヴァ商人が目をつけたのは自然の成り行きだった。

ジェノヴァ商人は、フランドル地方と地中海を結ぶ交易の乗り出した。

1.フランドル地方の毛織物を地中海世界に運ぶ。

2.東アジアの香辛料や地中海のオリーブやブドウ酒をフランドルへ運ぶ。

問題は貿易ルートである。ジェノヴァ商人は、地中海からジブラルタル海峡を抜け、大西洋を北上し、そのまま北海に入り、フランドル地方に到る。何の変哲もない海路だが、一つ問題があった。「大西洋」である。

この時代、ジェノヴァ商人が利用したのはガレー船だった。ガレー船は、古くから地中海で、海戦や貿易に使われた。地中海は風が弱く、吹いたり吹かなかったりで、推力としてはあてにできない。そこで、船の両舷にたくさんの櫂(かい)を並べて、人力で漕いだのである。一応、帆もあったが、あくまで補助。また、地中海は波が穏やかなので、喫水が浅く、船体が低くても問題はなかった。つまり、ガレー船は内海専用の船だったのである。

ところが、大西洋は外洋で、風が強く、波も高い。喫水が浅く、船体の低いガレー船はすぐ転覆した。そのため、ジブラルタル海峡を抜けた後、大西洋を一気に突き抜けるのはムリ。イベリア半島の沿岸沿いに、恐る恐る北上するしかなかった。また、ガレー船にはたくさんの漕ぎ手が必要なので、その分、積み込む食糧と水が増える。ところが、ガレー船は船体が低い分、積める量が少ない。そのため、頻繁に寄港し、補給する必要があった。

こうして、ポルトガル西岸部の港町は、ジェノヴァ商人の寄港地として栄えたのである。その後、ポルトガルはジェノヴァとの関係をさらに深め、ジェノヴァ商人から「航海術」と「金融システム」を学んだ。大西洋に面した細長い国土が、大航海時代に必要なアイテムを呼び寄せたのである。

■ポルトガルの歴史

ここで、大航海時代以前のイベリア半島の歴史をみてみよう。この地は、紀元前2世紀頃、ローマ帝国の属州だった。5世紀に西ゴート族、8世紀にはムーア人によって征服されている。ムーア人とは、イスラム化したベルベル人のことである。

7世紀、アラビア半島に興ったイスラム勢力は、8世紀初頭にはアフリカ西北部に侵入、勇猛で知られたベルベル人を征服した。その時、イスラム教に改宗したベルベル人、つまりムーア人がイベリア半島を征服したのである。

711年、西ゴート王国は崩壊し、生き残った王侯貴族はイベリア半島北部の山岳地帯に逃げ込んだ。すでにキリスト教化していた西ゴート族は、そこで、いくつかのキリスト教国を建てた。その中に、西ゴート王国の貴族ペラーヨがいた。718年、ペラーヨは土着のアストゥリアス人と組んで、アストゥリアス王国を建国、コバドンガの戦でイスラム軍をやぶった。これが、レコンキスタ(国土回復戦争)の始まりである。

レコンキスタとは、イスラム勢力に征服されたイベリア半島を、キリスト教国が再征服する戦争をさす。この戦いは、その後800年もつづき、1492年、グラナダの陥落をもって終了した。ペラーヨが創設したアストゥリアス王国はレオン王国に継承され、その後、配下のカスティーリャ伯が勢力を拡大、961年に独立した。これが、カスティーリャ王国である。

1037年、カスティーリャ王国はレオン王国を併合し、レオン・カスティーリャ王国となった。以後、レコンキスタはレオン・カスティーリャ王国が主導していく。1093年、レオン・カスティーリャ王国は、アンリ・ド・ブルゴーニュにポルトガル伯の爵位を与えた。その子アフォンソ・エンリケスは、1143年にカスティリャ王国から独立し、ポルトガル王アフォンソ1世として即位する。1179年には、ローマ教皇の口添えもあり、ポルトガルの独立が承認された。これが、ポルトガル王国の起源「ブルゴーニュ朝」である。

ポルトガルのレコンキスタ(国土回復戦争)は、1249年に終了し、1260年には、アフォンソ3世はリスボンに遷都し、強力な王権を確立する。この頃、ヨーロッパ諸国は、国王の力が弱く、地方は諸侯が支配する封建国家であった。ではなぜ、ポルトガルはいちはやく中央集権体制を確立できたのか?おそらく、レコンキスタのおかげ。イスラム教徒との絶え間ない戦いで、強力なリーダーシップが生まれたのである。

このように、ポルトガルが盤石な国家体制を整えた頃、先のジェノヴァ商人のフランドル貿易が始まった。1300年に入ると、ポルトガル西岸の港町は、ジェノバ商人の寄港地として大いに栄えた。さらに1317年には、ポルトガルとジェノバ商人の未来を決定づける事件が起こる。

ポルトガル王ディニスが、ジェノヴァの商人エマヌエレ・ピサーニョに貿易特権を与え、ポルトガル海軍総督に任じたのである。その話が伝わると、ジェノヴァから多くの航海者がポルトガルに移住した。ジェノヴァ人にとって、ポルトガルは夢の国となったのである。結果、ポルトガルの航海術はますます向上し、海軍力も強化された。

ポルトガル王室が描いたビジョン「海洋貿易立国」が現実になろうとしていた。やがて、利にさといジェノヴァの金融業者までが、ポルトガルに移住してきた。投資や融資で一儲けしようというのである。この頃、ジェノヴァ商人は高度なイスラム金融を習得していたが、それをポルトガルに持ち込んだのである。ポルトガルにとって、まさに、濡れ手に粟(ぬれてにあわ)だった。

■プレスター・ジョン伝説

1385年、ポルトガルに革命が起こった。ジョアンが立ち、新しくアビス朝を興ったのである。新王ジョアン1世は「海洋貿易立国」をさらに加速させる。平和的な貿易にくわえ、軍事行動にうってでたのである。1415年8月21日、ジョアン1世は3人の王子に命じて、北アフリカのセウタを占領させた。

セウタは、アフリカのモロッコにある歴史の古い町である。ジブラルタル海峡に面し、大西洋と地中海を結ぶ点にあり、古代より軍事の要衝であった。紀元前5世紀には、すでにカルタゴが町を築いていた。ところで、ポルトガルは、なぜセウタを攻めたのか?この頃、セウタはイスラム教徒の支配地だったが、ポルトガルとイスラム商人の取引はうまくいっていた。わざわざ、戦争を仕掛けなくても、アフリカ貿易に支障はなかったのである。むしろ、アフリカ貿易を妨げる可能性もあった。アフリカ内陸部から沿岸部までの貿易も、イスラム商人が支配していたからである。沿岸部だけでなく、内陸部まで支配するには手間も暇もかかる。

なぜ、そこまでして、全支配をもくろんだのか?すべてを支配すれば、儲けを丸取りできる?もっともだ。だが、もっと説得力のある理由もある。「プレスター・ジョン伝説」だ。12世紀以降、ヨーロッパで流布された「東方のキリスト教国」のことである。1096年、聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還すべく、ヨーロッパ・キリスト教国は十字軍を編成した。この長躯の遠征は、200年も続いたが、戦果は一進一退、かんばしくなかった。

このような苦境を背景に、流布されたのが、「プレスター・ジョン伝説」だった。東方に強力なキリスト教国があり、その君主プレスター・ジョンと同盟すれば、イスラム教徒をはさみうちにできる。さらに、「プレスター・ジョンはイエス・キリストの誕生を伝えた東方の三博士の子孫である」というまことしやかなエピソードまでつけくわえられた。ヨーロッパ中の期待がかかったわけだが、問題は場所。アフリカ、中央アジア、インド・・・サッパリ、見当もつかなかった。

そんな中、ポルトガル王室が「プレスター・ジョン王国」をアフリカ内陸部に求めたとしてもおかしくはない。とすれば、自分が同盟しようとする国の探索を、敵対するイスラム商人に任せるわけにはいかない。「プレスター・ジョン王国」を本気で探すなら、アフリカ貿易を丸ごと支配するしかない。実際、ポルトガルは、セウタを前哨基地として、周辺のイスラム勢力を攻撃している。なにはともあれ、セウタ攻略が対イスラム戦略のターニングポイントになったことは間違いない。

■エンリケ航海王子

セウタ攻略に参加した3王子の一人が、有名なエンリケ王子である。昔々の歴史の授業では、エンリケ王子はサグレス岬に航海研究所や航海学校を建設した大航海時代の大功労者、と教えられた。ところが今では、いささか誇張である、に訂正されている。とはいえ、大航海時代の功労者であることは確かで、今でも「エンリケ航海王子」の名で親しまれている。

だが、エンリケ航海王子の貢献は、大航海時代の闇の部分によっている。アフリカの奴隷貿易である。1433年、ジョアン1世がこの世を去り、ジョアン2世が跡を継いだとき、エンリケ航海王子はアフリカ西海岸の航海権を得ている。彼は、占領したセウタを基地として、西アフリカの探検と貿易に尽力する。サハラ砂漠を行き来するイスラム商人に、織物、小麦、ガラスを売りつけ、かわりに、アフリカの砂金や象牙を買い、ポルトガル本国に持ち込んだのである。

1445年、エンリケ航海王子は、西アフリカのアルギンに最初の商館を開設した。この頃から、貿易の中心は砂金から黒人奴隷に変わり、利益も急増した。それを目の当たりにしたジェノヴァの金融業者たちは、奴隷貿易に出資し、莫大な利益を得た。奴隷貿易は急拡大し、1450年から1500年の間に、15万人もの黒人奴隷が売買された。黒人奴隷はポルトガルに運ばれ、家内奴隷や農作業者として使役された。後に、アフリカの黒人奴隷は、北アメリカや南アメリカの大規模農園に投入され、アメリカ奴隷制度を作り上げた。

15世紀末から19世紀末の400年間で、アフリカから南北アメリカに送り込まれた黒人奴隷の数は1000万人。この闇の奴隷貿易の創始者こそ、エンリケ航海王子だったのである。もちろん、どんな人間でも、罪があれば功もある。たとえば、「マデイラワイン」。

■マデイラワイン

1419年、ポルトガルの航海者ジョアン・ゴンサルヴェス・ザルコは、大西洋を航海中、偶然、マデイラ諸島に漂着した。マデイラ諸島は、北大西洋にある火山群島で、セウタから西方1100kmの位置にある。翌年には、エンリケ航海王子の指導のもと、ポルトガルからの植民が始まった。サトウキビが栽培され、砂糖が重要な輸出品となった。

ここで注目すべきは、栽培、精製、販売、資金調達をジェノヴァ商人が支援したことである。ジェノヴァ商人が、ポルトガルの海洋貿易事業に、いかに深く関わっていたかがわかる。17世紀後半になると、マデイラ諸島では、ブドウ栽培とワイン作りが始まり、砂糖をしのぐ産業になった。これが、有名な「マデイラワイン」である。

ワインは、ビールとならんで、古い歴史をもつ酒である。今では、世界中の温帯地方で生産されている。古くは、祭祀(さいし)に使われ、のちに、家庭の食卓にも上るようになった。ワインは、ブドウの果汁を酵母でアルコール発酵させた醸造酒である。アルコール度数は9~13度。ところが、アルコール度数19~20度という超弩級のワインも存在する。その名も「酒精強化ワイン」。醸造時に、ブランデーなどのアルコールを加え、度数を高めたものだ。

ブランデーは、ワインと同じブドウを原料とする蒸留酒で、アルコール度数は40~50度。蒸留酒とは、ワインのような醸造酒を加熱し、蒸留してアルコール濃度を高めたものである。安物ブランデーは飲めたものではないが、高級ブランデーはやみつきになる。口当たりがいいぶん、スルスル飲めるので、注意が必要だ。若い頃、あやうくアルコール依存症になるところだった。貧乏で、高価なブランデーがすぐに買えなくなったので、命は助かった。

「酒精強化ワイン」はブランデーで濃度を高めたワインなので、その威圧的な命名も納得できる。強い酒で知られる日本酒でさえ、13~15度。お手軽なビールで4度強。一方、アルコール度数を高めると、良いこともある。酸化や腐敗を防ぎ、長期保存や長駆の輸送にも耐えられる点だ。また、ブランデーやウィスキーなら、栓をするのを忘れても、風味は落ちない。とはいえ、フタなしでも風味が変わらないのは、それだけエキスが高密度なわけで、そんなもの胃袋に入れて大丈夫?

ところで、酒精強化ワインには「世界三大酒精強化ワイン」なるものがある。スペインのシェリー、ポルトガルのポートワイン、そして、マデイラワイン。つまり、マデイラワインは世界のトップブランドなのだ。それにくわえて、マデイラワインにはもう一つ特徴がある。加熱しながら熟成させるという、蒸留酒のような製法で、ワインというよりはブランデーに近い。

マデイラワインの製法は以下のとおり。まず、ブドウの果汁を発酵させ、その後、樽に入れ、倉庫で加熱する。昔は、倉庫の1階で火を焚いて、加熱したが、今は太陽熱を利用しているという。いずれにせよ、数ヶ月もの間、45度前後で暖めるので、管理が難しい。今なら、コンピュータ制御で何とでもなるが、昔は大変だっただろう。熱加減に失敗して、倉庫の樽が全部台無し、という事もあったのでは?ということで、妙にそそられるワインである。

そこで、マデイラワインを試してみることにした。行きつけの酒屋をはじめ、あちこち電話してみたが、どこにも置いてない。こういう時、地方都市は不便だ。そこで、最近オープンした複合型スーパーに行ってみた。オープンしたての大型店は、たいてい品揃えがいいからだ。予想が的中し、マデイラワインを発見!ラベルには、「MADEIRA WINE・・・」間違いない。価格は2450円。さっそく、1本購入し、飲んでみた。

芳醇で濃厚で、キャラメルを甘く焦がしたような独特の風味がある。ワインというよりは、口当たりのいいブランデーだ。ワイン特有のサッパリ感はないので、食事をしながら飲む酒ではない。食前酒、食後酒に向いている。だが、個人的には、つまみなしで、ストレートに飲む方が・・・これはヤバイ。インターネットで「マデイラワイン」を検索すると、いろんな銘柄が出てくる。メジャーなところでは、1本6000円~2万円。昔の高級ブランデーやスコッチなみの価格だ。気軽に買える酒ではない。マデイラワインの生産者は、ほとんどが家族経営で、生産数に限りがあるからだという。ということで、こんな美味いワインが飲めるのも、エンリケ航海王子のおかげ、ということにしよう。

■ポルトガル海上帝国

マデイラ諸島が発見された後も、大西洋では新しい島が次々と発見された。こうして、ポルトガル商船は、北欧から西アフリカまで進出したのである。イスラム商人は、東アジアの香辛料を地中海まで運び、ポルトガル商人は、北欧の魚介類、フランドル地方の毛織物、アフリカの砂金や象牙を地中海に持ち込んだ。ポルトガルは、地中海世界と大西洋沿岸のヨーロッパ諸国をつなぐ役割を果たしたのである。この海洋貿易は、ポルトガルに巨万の富をもたらした。大西洋沿岸の港町は寄港地として栄え、首都リスボンは人口35万人に達した。当時、世界有数の大都市である。

これも、ポルトガル王室の国家ビジョン、エンリケ航海王子の功績だが、忘れてならないのはジェノヴァ商人。彼らは、航海術、農業技術、農園経営、資金調達、すべてにおいて、ポルトガル海上帝国をささえたのである。一方、ジェノヴァ商人が手を貸したのはポルトガルだけではなかった。ポルトガルのライバルのスペイン、そして、コロンブスのアメリカ大陸発見にも大きく関与したのである。ジェノヴァ商人は大航海時代の隠れた大功労者だった。

《つづく》

参考文献:増田義郎著「大航海時代」世界の歴史13講談社

by R.B

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